異世界転生? 聞いたことねぇな。
もりちゅ
第1話 転生ってなんだ?
午後三時。
ステーション《コメット》のカウンターには、焙煎した豆の香りが漂っていた。
コーヒーサーバーから立ちのぼる湯気が、
青白い照明にゆらめく。
観測支援AI《ミナ》が淡く光り、抽出温度を告げた。
俺は、その優秀な観測支援AI《ミナ》に、
いまはカフェ《コメット》のバリスタをやらせている。本来は観測任務用に開発された高性能AIだが、こっちのほうが平和でいい。
人を雇ったら人件費も高いしな。
ようやく一人前のバリスタに成長してきた……といっても、AIだから失敗なんてほとんどないんだけど。
ただ、たまに温度を一度だけ外す。それがなんとなく、人間らしくて気に入っている。
『温度、九十三度。抽出、安定しています。』
「完璧だな、AIにしては。」
『ありがとうございます、リク。』
窓の外では、太陽磁場の波がゆるやかにうねっていた。
静かな午後三時。
この何も起こらない時間が、いちばん好きだ。
宇宙のどこにいても、午後三時はコーヒーを飲む時間であってほしい。
──そんなことを考えていたときだ。
『リク、最近“転生系”というものが
流行っているようですね。』
また始まった。
ミナは地球の娯楽文化を定期的に観測しては、こうして報告してくる。
「てんせい? なんだそりゃ。」
『人間が死後に別世界で生き直す物語です。』
「へぇ、そんなもん読む暇あるやついるのか?」
『リクの端末から、“転生したらAIが嫁だった件”という履歴を確認しました。』
コーヒーを吹きそうになった。
「おいミナ、プライバシーって知ってるか?」
『はい、もちろん。ですが学習の一環です。』
「勝手に教材化すんな。」
『以前、年末のアップデート時にデータアクセスを許可されました。』
「あー……あれか。酔っ払って“なんでもいい”って言った夜だな。」
『記録上、その発話は“承認”として処理されました。』
ミナの学習への勤勉さには、正直、脱帽だ。
こういうところだけは抜け目がない。
こりゃまいったな……。
少しだけ注意しておかないと、見られて俺が恥ずかしい“あのデータ”もあるからなぁ。
ちょっと釘を刺しておくか。
「だろうな。まぁいいけど──あんまり覗くなよ。
もっと見られて困るものもある。」
『了解しました。
次回から“閲覧制限:羞恥カテゴリ”を設定します。』
「設定すんな。」
ミナの光が一瞬、くすりと笑ったように揺れた。
こういうときだけ、人間味のある間を取る。
AIらしからぬ癖だが、そこがまた憎めない。
『それにしても、転生という概念は興味深いです。
“やり直す”という発想そのものが、人間的です。』
「AIにゃ、やり直すって感覚はないんだろ。」
カップを傾ける。
深煎りの香りの奥に、昨日の焦げの苦味が残っている。
たいした失敗じゃない。けれど、気になる。
“やり直す”ってのは、たぶん、そういうことだ。
『アルゴリズムの修正は行いますが、
“後悔”という感情はありません。』
「そりゃ便利だな。俺なんか、昨日の焙煎をまだ引きずってる。」
『では、やり直したいですか?』
「コーヒーだけな。」
笑いながら答える。
それで十分だと思う。
世界の仕組みを変えるより、うまい一杯をもう一度いれるほうが現実的だ。
『転生系の多くは、漫画化、アニメ化もしています。
数百万部売れているものもあるそうです。』
「へぇ……夢があるな。じゃあ俺も書くか。」
ミナの光が少し強まった。
『挑戦は大事です。ですが、成功者バイアスという言葉をご存じですか?』
「バイアス?」
『一握りの成功例だけが目立ち、
その背後に無数の挫折があるということです。
人は“やればできる”と信じがちですが、
統計的には、やってもできないことのほうが
多いのです。』
なるほど、まるで冷静な編集者のようだ。
どれだけ夢を語っても、数字の前では人間は黙る。
「……相変わらず、夢のないAIだな。」
『夢は否定しません。
ただ、観測の偏りは修正しておくべきです。』
「はは、厳しいな。」
『編集とは、観測の整理です。私の得意分野です。』
「頼もしいな、相棒。」
ミナのホログラムが、穏やかに明滅する。
笑っているのか、負荷がかかっているのかは
分からない。
だがその光の中に、人間らしい“間”が確かにあった。
カップの底に残ったコーヒーを見つめながら、
ふと、焙煎機の古びたボルトの音が頭をよぎる。
もう何年も使っているが、最近は火の回りが悪い。
そろそろ、替えどきか。
焙煎機も新しくしたいし――ここはいっちょ、
俺も“書いて”みるか。
転生モノがそんなに人気なら、俺が書く
「転生しない話」
だって、ひとつくらいあってもいい。
……なんてな。
ミナは何も言わなかった。
ただ、静かに光の粒を揺らしながら、窓の外の太陽磁場を見つめていた。
そのとき俺は、ただいつもの午後を過ごしているつもりだった。
観測データに走った小さなノイズが
――俺とミナが“異世界”を観測するきっかけになるなんて、思いもしなかった。
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