EP 6
ポーカー・ゲーム
1905年5月27日、昼。
対馬海峡は、濃い霧に包まれていた。
連合艦隊の全戦力が、この海域に集結していた。
旗艦「三笠」の艦橋は、息苦しいほどの沈黙に満ちている。
秋山真之の「賭け」――満州の「神託」に従い、彼らは「Z電」の海域を捨て、ここで敵を待ち構えている。
だが、午前中の「Z電」以降、太平洋側からも、この対馬海峡からも、敵に関する有力な情報は何も入ってこない。
「……秋山参謀。本当に、来るのか」
参謀の一人が、しびれを切らしたように呟いた。
「もし、満州の『目』とやらが幻影で、敵が津軽海峡を抜けたら……我々は歴史的な大失策を犯すことになる」
秋山は、海図を見つめたまま答えない。
東郷平八郎も、艦橋の中央で微動だにしなかった。
同時刻、満州・総司令部。
坂上真一のテントは、手術室のような緊張感に支配されていた。
彼は、ノートPCの電源を入れたまま、SDRの「滝(ウォーターフォール)」と呼ばれるスペクトラム表示を睨み続けている。
【バッテリー残量: 10%】
「……児玉さん。コーヒーキャンディは、もう無いんだったか」
「無い」
児玉が短く答える。
「この三ヶ月、貴様が持ち込んだ嗜好品は全て尽きた。水しかない」
「……だろうな」
坂上は乾いた唇を舐めた。
彼の「神の力」は、今や10%の電力で、この国の運命を支えている。
SDRが、微弱だが、確実に「近づいてくる」信号群を捉えていた。
太平洋側の「囮(デコイ)」の信号は、すでに微弱になり、東へ遠ざかっている。
そして今、対馬海峡の方向から、無数のモールス信号が、その強度を増し始めていた。
「……来た」
坂上が呟く。
「本隊だ。奴ら、この濃霧に紛れて、一気に海峡を突破するつもりだ」
彼はキーボードを叩き、AIにロシア艦隊の全信号の「パターン解析」を命じた。
各艦が発信する、微弱な識別信号の「癖」から、AIが敵の「陣形」をリアルタイムで組み上げていく。
『敵陣形、二列縦隊。右翼ニ戦艦スワロフ、アレクサンドル三世。左翼ニ巡洋艦……』
「児玉さん、海軍に打電!」
坂上の声が、テントに響いた。
「『敵本隊、対馬海峡西水道ニ進入セリ』」
「『陣形ハ二列縦隊。全艦隊ノ正確ナ位置ト陣形ヲ、今カラ送ル』」
旗艦「三笠」。
電信室から参謀が駆け込んできた。
「満州ヨリ入電! 『敵本隊、対馬海峡西水道ニ進入セリ』!」
その報告が終わるか終わらないか、その瞬間だった。
「―――ッ!」
艦橋の見張り員が、息を呑む音を立てた。
濃霧が、風で一瞬だけ、薄く晴れた。
その霧の切れ間に、まるで鋼鉄の都市が移動しているかのような、絶望的な光景が広がっていた。
黒煙を天に突き上げ、連なるロシア・バルチック艦隊の威容。
その数、30隻以上。
「て、敵艦隊発見!!」
見張り員の絶叫が、艦橋に響き渡った。
「敵主力! 西水道! 距離、およそ8000!」
秋山真之の「賭け」は、坂上真一の「神託」は、寸分の狂いもなく「事実」となった。
「……来たか」
東郷平八郎が、静かに、しかし鋼のような声で言った。
彼は、秋山に視線を送った。
秋山は、満州からの電文の続きを読み上げる。
「……満州より続報! 『敵陣形、二列縦隊。右翼旗艦スワロフ……左翼……』」
「三笠」の艦橋が、戦慄した。
偵察の霧が晴れるより早く、敵の「全陣形」が、満州の「目」から送られてきたのだ。
東郷は、全艦隊に信号旗を上げさせた。
『皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ』
そして、彼は秋山に向き直った。
「秋山参謀。満州の『神』は、まだ我々と共にあるか」
秋山は、静かに頷いた。
「はっ。彼は、我々の『目』です。我々は、敵の手札を全て見ながら、この戦(いくさ)に臨みます」
坂上は、満州のテントから、この海戦を「観測」するのではない。
彼は、指先一つで、この海戦を「指揮」するのだ。
「児玉さん」
坂上は、PCの画面を睨みつけたまま言った。
「ここからが、本当の『ポーカー・ゲーム』だ」
【バッテリー残量: 9%】
歴史上、最も一方的な海戦の火蓋が、切られようとしていた。
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