EP 5
二人の天才
時は流れた。
奉天会戦の圧勝から三ヶ月。満州の凍てつく大地にも、遅い春が訪れようとしていた。
だが、戦局は児玉の予測通り、泥沼の「膠着(こうちゃく)」に陥っていた。
ロシアは敗走しつつも、シベリア鉄道で次々と増援を送り込んでくる。日本は、もはやそれを追撃する余力(弾薬と兵糧)を失っていた。
坂上真一のテントは、総司令部の中で「聖域」であり、同時に「時限爆弾」でもあった。
【バッテリー残量: 14%】
この三ヶ月間、坂上は極度の「情報断食」を行っていた。
PCの電源は、3日に一度、10分間だけ起動。
その間、SDRでバルチック艦隊の「最新の位置」と「通信パターン」だけを掴み、ノートPCのAIに学習させ、すぐにシャットダウンする。
春の日差しは強くなったが、ソーラーパネルが1日に稼ぎ出す電力は、PCをわずか数分動かす分にしかならない。
彼の「千里眼」は、今や満州の陸戦ではなく、ただ一点――日本海に向かってくる「巨大な獲物」だけに注がれていた。
そして、彼の唯一の通信相手は、児玉源太郎を介した、旗艦「三笠」の秋山真之ただ一人となっていた。
二人の天才(坂上と秋山)の電信による「対話」は、異様なものだった。
秋山『敵、バシー海峡ヲ通過セリ。針路、北北東。貴官ノ見解ヲ問ウ』
坂上『針路ハ偽装(デコイ)。奴ラハ太平洋ヲ迂回シ、津軽海峡ヲ抜ケル“フリ”ヲスル。日本艦隊ヲ分散サセル為ダ。奴ラノ本当ノ目的地ハ、ウラジオストク港』
秋山『ソノ根拠(こんきょ)ハ?』
坂上『敵艦隊ノ電信ノ“癖(クセ)”ダ。ロジェストウェンスキー提督ハ、重要ナ決定ヲ下ス前、必ズ本国ニ“長文ノ泣キ言(電文)”ヲ送ル。ソレガ昨夜、観測サレタ』
秋山『……了解シタ』
秋山は、もはや坂上の情報の出所を問わなかった。彼は、満州の「神託」がもたらす情報の「質」だけを、自らの作戦に組み込んでいった。
そして、1905年5月27日。早朝。
総司令部の電信室が、けたたましい音を立てた。
偵察艦「信濃丸」から、全軍に打電された緊急電報。
『――敵艦見ユ』
史実に名高い、「Z電」だった。
司令部は、この瞬間のために息を潜めていた児玉以下、全参謀が歓喜の声を上げた。
「来たか!」
「ついに日本海に!」
だが、その歓声の輪から外れた坂上のテントだけが、氷のように静まり返っていた。
児玉が息を切らしてテントに飛び込む。
「坂上君! 聞いたか! 『敵艦見ユ』だ! 信濃丸が捉えた!」
坂上は、ゆっくりと顔を上げた。
彼は、この三ヶ月で頬がこけ、目だけが異様にギラついていた。
彼は、電源を入れたままのノートPCの画面を指差した。
【バッテリー残量: 12%】
「……児玉さん」
「……どうした。なぜPCを起動したままにしている。電力が…」
「奴ら(ロシア軍)も、俺の『癖』を読んでいる」
「何?」
「俺が奴らの電信を『傍受』していることに、ロジェストウェンスキーは気づいちゃいない。だが、奴の背後にいる、もっと厄介な情報将校が……この『Z電』が送られるタイミングを『予測』していた」
坂上のPC画面には、二つの信号が表示されていた。
一つは、「信濃丸」が発見した「敵艦隊(Z電の対象)」が放つ、規則的で強いモールス信号。
そして、もう一つ。
そこから遥か東、太平洋側を航行する、微弱で、意図的にノイズに紛れさせたような、別の信号源。
「『Z電』が捉えたのは、囮(おとり)だ」
坂上は断言した。
「馬鹿な!」
児玉が叫ぶ。「信濃丸は、海軍の最優秀の偵察艦だぞ!」
「そうだ。だからこそ、奴らは『発見される』ために囮をそこへやった」
坂上は、微弱な信号源を指差した。
「こっちが本隊だ。本隊は、日本艦隊が『Z電』に釣られて太平洋側(津軽海峡)に向かった隙に、最短距離で対馬海峡を突破し、ウラジオストクへ逃げ込むつもりだ」
児玉は、血の気が引いた。
もしこれが事実なら、連合艦隊は、今まさに、敵の罠にかかろうとしている。
「……秋山に、電信を」
坂上は、震える手でキーボードを叩いた。
【バッテリー残量: 11%】
『秋山参謀ニ告グ。今受信シタ「Z電」ハ、敵ノ偽装船団(デコイ)デアル』
『繰リ返ス。「Z電」ハ罠(トラップ)ダ』
『敵本隊ノ針路ハ、対馬海峡(ツシマ)。全艦隊ヲ、対馬沖ニ集結サセヨ』
電文は、満州から「三笠」へ送られた。
後は、待つだけだった。
その頃、旗艦「三笠」の艦橋は、緊張の頂点にあった。
「Z電」を受け、参謀たちが「敵は太平洋回りか!」「津軽海峡を封鎖せよ!」と叫ぶ。
東郷平八郎司令長官が、黙って秋山真之を見ている。
そこへ、満州からの「神託」が届いた。
「……長官」
秋山は、その電文を東郷に差し出した。
「満州の『目』は、『Z電は罠なり』と」
艦橋が静まり返る。
現場の、信頼する偵察艦からの「事実(Z電)」。
満州の、正体不明だが的中し続けてきた「神託(坂上)」。
二つの、矛盾する情報。
東郷は、秋山にだけ問いかけた。
「……秋山、お前は、どちらを信じる」
秋山真之は、目を閉じた。
彼が信じるのは「数字」と「合理性」だ。
そして、この三ヶ月、満州の「彼」が送ってきた情報は、常に合理的で、正確無比だった。
秋山は、目を開いた。
「――長官。連合艦隊の全戦力を、対馬海峡沖に集結させます」
「我らが討つべき敵は、『Z電』の幻影(ファントム)にあらず。対馬に来る『本隊』です」
それは、日本海軍の、そして日本の命運を賭けた、最大の「賭け」だった。
その賭けの根拠は、遠い満州のテントで、バッテリー残量【11%】のPCを睨む、一人の男だけが知っていた。
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