EP 12

サラエボの銃声と「種」の芽吹き

1914年(大正3年)6月28日。

箱根の「地質観測所」は、深い霧に包まれていた。

この数年、坂上真一(54歳)は、この霧のように息を潜め、歴史の「監視者」としての日々を送っていた。

彼の日常は、水力発電のタービン音と、ノートPCが発する「異音」と共にあった。

キィィィィィィ……。

冷却ファンが上げる悲鳴は、もはや彼の耳の一部となっていた。

その日、SDR(ソフトウェア無線機)が、ヨーロッパ全土を飛び交う、異様なほど切迫した外交電文(テレグラム)を傍受し始めた。

PCのAIが、それらの断片的な情報を瞬時に解析し、一つの「予測地点」を赤く点滅させる。

『ボスニア、サラエボ』

「……ついに、来たか」

坂上は、モニターに映し出された、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナント夫妻の写真を見た。

そして、その直後。

SDRが、セルビアの暗黒街から発信された、短い暗号通信を捉えた。

『標的(ターゲット)、完了』

数時間後、全世界の通信網が「皇太子暗殺」の報で麻痺した。

坂上は、この時代の旧式電信機を使い、東京の児玉源太郎(当時62歳)へ、あらかじめ決めておいた暗号(コード)を送った。

『――火薬庫、点火セリ』

一週間後。

山小屋に、児玉が息を切らして到着した。

「坂上君! 貴様の『予言』通りだ……!」

坂上のPCモニターは、地獄の連鎖反応(ドミノ)を映し出していた。

「オーストリアが、セルビアに最後通牒」

「ロシアが、総動員令を発令」

「ドイツが、ロシアとフランスに宣戦布告」

「止めるのは無理だと言ったはずだ」

坂上は、冷ややかに言った。

「第一次世界大戦。人類史上、最初の『総力戦』が始まった」

「日本(ウチ)はどうなる!」

児玉が、日本の動向を問う。

「日本は、日英同盟を理由に『勝ち馬』に乗る」

坂上は、データベースの「史実」を読み上げた。「ドイツが持つ、中国の青島(チンタオ)利権を奪い取り、『漁夫の利』を得る。……問題は、そこじゃない」

坂上は、この戦争がどう推移するか、AIに「詳細シミュレーション」の実行を命じた。

「この戦争で、戦場の主役が変わる。塹壕(ざんごう)と、毒ガスと、そして……」

PCが、膨大な計算を開始した。

その、瞬間。

キィィィィィィ―――……。

甲高い冷却ファンの異音が、ふっと、止まった。

そして、PCの内部から、焦げ臭い匂いが立ち上った。

「―――ッ!?」

画面が、ブラックアウトした。

『CRITICAL TEMP ERROR. SYSTEM SHUTDOWN.』

(温度異常。システムを強制終了します)

「……この野郎!!」

坂上は、絶叫した。

停電ではない。電力は安定供給されている。

「時限爆弾」が、ついに爆発したのだ。

「どうした!」

「ファンが死んだ! このままじゃ、CPU(頭脳)が焼き切れる!」

坂上は、この日のために用意していた道具箱をひっくり返した。

彼は、精密ドライバー(この時代には存在しない)でPCの裏蓋をこじ開けようとする。

だが、4年間の湿気と埃で、ネジが固着している。

「くそっ、開けろ! 開けろ!」

坂上は、マイナスドライバーを金槌で叩きつけ、強引にネジを破壊した。

筐体(きょうたい)が開き、21世紀の「心臓部」が、大正の空気に晒される。

冷却ファンは、満州の砂埃を吸い込み、完全に停止していた。

「……万事休すか」

坂上は、その場に崩れ落ちそうになった。

このファンが回らなければ、PCは起動すらできない。AIも、データベースも、全てが失われる。

「……いや」

児玉が、山小屋の隅にある「あるモノ」を指差した。

囲炉裏(いろり)で火を起こすための、「鞴(ふいご)」(手動の送風機)だ。

「……それか」

坂上は、最後の望みを賭けた。

彼は、PCの筐体を開け放ったまま、ieAの送風口を、CPUのヒートシンク(冷却装置)に直接向けた。

「児玉さん、頼む! 俺がスイッチを入れたら、そいつを全力で押し引きしろ! アナログ冷却だ!」

「……分かった!」

坂上は、祈るように、電源ボタンを押した。

児玉が、和服の袖をまくり、必死で鞴を動かす。

シュコー、シュコー、と、原始的な風が、21世紀のCPUに送り込まれる。

PCは、起動した。

だが、画面には無数のエラーメッセージが表示されていた。

「AIのシミュレーションは無理だ……!」

坂上は、処理能力の9割を失ったPCを操作しながら呻いた。「だが……データベース(記録)の閲覧だけなら、何とか……!」

児玉は、汗だくになりながら鞴を動かし続ける。

「天才」と呼ばれた元・総参謀長が、今はただの「手動冷却ファン」と化していた。

「……児玉さん」

坂上は、その滑稽(こっけい)だが、必死の光景を見て言った。

「朗報だ。あんたが4年前に蒔いた『種』が、一つ、芽を出した」

「……何?」

「海軍内部のレポートだ。あんたが渡した俺の『論文』を引用した、若手の報告書をSDRが傍受した」

坂上は、かろうじて動くPCで、そのテキストファイルを開いた。

『海軍兵学校教官・山本五十六(やまもといそろく)』

『論文: 将来戦ニオケル航空機ノ戦略的価値ニツイテ』

「……読んだか、奴が」

児玉が、鞴の手を休めずに言った。

「ああ。だが、海軍の上層部(ジジイども)は、この論文を『馬鹿げた空想だ』と一蹴したそうだ。山本五十六は、今や『海軍の変わり者』として、孤立している」

「……失敗か」

「いや、『成功』だ」

坂上は、笑った。「孤立したということは、『大艦巨砲』の“病”に感染していない証拠だ。奴は、自分で『考える』頭脳を持った」

坂上は、PCの画面を切り替えた。

そこには、大戦で使われる「新しい兵器」の画像が表示されていた。

鉄のキャタピラを持つ、装甲車両。

「……なんだ、これは」

「『戦車(タンク)』だ」

坂上は、手動冷却のタイムリミット(児玉の体力)が迫る中、必死でデータを検索した。

「海軍(ウミ)の“病”は根が深い。だが、陸軍(リク)はまだ間に合うかもしれん。この『戦車』と『航空機』の重要性を、陸軍大学校の連中にも叩き込むぞ」

坂上は、戦車の基本設計図を印刷しようと、キーを叩いた。

その時。

画面が、砂嵐のように乱れた。

『ERROR: DATA CORRUPTED. SECTOR 04x...』

(エラー: データ破損。セクター 04x…)

「……嘘だろ」

坂上の顔から、血の気が引いた。

満身創痍のSSD(記憶媒体)が、ついに「戦車」に関する重要データの「欠落」を起こしたのだ。

「……シュコー、シュコー」

児玉の鞴の音だけが、虚しく響いていた。

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