EP 16

失われた火種(ヴェルサイユ)

1919年(大正8年)。第一次世界大戦は終結し、パリでは戦後処理の国際会議が開かれていた。

世界は「平和」という名の薄氷の上に立っていたが、箱根の山小屋では、新たな危機が坂上真一(59歳)を襲っていた。

「……ヴェルサイユが、見えん」

坂上は、手動水冷システムで安定稼働するノートPCを睨みつけた。

SSD(記憶媒体)の広範囲なデータ欠落により、彼のデータベースから、ヴェルサイユ条約に関する詳細な「記録」が消え去っていた。

「児玉さん。最悪だ」

坂上は、定期連絡で訪れた児玉源太郎(67歳)に報告した。

「この条約が、第二次世界大戦の決定的な『火種』になったのは間違いない。ドイツへの過酷な賠償請求と、屈辱的な軍備制限だ。だが、その『具体的な内容』が、俺のPCからゴッソリと消えた」

「それが、どういうことだ」

「つまり、俺は『何が悪かったか』を知ることができても、『具体的にどう修正すべきか』を知る手がかりを失ったということだ」

坂上は、苛立ちから頭を掻きむしった。

「ドイツがいくら賠償金を払ったのか、ラインラント非武装化がどういう条件だったのか……その『数字』がゼロだ。PCに残っているのは『ヴェルサイユ条約は、第二次世界大戦の原因となった』という、ただの『結論(けつろん)』だけだ」

児玉は、その危機を即座に理解した。

「つまり、貴様の『予言』は、『結論』は当たるが、『細部』が使えなくなった、と」

「その通りだ。未来の歴史書が、『結論』だけを残して焼失したに等しい」

坂上は、山小屋の壁に、チョークで大きな年表を描いた。

【1919年: ヴェルサイユ条約(欠落) → 1929年: 世界恐慌 → 1931年: 満州事変 → 1939年: WW2】

「俺たちが介入できる分岐点は、残り三つだ。特に次の二つが重要だ」

坂上は、年表上の「世界恐慌」と「満州事変」を指差した。

「世界恐慌は、止められん。資本主義の構造的な問題だ。だが、その後の『満州事変』は、俺たちの『種』を蒔いた二人の男が引き起こす可能性が高い」

「石原莞爾と、永田鉄山か」

児玉が、頷いた。

「永田鉄山は、『国家総力戦』の思想に目覚めた。彼は、日本が満州の資源を必要とすることを、数字で理解している。そして、石原莞爾は、あのアホな『最終戦争論』を、満州で実現したがっている」

坂上は、SDRのアンテナの向きを、満州(中国大陸)へと微調整した。

「彼らが、陸軍大学校を卒業し、満州の『関東軍』に配属される時が、俺たちの次の『作戦開始(オペレーション)』だ」

その頃、東京。

児玉源太郎の庇護のもと、着実に軍内でキャリアを積んでいた二人の若者がいた。

一人は、永田鉄山。

彼は、児玉のルートから匿名で受け取った「国家総力戦レポート」を基に、陸軍内部で「統制派(とうせいは)」と呼ばれる合理主義者グループの中心人物となっていた。彼らは、日本の国力を高め、来るべき大戦に備えるべきだと主張していた。

もう一人は、山本五十六。

彼は、坂上の「航空機レポート」を読み込んだことで、「海軍の変わり者」としての地位を確立していた。彼は、軍縮会議でアメリカと対立する中で、将来戦は「空母」と「艦載機」が全てであると、徹底して主張し続けていた。

しかし、坂上の最も危険な「種」――石原莞爾は、その頃、軍内部でくすぶっていた。

彼は、坂上から得た「戦車と航空機による電撃戦」のアイデアを、自らの「最終戦争論」に組み込み、上司に理解されない苛立ちを募らせていた。

1923年(大正12年)。9月1日。

箱根の山小屋。

坂上は、いつものようにSDRで微弱な電波を傍受していた。

彼のPCのデータベースには、「史実」のこの日付に、一つの警告が登録されていた。

『関東大震災発生。東京、壊滅』

「……来るぞ」

坂上は、この大災害が、その後の日本の政治と経済に与える影響を、身をもって知っていた。

その午前11時58分。

山小屋全体が、激しい揺れに襲われた。

水冷銅管から水が吹き出し、囲炉裏の火が暴れ、山小屋の梁(はり)が軋(きし)む。

「……児玉さん!」

児玉は、体を支えながら、外の渓流の様子を窺う。

「発電所は……無事だ! だが、東京の被害は甚大だろう……」

坂上は、揺れが収まった直後、真っ先にPCの電源を入れようとした。

PC本体はMIL規格の耐衝撃性で無事だった。だが、彼の「時限爆弾」は、揺れを待っていたかのように牙を剥いた。

キィィィィィ―――……

あの甲高いファンの異音が、鳴り始めた。

そして、SDRが、ノイズに紛れて、東京からの「緊急電信」を捉え始めた。

『……帝都、大火災。通信網、麻痺……』

坂上は、鞴(ふいご)を動かす児玉の横で、その電文を読んでいた。

「……東京の通信網は、完全に死んだ。当分の間、SDRが『神の目』になる……」

その時。

PCの画面の隅。あの忌まわしい警告マークが、赤く激しく点滅した。

『ERROR: DATA CORRUPTED. SECTOR 11c...』

今度は、広範囲な「画像データ」が失われた。

「……何が飛んだ!」

坂上は、震える指で確認した。

その瞬間、坂上は、この世の全てが崩れるような絶望に襲われた。

「……嘘だろ……」

【欠落データ: 第二次世界大戦、日本の『敗北要因』に関する画像データ全て】

* 航空母艦の沈没写真、特攻機の写真、原子爆弾のキノコ雲の写真……

「……祖父の……写真が……」

この日、関東大震災の揺れは、坂上真一の「戦う動機」そのものまで、彼のデータベースから奪い去ったのだ。

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