EP 4

陸(おか)の海軍

奉天は、落ちた。

だが、それは坂上真一が知る史実の「辛勝」ではなく、彼の「神託」がもたらした「圧勝」だった。ロシア軍は奉天の北へ潰走(かいそう)したが、日本軍の追撃もまた、国力の限界によって鈍い。

司令部のテントは、勝利の熱狂とは無縁の、氷のような静寂に包まれていた。

「……君の言う通りだ」

児玉源太郎が、広げられた満州の地図を睨みながら言った。

「我々は勝った。だが、戦争は終わらん。ロシアはまだ次を送り込める。日本(ウチ)には、もう次が無い」

坂上は、テントの隅で膝を抱えていた。

彼の前には、電源を落とされ、生命活動を停止したかのように静かな戦術級ノートPCが鎮座している。

彼は、己の「生命線」であるバッテリーの消費を恐れ、PCをスリープモードにすることすらためらっていた。

「……だから言った。本当の戦場はここじゃない」

坂上は立ち上がり、凍える手でPCを起動させた。

ディスプレイが淡く光り、無慈悲なアイコンが現実を突きつける。

【バッテリー残量: 19%】

昨夜、ソーラーパネルを夜通し雪の上に広げておいたが、満州の弱々しい冬の日差しでは、気休めにすらならなかった。

「児玉さん。海軍に、連合艦隊司令部に、今すぐ電信を」

「……それは、俺の専門外だ」

児玉は渋い顔をした。

「陸軍(リク)と海軍(ウミ)は、水と油だ。ここの『勝利』は陸軍のもの。海軍は、今頃バルチック艦隊のことで頭がいっぱいだ。俺たち(陸)の言うことなど、聞く耳を持たん」

「聞かせるんだ」

坂上はSDR(ソフトウェア無線機)をPCに接続した。

「あんたの『天才』と、俺の『技術』を、今こそ使う時だ」

「……分かった。何と打つ」

「宛先は、連合艦隊作戦参謀・秋山真之(あきやまさねゆき)。奴が海軍の『児玉源太郎』だ」

児玉は目を見開いた。秋山真之――その名は、陸軍の彼にも届いている。海軍きっての、冷徹な合理主義者にして天才。

坂上は、SDRの感度を最大に設定し、アンテナを遥か南に向けた。

PCが、膨大なノイズの海から、かすかな「獲物」の信号を拾い始める。

インド洋を這うように進む、バルチック艦隊の微弱なモールス信号だ。

AIが、史実より遥かに早くその暗号を解読していく。

「……見えた」

坂上の指がキーボードを叩く。

「打電しろ。『我、満州軍総司令部ニテ、バルチック艦隊ノ全通信ヲ傍受・解読スル術(すべ)ヲ得タリ』」

児玉は電信兵にその文面を伝えさせた。

陸軍の最前線基地から、海軍の中枢へ。前代未聞の電文だった。

数時間後。

返信は、無情なほど簡潔だった。

発信元は、連合艦隊旗艦「三笠」の秋山真之。

『陸軍ノ奮戦ニ感謝ス。海上ノ事ハ、海軍ニ任セヨ。幻聴(げんちょう)ニテ軍務ヲ惑ワスベカラズ』

「……クソッ!」

坂上は、持っていたレーションの空き袋を握りつぶした。

「幻聴、だと……! 奴ら、俺の情報を『戦場の噂話』程度にしか思っていない!」

児玉もこめかみを押さえた。

「……秋山という男は、そういう男だ。彼我(ひが)の戦力差、砲弾の数、石炭の量。彼が信じるのは、彼自身が集めた『数字』だけだ」

「数字……」

坂上は、ディスプレイに映る解読ログを見た。

「……なら、奴が絶対に知り得ない『数字』をくれてやる」

彼は、電力の消費を覚悟で、SDRの出力をさらに上げた。

【バッテリー残量: 17%】

「児玉さん、もう一度だ」

坂上は、解読されたロシア軍の内部通信ログの一節を指差した。

「宛先は同じく秋山真之。『貴官ラノ掴ンデイル敵艦隊ノ位置ハ、三週間古イ』」

「……なに?」

「『敵主力ハ、今コノ瞬間、マダガスカル島ノッシ・ベニ集結中』」

「『旗艦スワロフ、機関不調。ロジェストウェンスキー提督ハ、昨夜、“質ノ悪イ石炭”ニツイテ本国ニ不平ヲ送信セリ』」

それは、スパイや偵察艦が物理的に知り得る情報の「解像度」を、遥かに超越していた。

提督の「不平」という、生々しい中身まで。

「……送れ!」

児玉は息を呑み、電信兵に命じた。

今度の返信は、先ほどより早かった。

だが、その文面は、坂上の怒りをさらに煽るものだった。

『……興味深イ御伽噺(おとぎばなし)ダ。ソノ“情報”ガ真ナラ、敵ノ次ノ行動ヲ予言シテミヨ』

「……試してきやがった」

坂上は、PCの画面を睨みつけた。

AIが、傍受した全ログから「次の行動」をシミュレートする。

【バッテリー残量: 16%】

「……分かった。奴らの『喉』を突く」

坂上は、ロシア艦隊の補給に関する通信ログを指差した。

「こう打て」

「『敵艦隊ハ、石炭ハ積ンダガ、真水(まみず)ガ枯渇シテイル。提督ハ、明日ノ正午マデニ、現地(マダガスカル)ニテ真水500トンノ追加補給ヲ要求スル』」

「……明日、だと?」

「そうだ。秋山が今から自前の情報網で確認しても、絶対に間に合わない『未来』だ」

電文は、再び放たれた。

そこから、地獄のような二日間が始まった。

坂上は、PCの電源を完全に落とした。

【バッテリー残量: 15%】

1パーセントたりとも、無駄にはできない。

彼は、テントの中で、ひたすらソーラーパネルが溜め込んだ「雫(しずく)」のような電力が、バッテリーに蓄積されるのを待った。

満州の空は、彼をあざ笑うかのように、分厚い雲に覆われたままだ。

児玉も、司令部の仕事の合間に、何度もテントを覗いた。

坂上は、最後のコーヒーキャンディの包み紙を、ただ指先で弄んでいた。

二日目の夕刻。

電信兵が、文字通りテントに転がり込んできた。

汗だくの彼が、一枚の電文を児玉に手渡す。

児玉は、その紙をロウソクの火にかざし、そして、坂上に無言で差し出した。

発信元、旗艦「三笠」、秋山真之。

『―――何者(ナニモノ)ダ』

『貴官ノ“予言”ハ、今シ方(まさに)、我ガ方ノ諜報網(ちょうほうもう)ニヨリ事実ト確認サレタ』

『次ノ電信ヲ、待ツ』

坂上は、震える手でその電文を受け取った。

海軍の「天才」が、陸軍の「怪物」の存在を認めた瞬間だった。

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