第5話:寂滅の残響

ユリウスは俺を赦した。だから俺は、もう存在しない――――――――


[Ⅰ:帰還の影]


 何日経ったのだろうか。

 寝て、起きて、食って、寝る。ただそれだけの日が続いていた。

 何も考えず、宿舎から時折外へ出てみては、意味もなく冷たい風を浴びていた。

 そんな時間を重ねていた。


 その日、風はほとんど吹いていなかった。

 空気が腐臭を含んで夜の底に沈殿していた。

 遠くで崩れかけた橋が軋む音がした。砂混じりの灰が頬を打ち、瓦礫の隙間から鈍い光が洩れている。

 私は天幕の外で足音を聞いた。


 彼が帰ってきた。

 軍靴はもう原型を留めていない。制服の裾は焦げ、遺った手の甲には古い火傷が固く残っている。

 それでも、目だけが異様に澄んでいた。かつての苛立ちや怒り、後悔の粒子が、すべて沈殿して消えているようだった。


 「戻ってきたのか……」


 声に力が籠らなかった。

 喜ぶべき友の帰還。しかし私は喜べなかった。なぜなら帰ってきたのはかつてのゼル・ノイシュではない。そしてそれを待っていた私も、もはや私ではなかったから。


 彼はゆっくりと頷いた。

 その動作の奥に、終わりの予感があった。

 理解していた。もう、何を言っても意味はない。

 赦しとは、すでにこの世で完結してしまった過去の妄想なのだ。



[Ⅱ:灰に祈る]


 夜。瓦礫の合間に残された骨組みの上で、私たちは火を起こした。

 燃えるものは乏しく、湿った木片と布の端がかろうじて光をつなぐ。

 炎は揺らぎ、私たちの影を地面に二重に映した。ひとつは人の形、もうひとつは崩れた建物の影に溶け込んだ。どちらがどちらかわからない。


 彼は口を開いた。


 「ユリウスは、俺を赦した」


 それだけだった。


 赦し。その言葉の輪郭を、何度も心の中でなぞった。

 赦された者は、同時に赦しを与えた者と同化する。

 罪も、区別も、ここではもう不要なのだ。

 赦されることは、もはや存在を失うことと同義になっていた。


 彼が胸元から何かを取り出した。

 それは焼け焦げた小さな布切れ。それはユリウスが身につけていた包帯の端。

 彼はそれを両手で包み、小さな祈りのように額に当てた。


 「ユリウスは俺を見ていてくれたんだ。最後の瞬間まで」


 炎が彼の顔を照らし、その頬に光と影が交互に走った。



[Ⅲ:儀式]


 彼が勢い良く立ち上がった。

 火の光の中で、彼の輪郭がゆらめき、体の境界が曖昧になる。

 私は直感的に理解した。これから起こることが、誰のための行為でもないと。

 それは救済ではなく、同一化だ。存在を一つの声へと還すための儀礼。最も大切なものを、永遠にすることを試みる究極の行為。


 彼は胸を裂くように呼吸をした。

 その吐息は白い。かすかに震えた彼の体が、最後に見た生き物らしさだった。

 指先が古い傷跡の上をなぞる。そこにまだ残る痛みが、何かの境界線であるかのように。


 「ユリウスは言ったんだ。"痛みは声の裏返しだ"って」


 彼は微かに笑った。


 「だったら、俺は声を取り戻す。ユリウスと帰るんだ」


 刃が光を受けた。

 だがその動作は衝動ではなかった。

 儀式のように、手順は整然としていた。


 私は目を逸らせなかった。眼前の光景が、どこか荘厳にすら見えた。


 彼は、自身の身体をまるで聴くかのように指で触れていた。

 それは肉体を壊すことが目的ではなかった。

 それは、かつて彼女が自分を癒したときの反復。逆方向の治癒。

 癒すことによって得た安寧を、それによって信じていた存在を、今度は削り取ることで彼女へ返す。


 彼は小さな声で呟いた。


 「いま、帰るから……」



――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[Ⅳ:観察者の断片]


 私はペンを持つ手を震わせながらこれを書いている。

 だが、またしても言葉が意味をなさないのだ。

 筆記という行為が、あまりにも現実を汚しているように感じられるのだ。


 何を書き記したところでそれは記号の羅列にすぎない。無意味がひたすら積層していくだけに感じる。


 "救われた"という言葉を、どう記述すればよいのか。

 主観の内で成立した救済を、客観の言語はどこまで翻訳できるのか。


 彼の呼吸は浅くなり、目は遠くを見ていた。

 その視線の先には何もない。だが彼は明らかに"何か"を見ていた。

 ユリウス。あるいはその名に仮託された、永遠の他者。


 紙面を見つめ、思考を削ぎ落とし、最小限の言葉で残そうと思う。


 私は彼を救わなかった。だが彼は救われたと言った。


 彼は死ぬ。いや、彼女と共に、永遠へと還っていく。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 文字は震え、行は波打っている。だがその一行だけは奇妙に静かだった。

 まるで、意味を超えた場所に刻まれているように。



[Ⅴ:寂滅の残響]


 火がゆっくりと消えていった。

 風もなく、音もない。夜が再び地上を覆う。

 彼の身体はもう動かない。

 その口元には、かすかな笑みが残っていた。

 それは満足ではない。赦しの余韻。あるいは、声の断片。彼女、そして救いそのもの。


 私は彼のそばに膝をついた。

 あらゆる祈りの形式が、無意味になっていた。

 神の名も、死の名も、彼等の名も、呼べなかった。

 ただ冷たい指を握り、ゆっくりとその温度を確かめた。


 「ユリウスは俺を赦した。だから俺は、もう存在しない」


 彼の最後の言葉が、空気の中でほどけていく。

 存在しない、ということ。

 それは、赦しが完璧に遂行されたことを意味していた。

 

 彼の身体が、ゆっくりと光の粒に分解されていくように見えた。


 寂滅の残響の最中、私という形だけが佇んでいる。



[Ⅵ:終焉]


 朝が来た。

 綺麗な景色と、暖かな日差しが心地良い。

 光が地面を照らし、灰が金色に見える。

 全てが終わった。

 私はノートを閉じ、ペンを折り、紙片と共に火の跡に埋まろうと思う。


 風が吹いた。灰が舞い上がり、どこか遠くへ流れていった。

 息を吸い込んだ。

 世界の匂いが戻ってきた。油と血と鉄と、そして静けさ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――

以上

抜粋及び一部校正、再編


以下補遺


 救済という語、否、全ての言葉は、もはや彼の中で意味を持たなかった。

 赦す者と赦される者が同化した瞬間、全ての矛盾が意味を発散させ、言葉は、果てに生は機能を失う。

 おそらくリアン・クロウは理解していた。救いとは、傍観者を罪過の果てに消し去るかたちのことだ。


「彼の身体が、ゆっくりと光の粒に分解されていくように見えた」


 それは幻覚かもしれない。

 だが、彼には確かに声が聴こえていた。

 "痛みは、声の裏返しだ"と。


 彼はもう何も書かなかった。

 書かないこと。それこそが、最後の記録であり、あの選択こそが、彼にとって最後の責務であったのだろう。


 確かに救済は成就していた。

 だが記録に残るのは絶滅のみ。

 その齟齬こそが、世界の唯一の証言だった。

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