EP 17
失われた動機(キノコの雲)
1923年(大正12年)9月1日、夕刻。
関東大震災の余震が続く箱根の山小屋。
手動で鞴(ふいご)を動かし、汗だくになっている児玉源太郎(71歳)の傍らで、坂上真一(63歳)は、PCの画面に映る無情なエラーメッセージを、ただ見つめていた。
『ERROR: DATA CORRUPTED. SECTOR 11c...』
彼の「時限爆弾」は、震災の揺れによって、彼の最も個人的で、最も切実な「戦う動機」を奪い去った。
「……坂上君。どうした、そんな顔をして」
児玉が、鞴の手を止めて尋ねた。
「……キノコの雲が、消えた」
坂上は、幽霊を見たかのように呟いた。
「キノコ……?」
「俺の祖父の写真が……特攻機の画像が……広島の街の、あの『キノコの雲』の写真が、全て、このPCのデータベースから消えたんだ」
彼は、目を閉じた。「失われたのは、未来の『情報』だけじゃない。俺が何のために、この孤独な戦いを続けているのか……その『個人的な記憶』の裏付けが、飛んだんだ」
児上は、坂上の絶望を理解した。この男が、歴史を改変しようとする原動力は、「祖父の死」という個人的な悲劇と、その悲劇の象徴である「キノコの雲」のイメージだった。
「……坂上君」
児玉は、鞴を脇に置いた。「貴様のPCは、その代わり、この大震災で『情報独占(インフォメーション・アドバンテージ)』の機会を得たはずだ」
児上は、再び山小屋の外の渓流の音に耳を傾けた。
「東京の電信網は、壊滅だろう。この国で、今、最も正確な『情報(シグナル)』を掴んでいるのは、貴様のSDRだけだ」
坂上は、ハッと我に返った。
彼の「神の力」の源は、常に「情報の非対称性」にある。
大災害により、東京からの通信網が死滅した今、満州や欧州からの国際電文の「生(なま)のノイズ」を、日本政府よりも早く、そして正確に掴めるのは、彼だけだ。
「……そうだ」
坂上は、震える手でSDRの電源を入れ直した。
彼のPCは、水冷システムと手動の鞴による不安定な冷却で、限界に近い処理能力で動き始めた。
画面には、欧州からの問い合わせ、植民地からの救援要請、そして日本政府の中枢が発する「混乱」の電文が、入り乱れて表示される。
『……東京ノ状況、不明……』
『……政府中枢、機能停止ノ恐レ……』
『……軍部、治安維持ノタメニ出動スベシ……』
その時、坂上の目が、ある「電文」の断片を捉えた。
『……不逞鮮人(ふていせんじん)……暴動ヲ画策セリ……』
『……治安維持ノタメ、自警団ノ結成ヲ……』
「……まずい!」
坂上は、叫んだ。
「流言(りゅうげん)だ! 震災に乗じた『デマ』で、軍部と民間が暴走する! 史実では、これで数千人が……!」
「デマだと? 証拠は」
「俺のPCのデータベースに残っている! 『大震災後の流言飛語(りゅうげんひご)』という歴史の記録がな!」
坂上は、PCが消去せずに残しておいた、唯一の「未来の警告」を児玉に示そうとした。
しかし。
そのファイルを開こうとした瞬間、PCは激しくフリーズした。
そして、あの忌まわしい冷却ファンの異音(今は無い)の代わりに、PC全体が微かな「高周波ノイズ」を放ち始めた。
『ACCESS DENIED. CPU OVERLOAD.』
「……無理だ。この熱では、過去の歴史情報(データベース)を読み込ませるだけで、PCが物理的に焼損する!」
目の前には、デマによって引き起こされる「暴動と虐殺」の未来。
手の中には、それを阻止できる「事実(情報)」が記録されたPC。
だが、そのPCを動かすことは、その「命」を絶つことを意味する。
「……俺は、情報を『持っている』のに、使えないのか……?」
児玉源太郎は、この男が直面する、極限のジレンマを理解した。
「坂上君。使え。……その箱(PC)が壊れても、俺がその『情報』の価値を、政府に、軍部に伝える」
「無理だ! あんたの『口頭』での証言では、デマを信じた軍部の暴走を止められん! 彼らが信じるのは、目の前の『不審な鮮人』という『現実』だ!」
その時、坂上は、自分のPCの画面を、そしてSDRを睨みつけた。
彼の脳裏に、日露戦争での「最初の成功体験」が蘇った。
(情報の『リーク』だけではダメだ。軍部が**『動揺』し、『停止』**するほどの、物理的な『シグナル』が必要だ!)
「……児玉さん。鞴(ふいご)を動かしてくれ。PCは、情報リーク(リーク)ではない、**『欺瞞(ぎまん)』**に使う」
「欺瞞? 何を」
「この大混乱に乗じて、**『偽の命令(オーディオ・シグナル)』**を、東京の軍部中枢に流し込む」
坂上は、SDRに、東京の軍部が使用する「緊急周波数」を設定した。
そして、彼は、己の知識と、わずかなPCの電力を使って、史上最も危険な「音声データ(オーディオ・シグナル)」を作成した。
それは、まるで「天の声」のような、威厳に満ちた男の合成音声。
そして、その合成音声が、SDRを通じて、ノイズまみれの東京の空に放たれた。
『―――陸軍各隊ニ告グ。流言(りゅうげん)ヲ信ジルナ』
『全軍ハ、天皇陛下ノ勅令(ちょくれい)ヲ待テ。徒(いたずら)ニ騒乱ヲ拡大セヌヨウ、厳重ニ警戒セヨ』
『暴徒鎮圧ハ、政府ノ正式命令ニヨルベシ。……無断ノ出兵ハ、国体ヲ危ウクス』
それは、存在しない、天皇陛下からの「緊急勅令(ちょくれい)」という名の、偽の「情報シグナル」だった。
合成音声は、SDRの最大出力で、東京の空に響き渡った。
「……これで、数時間は稼げる」
坂上は、鞴を動かし続ける児玉に言った。
東京の軍部は、混乱した。誰が、どこから、この「神の声」を発したのか分からない。
だが、その「天の声」が、彼らの「暴走」に、一瞬の「停止(フリーズ)」をもたらした。
その一瞬の隙に、児玉は、信頼する諜報員を通じて、東京の要人に「流言飛語」の真相と、この「天の声」の裏にいる「フィクサー」の存在を、密かに打電させた。
坂上は、PCの画面を見た。
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