EP 18
1923年(大正12年)9月1日、夜。
箱根の「要塞」は、未だ余震に揺れていた。
「……ハァッ……ハァッ……」
児玉源太郎(71歳)が、ついに鞴(ふいご)の手を止めた。
坂上真一(63歳)は、SDR(ソフトウェア無線機)からの「偽の勅令(ちょくれい)」の送信を停止し、即座にノートPCをシャットダウンした。
水力発電所は無事だったが、渓流から引き込む「水冷システム」が余震でダメージを受け、冷却能力が低下していた。坂上が行った「偽の勅令放送」という高負荷な処理は、児玉の「手動冷却(ふいご)」が無ければ、CPUを即座に焼き切っていただろう。
山小屋は、PCの停止と共に、不気味な静寂に包まれた。
坂上は、黒い画面に映る自分の顔を見た。
彼が守ろうとした「祖父の記憶」――広島の「キノコの雲」の画像データは、もう、どこにもない。
「……終わった」
坂上は、自分の「戦う動機」の一部が、物理的に『欠落』したことを痛感していた。
「……いや、終わっていない」
児玉が、荒い息の下で、旧式の電信機を指差した。
彼が密かに東京に放っていた「間諜(スパイ)」からの返信が、ノイズ混じりに入り始めていた。
『……帝都、未ダ混乱』
『……ダガ、陸軍ノ一部隊ガ“謎ノ無線傍受”ヲ理由ニ、出動ヲ停止セリ』
『……“天ノ声(てんのこえ)”ノ噂、軍上層部ニ広ガル。統制、一時的ニ回復ス』
「……効いた、か」
坂上の「偽の勅令」は、暴走しかけた軍部を「停止(フリーズ)」させることに成功した。
児玉は、その「隙」を突いて、「流言飛語(デマ)である」という「事実」を、自らの人脈(永田鉄山ら合理主義者)を通じて流し込んだ。
史実で起きたはずの、震災直後の大規模な虐殺は、最小限に食い止められた。
「坂上君」
児玉は、水を飲み干し、坂上を見た。「貴様の『神の声』は、確かに歴史を『修正』した。だが……代償も大きかったようだな」
坂上は、PCの筐体(きょうたい)を撫でた。
「……SSD(記憶媒体)の劣化が、加速している。高負荷をかけたせいで、物理的にチップがイカれ始めた」
「キノコの雲」の画像データだけではない。
データベースのあちこちで、「欠落(ロスト)」が始まっていた。
「……もう、無理はさせられん」
坂上は、このPCが「神の目」であると同時に、触れれば壊れる「ガラス細工」でもあることを、改めて認識した。
時は流れた。1928年(昭和3年)。
日本は、関東大震災からの復興を遂げ、束の間の「モダン都市」の享楽に浸っていた。
箱根の山小屋。
坂上真一は、68歳の老人となっていた。
彼の「聖域」は、児玉の手によって、さらに厳重な「陸軍技術研究所・箱根分室」となっていた。
あの日以来、坂上はPCの「高負荷な使用」――AIによる未来予測シミュレーションや、SDRによる「欺瞞送信(ジャミング)」を、固く禁じていた。
彼の仕事は、劣化したSSD(記憶媒体)から、まだ読み出せる「未来の警告(テキストデータ)」を、紙に書き写すことだけになっていた。
「……まるで、写経だな」
PCは、もはや「神の目」ではなく、「虫食いだらけの古い経典」だった。
その日、児玉源太郎(76歳)が、軍服姿で山小屋を訪れた。
彼は、坂上の救命処置と現代医学の知識(アスピリンの常用など)により、史実の死を乗り越え、今や陸軍の「長老(フィクサー)」として、隠然たる力を持っていた。
「……『種』の報告だ」
児玉が、火鉢にあたりながら言った。
「まず、海軍(ウミ)の山本五十六。彼は、ロンドン軍縮会議の予備交渉で、対米強硬派を抑えるのに必死だ。貴様の『航空主兵論』は、彼の中で完全に根付いている。彼は『空母』こそが未来だと信じ、大艦巨砲(ながと・むつ)の“病”と戦っている」
「……良い傾向だ」
「次に、陸軍(リク)の永田鉄山。彼も、貴様の『国家総力戦』のレポートをバイブルとし、陸軍の『近代化』『機械化』を推し進めている。彼が中枢にいる限り、『精神論』の暴走はある程度、抑えられるだろう」
「……だが」
坂上が、最も懸念する男の名を出す。「石原莞爾は?」
児玉は、苦い顔をした。
「……それだ。石原は、貴様の『戦車と航空機による電撃戦』のレポートを、例の『最終戦争論』と結びつけ、今や『関東軍』の作戦参謀として、満州にいる」
坂上は、壁に貼った年表の「1931年: 満州事変」という文字を睨んだ。
「……奴が、やるのか」
「ああ。奴は、満州の『資源』こそが、永田の言う『国家総力戦』と、自らの『最終戦争』の鍵だと信じ込んでいる。……そして、永田もまた、石原の『暴走』を、内心で『期待』している節がある。資源確保のためにな」
最悪のシナジーだった。
坂上が蒔いた「合理性(永田)」と「技術(石原)」が、日本を「大陸侵略」という「史実通りの破滅」へと、逆に後押しし始めていた。
「止めなければ……」
坂上は、PCの電源を入れた。「石原の『謀略』の具体的な計画を、SDRで傍受し……」
その時。
PCの画面全体が、激しいノイズに覆われた。
SSD(記憶媒体)の警告(ウォーニング)マークが、点滅ではなく「点灯」に変わった。
『CRITICAL ERROR: SSD LIFE, 10% REMAINING』
(致命的エラー: SSDの残り寿命、10%)
「……もう、終わりか」
坂上は、絶望した。
「坂上君!」
児玉が、画面に映る「別の警告」を指差した。
それは、坂上が「写経」し終える前に、データが「欠落」し始めた、次の「巨大な分岐点」の警告だった。
【1929年 10月 24日】
【警告: 世界恐慌(グレート・デプレッション)】
【詳細データ: ニューヨーク株式市場(ウォール街)……(以下、データ欠落により判読不能)……】
「……なんだと」
坂上は、その日付を見た。「あと、一年もない。世界経済が、崩壊する」
「キノコの雲」の画像は消えた。
「ヴェルサイユ条約」の詳細は消えた。
そして今、「世界恐慌」の「発生メカニズム(なぜ、どうやって)」に関する詳細データが、目の前で『欠落(ロスト)』した。
彼の手元には、「1929年10月24日」という『日付』と、『世界恐慌』という『名前』だけが残された。
「……児玉さん」
坂上は、血の気が引くのを感じた。
「俺は……『経済的な地震』が、いつ来るかだけが分かる、ただの予言者になってしまった」
「そして、この『経済地震』こそが、石原莞爾の『暴走(満州事変)』の、最後の引き金になるんだ……!」
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