EP 9

最後のシグナル

【バッテリー残量: 3%】

「……待て。俺は、何をしている?」

司令部のテントに、坂上真一の絶望的な呟きが漏れた。

児玉源太郎が、異様な坂上の様子に気づき、声をかける。

「坂上君? どうした。戦(いくさ)は、君の言う『完璧な勝利』で終わろうとしている」

「違う……!」

坂上は、黒いノートPCを睨みつけたまま、頭(かぶり)を振った。

「児玉さん、あんたには分からない。この『完璧な勝利』こそが……毒だ」

「毒だと?」

「この勝利が、日本海軍に『大艦巨砲は無敵だ』という“病”を植え付ける! この『奇跡』が、40年後の……俺の祖父を……!」

坂上は言葉を飲み込んだ。

だが、決断の時間は残されていなかった。

イヤホンからは、秋山真之が指揮する「三笠」の、残敵掃討を命じる冷徹な電文が流れ続けている。

『全艦隊ニ告グ。残存スル敵主力艦(ボロジノ級残存艦)ヲ包囲、拿捕(だほ)セヨ。抵抗スルナラバ撃沈モ止ム無シ』

ロシア艦隊は、もはや組織的な抵抗力を失っている。

このままでは、AIのシミュレーション通り、ロシア艦隊は文字通り「蒸発」し、日本海軍の「神話」が完成してしまう。

(止めなければ)

坂上は、児玉を見た。

「児玉さん。俺は、歴史の『修正』を行う」

「修正だと? 何を」

「この『完璧すぎる勝利』を、壊す」

児玉が息を呑む。

「……貴様、味方を……東郷を妨害する気か! それは利敵行為だ! 国家への反逆だぞ!」

「反逆結構!」

坂上は、枯渇しかけた声で叫んだ。

「俺は、40年後の『敗北』を知っている! 祖父の『死』を知っている! それを生む『元凶』が、今、目の前にあるなら……俺はそれを、叩き潰す!」

坂上の指が、キーボードに突き立てられた。

彼は、AIでも、デコーダーでもない、SDR(ソフトウェア無線機)の、最も原始的な機能を呼び出す。

【送信(トランスミット)モード: 最大出力】

【信号種別: ブロードバンド・ノイズ(広帯域妨害電波)】

彼は、残された【3%】の全電力を、この「自殺的」な送信に注ぎ込む。

「坂上君、よせ!」

児玉が、そのPCを止めようと手を伸ばす。

「――これが、俺の『最後のシグナル』だ!」

坂上は、エンターキーを叩きつけた。

【バッテリー残量: 2%】

【バッテリー残量: 1%】

ノートPCの冷却ファンが、最後の断末魔のように、甲高い音を立てて最大回転する。

SDRのアンテナから、目に見えない「槍」が、満州の大地から、日本海へ向けて放たれた。

同時刻、旗艦「三笠」無線室。

残敵掃討の命令を、各艦に中継していた電信兵が、突然、ヘッドセットを叩きつけて床に転がった。

「ぐわぁぁぁッ!!」

「どうした!」

秋山真之が艦橋から叫ぶ。

「ノ、ノイズ! 雑音です! 凄まじい雑音が!!」

キィィィィィィィィィィィィ―――!!!

人間の可聴域を超えたような、耳を突き刺す金切り音が、「三笠」の無線システム全てを「汚染」した。

「長官! 通信、途絶!」

「敵の妨害電波(ジャミング)か!?」

「いえ、こんな強力なものは……! これでは、全艦との連携が……!」

秋山が、戦慄した。

満州の「神の目」からの「神託」も、完全に途絶した。

日本艦隊は、勝利の絶頂の、まさにその瞬間に、中枢神経を断たれたのだ。

「信号旗だ! 信号旗で指揮を執れ!」

東郷が叫ぶ。

だが、海戦の黒煙と、迫り来る夕闇が視界を遮り、旗艦の命令は、混乱する僚艦に正確に届かない。

その「数分間」の「闇」。

指揮系統を失った日本艦隊の包囲網は、確実に緩んだ。

掃討作戦が、完全に停止した。

そして、ロシア艦隊の残存艦――沈没寸前だった「ボロジノ」級の戦艦数隻と、巡洋艦「オーロラ」らは、この「奇跡的な隙」を見逃さなかった。

彼らは、最後の力を振り絞り、接近していた夕立の暗雲と霧の中へ、その針路を向けた。

「……通信、回復しました!」

「三笠」の無線室から、安堵の声が上がる。

あれほど凄まじかったノイズが、まるで電源が切れたかのように、プツリと消えたのだ。

秋山真之が、双眼鏡で海面を掃いた。

「……敵の、残存艦は」

見張り員が、絶望的な声を上げた。

「……見えません! 敵主力艦、霧の中に逃げ込みました!」

「……逃した、か」

東郷平八郎が、勝利の歓喜の代わりに、深い溜息と共に呟いた。

満州、坂上のテント。

【バッテリー残量: 0%】

淡い光を放っていたノートPCの画面が、静かに、ブラックアウトした。

坂上が頼りにしてきた「神の力」は、完全に尽きた。

「……終わった」

坂上は、動かなくなった黒い鉄の箱(PC)の上に、崩れ落ちるように突っ伏した。

彼の耳からは、イヤホンが力なく垂れ下がっている。

テントには、ロウソクの炎が揺れる音と、二人の男の荒い呼吸音だけが響いていた。

児玉源太郎は、目の前の男が成し遂げた「反逆」の意味を、完全には理解できなかった。

だが、彼が「日本の勝利」を、あえて「不完全」なものにしたことだけは、事実として理解した。

「……貴様は」

児玉が、絞り出すように言った。

その時、児玉が腰に下げていた、日本軍の旧式のアナログ無線機が、雑音混じりに「三笠」からの電文を受信し始めた。

秋山真之の、怒りと困惑に満ちた、全軍への緊急電文だった。

『――全艦隊ニ問ウ。今ノ強力ナ妨害電波(ジャミング)ノ発信源ハ、何処(いずこ)ナリヤ』

『繰リ返ス。敵(テキ)カ、味方(ミカタ)カ。……発信源ヲ、至急特定セヨ』

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