EP 20

破滅の序曲(ブラック・サーズデー)

1929年(昭和4年)、10月。

箱根の「要塞」は、嵐の前の静けさに包まれていた。

山小屋の中では、二人の老人が、一つの「日付」が訪れるのを、息を殺して待っていた。

坂上真一(69歳)。

児玉源太郎(77歳)。

「……本当に、何もしないんだな」

坂上は、水冷システムでかろうじて稼働するノートPCの画面を見つめていた。

画面の隅には、SSD(記憶媒体)の残り寿命を示す【9%】という、絶望的な数字が点灯している。

彼の「写経」作業は、ほぼ終わっていた。

だが、虫食いだらけの「未来の歴史書」は、この「世界恐慌」の詳細(ディテール)を失っている。

彼に分かるのは、**「10月24日、木曜日」**に、ニューヨークで「破滅」が始まる、ということだけ。

「何もしない、のではない」

児玉は、火鉢の炭をいじりながら、冷徹に答えた。「『膿(うみ)』を、出させる。……貴様の力で、この国から『精神論』という癌を切り取るには、この『大混乱(ショック)』が必要だ」

「その『膿』で、国民が死ぬんだぞ」

「……」

児玉は、答えなかった。

彼は、陸軍内部の「皇道派(こうどうは)」(荒木・真崎ら)を粛清するため、この経済的「大災害」を「政治的兵器」として利用する覚悟を、すでに決めていた。

1929年10月24日、深夜。(日本時間)

ニューヨーク市場が開く、運命の時。

坂上は、SDR(ソフトウェア無線機)のアンテナを、大西洋に向けた。

彼が傍受しているのは、軍事暗号ではない。

ニューヨークとロンドン、パリを結ぶ、海底ケーブルを流れる「国際金融電信」だ。

PCは、SSDの寿命を温存するため、AI解析(アナライズ)は使えない。

坂上は、ただ、SDRの「滝(ウォーターフォール)」表示に現れる、電信の「密度」と「パターン」を、自らの「経験」だけで読んでいた。

「……始まった」

午前0時(日本時間)。

SDRが捉える電信の量が、異常なまでに「飽和」し始めた。

それは、日露戦争の海戦時にも匹敵する、パニック的な「情報の洪水」だった。

『……PANIC. WALL STREET. SELL. SELL. SELL.』

『……MARKET COLLAPSE. MARGIN CALL.』

暗号化すらされていない、剥き出しの「悲鳴」が、ノイズの海を埋め尽くす。

坂上は、PCが壊れるリスクを承知で、AIに最低限の「キーワード抽出」を命じた。

画面に、断続的に、世界が崩壊していく「単語」が浮かび上がる。

『DOW JONES, CRASH』

『BLACK THURSDAY』

「……予言は、成就した」

坂上は、電源を落とした。

もはや、観測(かんそく)の必要もない。

児玉が、静かに立ち上がった。

「……坂上君。俺は、東京へ行く。『手術』の準備だ」

「……」

「貴様は、その『目』で、次の『癌』を監視し続けろ」

児玉が指差したのは、壁の年表。

【1931年: 満州事変】

1930年(昭和5年)。

「昭和恐慌」が、日本全土を覆い尽くした。

ニューヨークの「死」は、即座に日本に伝染した。

児玉の思惑通り、井上準之助の「金解禁」政策は、この大津波に真正面から突っ込む最悪の「自殺行為」となり、日本経済は完全に沈没した。

農村は飢饉に陥り、都市には失業者が溢れた。

国民の怒りは、無策な「政党政治」と「財閥」に向けられた。

そして、児玉は、その「怒り」を、巧みに「誘導」した。

彼は、自らが育てた「合理主義者(リアリスト)」――永田鉄山(統制派)を通じて、陸軍内部で「情報戦(プロパガンダ)」を仕掛けた。

「なぜ、日本はかくも脆(もろ)かったのか!」

「それは、陸軍上層部に、荒木貞夫(あらきさだお)ら、旧態依然たる『精神論』にすがる者たちがいたからだ!」

「来るべき『国家総力戦』に、経済のビジョンも持たぬ者に、国は任せられぬ!」

児玉のシナリオ通り、国民の不満は「政党」へ、そして陸軍内部の不満は「皇道派」へと、見事に集中していった。

永田鉄山ら「統制派」が、陸軍内部の主導権を握り、「皇道派」を粛清する日は、近いかに見えた。

だが、その頃。

箱根の「要塞」で、坂上真一は、別の「ノイズ」に気づいていた。

「……児玉さんは、間違っている」

坂上は、SDRのアンテナを、満州・奉天の「関東軍司令部」に、固定していた。

彼は、この一年間、ただ一人の男の「電信」だけを、追い続けていた。

石原莞爾(いしわらかんじ)。

「……こいつ、狂っているが、合理的すぎる」

坂上は、PCの「残り寿命【7%】」を削りながら、石原が発信する暗号電文を、AIに解読させていた。

石原は、児玉や永田とは「別の結論」に達していた。

『……恐慌ハ、欧米(おうべい)資本主義ノ限界ヲ示シタ』

『……政党政治ニハ、モハヤ日本ヲ救エナイ』

『……我ガ国ヲ救ウ、唯一ノ道ハ、満蒙(まんもう)ノ資源ヲ、我ラ(軍)ノ手デ確保スルコトニ在リ』

「……児A玉さんは、恐慌を『国内の癌(皇道派)の切除』に利用しようとしている」

「だが、石原は、恐慌を『国外への侵略(満州事変)』の『大義名分』として、利用しようとしている……!」

二人の「天才」(児玉と石原)が、同じ「恐慌」という「現実」を、全く逆の「目的」のために、利用し始めていた。

そして、SDRが、決定的な「暗号」を傍受した。

石原から、東京の「陸軍中央」――永田鉄山ら「統制派」の一部に送られた、極秘の電信だった。

『……トキハ熟シタ。満州ニテ“火種(ひだね)”ヲ用意ス』

『……中央ハ、コノ“結果(けっか)”ヲ、追認(ついにん)サレタシ』

坂上は、凍りついた。

永田鉄山(統制派)は、児玉の「皇道派粛清」のシナリオに乗りつつ、同時に、石原の「満州での暴走」を、満州の資源確保のために「黙認」しようとしている。

「……二重スパイだ、永田……!」

児玉は、永田に「裏切られ」ている。

坂上は、壁の年表を見た。

【1931年: 満州事変】

その日付が、もう、すぐそこまで迫っていた。

PCの画面が、激しく点滅した。

『SSD LIFE: 5% REMAINING』

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