EP 7
必然の「賭け」
旗艦「三笠」艦橋。
秋山真之は、双眼鏡を構えたまま凍りついていた。
敵艦隊は、坂上の「神託」通り、二列縦隊。
だが、戦術的な「位置」は、日本艦隊にとって最悪だった。
日本艦隊は、敵艦隊の進路を「塞ぐ」形で南西に向かっており、敵艦隊は北東へ進んでいる。
反航戦(すれ違い)の形だ。
このままでは、すれ違いざまに一瞬撃ち合うだけで、決定的な打撃を与えられず、最強のバルチック艦隊をウラジオストクへ逃してしまう。
「……長官」
秋山は、東郷平八郎に振り向いた。
「敵の進路を遮断し、T字を取るには、ここでUターン(回頭)するほかありません」
艦橋が、死んだように静まり返った。
Uターン。
それは「敵前回頭(てきぜんかいとう)」を意味する。
敵の目の前で、艦隊が一隻ずつ、同じ場所で、ゆっくりと向きを変える。
回頭中の船は、速度が落ち、敵に対して最も無防備な「腹」を晒すことになる。
敵の全戦艦が狙いを定めている、その「一点」で。
それは、戦術の常識では「自殺行為」だった。
歴史的な「賭け」。それが、東郷ターン。
「……満州の『目』は、何と言っている」
東郷が静かに問うた。
満州、坂上のテント。
【バッテリー残量: 8%】
「……マズい」
坂上の額から、玉の汗が噴き出した。
PCの画面には、AIがシミュレートした「戦術予測」が映し出されている。
【シミュレーション 1: 反航戦(すれ違い)】
* 予測結果: 敵艦隊(ロ)に中破数隻。日本艦隊(日)に軽微な損害。
* 結末: 敵主力、ウラジオストクへ逃走成功。日本の「敗北」。
【シミュレーション 2: 敵前回頭(Uターン)】
* 予測結果:
* (史実A): 日本艦隊、奇跡的に被弾僅少。T字有利を確保。日本の「勝利」。
* (史実B~Z): 回頭中に旗艦「三笠」が集中砲火を浴び、轟沈。指揮系統崩壊。日本の「壊滅」。
「……賭けすぎる」
坂上は歯噛みした。史実の東郷は、ここで「賭け」に勝った。
だが、そんな不確定な未来に、祖父の運命を預けるわけにはいかない。
「……待て。AIの解析結果……これだ」
坂上は、SDRが傍受し続けるロシア艦隊の内部通信(暗号解読済)の「パターン」を凝視した。
『……敵艦隊捕捉。距離8000』
『……全艦、照準ヲ日本艦隊ノ旗艦(ミカサ?)ニ集中セヨ』
『……測距儀(そっきょぎ)、誤差修正中……』
ロシア軍の通信は、混乱していた。
彼らは濃霧から突然現れた日本艦隊に、明らかに動揺している。
そして、彼らの「照準計算(ガン・コンピューティング)」は、坂上のAIの予測によれば、
「……遅い」
ロシア軍の射撃指揮装置は、 primitive(原始的)だ。
彼らが日本艦隊の「現在の針路(反航戦)」に合わせて測距を終え、初弾を放つまでに、AIの予測では「あと3分」かかる。
もし、彼らが「撃つ直前」に、日本艦隊が「回頭(ターン)」を始めたら?
坂上は、AIに新たなシミュレーションを命じた。
【バッテリー残量: 7%】
画面に、解(ソリューション)が弾き出された。
「……これだ」
坂上の目が、初めて確信に満ちた光を宿した。
ロシア軍は、日本艦隊が「直進する」前提で照準を合わせている。
もし日本が「今」回頭を始めれば、ロシア軍の照準計算は「全てリセット」される。
彼らが、新しい回頭地点に照準を合わせ直し、測距を終えるまでの「タイムラグ」。
その「空白の時間」を、AIは「90秒」と算出した。
日本艦隊が、最も無防備な回頭を終えるまでの所要時間も、ほぼ「90秒」。
「……賭けじゃない」
坂上は、この瞬間のために電力を温存してきたSDRの「送信(トランスミット)」キーを叩いた。
「児玉さん! 海軍に、緊急電(フラッシュ)!」
「『秋山参謀ヘ。コレハ賭ケデハナイ。必然デアル』」
旗艦「三笠」。
秋山が、息を詰めて東郷の決断を待っている。
そこへ、満州からの「神託」が届いた。
電信兵が、震える声で読み上げる。
「『コレハ賭ケデハナイ。必然デアル』」
秋山が、ハッと顔を上げる。
「『敵ノ射撃計算、遅延セリ。今コノ瞬間ヨリ回頭ヲ開始セバ、敵ノ照準計算ハ崩壊ス』」
「『敵ガ、新タナ回頭地点ニ照準ヲ合ワセ直ス頃ニハ、我ガ艦隊ハ既ニ回頭ヲ完了シテイル』」
「『“空白ノ90秒”ガアル。回頭セヨ。今(ナウ)!!』」
秋山は、東郷を見た。
もはや、迷いは無かった。
満州の「目」は、敵の砲塔の中、その「照準器の遅れ」までも見抜いている。
「長官!」
「……うむ」
東郷平八郎は、静かに、しかし艦橋の全てを震わせる声で、号令した。
「取り舵(とりかじ)一杯!」
「全艦、本艦ニ続キ、北東へ150度回頭!」
「戦闘、開始!」
Z旗が、マストに翻った。
旗艦「三笠」が、敵戦艦群の目の前で、巨大な艦体をきしませ、ゆっくりと回頭を始めた。
最も無防備な、自殺的な「東郷ターン」。
ロシア艦隊旗艦「スワロフ」の艦橋で、ロジェストウェンスキー提督がその光景を嘲笑った。
「愚か者め! 目の前で回頭だと? 全砲門、あの回頭点に集中! 撃て!」
ロシア艦隊の全戦艦が、火を噴いた。
凄まじい水柱が、「三笠」が今いた場所の周囲に立ち上る。
だが、
「……当たらん!」
ロシア軍の砲術長が絶叫した。
「三笠」は、すでに回頭点から抜け出しつつある。
「照準、修正! 敵は回頭しているぞ!」
「ダメです! 測距が間に合いません!」
坂上のAIが予測した「空白の90秒」。
ロシア軍の原始的な照準計算は、日本艦隊の「未来の動き」について行けなかった。
「三笠」が、回頭を完了。
続く「敷島」「朝日」「富士」……
日本艦隊は、一隻の脱落もなく、ロシア艦隊の目の前で、完璧なUターンを成功させた。
そして、戦艦「スワロフ」の進路を、完璧に「T字」で押さえ込んだ。
「……全艦、回頭完了!」
秋山真之は、信じられない光景に、汗を握りしめていた。
「満州の『目』……いや、『神』か……」
満州のテント。
坂上は、PCの画面に映る「戦闘シミュレーション成功」の文字を見て、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
彼の耳には、イヤホンを通じて、「三笠」が放つ、勝利を確信した日本軍の電信が鳴り響いていた。
「……やった」
だが、彼の安堵は一瞬だった。
彼は、PCの右下を見た。
【バッテリー残量: 6%】
海戦は、まだ始まったばかりだ。
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