EP 2
解読者(デコーダー)
思考が、凍りついた。
日露戦争。
それは、坂上真一にとって、歴史の教科書の中の出来事だ。
そして、広島出身の彼にとって――祖父を特攻で失った彼にとって――日本が「間違った道」へ踏み出す、決定的な「最初の勝利」の記憶。
「……冗談じゃない」
彼はまず、己の専門分野(サイバー)の流儀に従った。
「現状の正確な把握」。
彼はSDR(ソフトウェア無線機)の傍受範囲を最大にし、ノートPCに全周波数帯(フルバンド)のスキャンを命じた。
21世紀の電波が、一つでもいい。GPS衛星の微弱な信号でも、遠いどこかの5G基地局の「死骸」でもいい。ここが現代であるという「証拠」を探す。
――ゼロだった。
あるのは、ノイズの海に浮かぶ、数十本の「島」だけ。
全てが、低い周波数帯で断続的に発信される、原始的なモールス信号。
坂上は、先ほど解読したロシア軍の暗号通信に意識を戻す。
『クロパトキン将軍』『奉天』『側面機動』。
間違いない。ここは1904年、奉天会戦直前の満州だ。
「……クソッ」
吐き捨てる。だが、JGSDF-CYBERの司令官は、絶望に1分以上浸ることを自分に許さない。
彼は思考を切り替えた。「漂流者」から「観測者(ウォッチャー)」へ。
「敵(ロシア)が分かった。なら、味方(日本)は?」
彼は、ロシア軍とは異なる周波数帯で発信されている、別の微弱な信号群にSDRのアンテナを向けた。
日本語のモールス信号だ。
だが、当然、暗号化されている。
『ホ(・――・・) リ(――・) ユ(――・・――) チ(・――・)……』
意味不明な文字列が、PCの画面を流れていく。
当時の暗号――おそらくは、数字やカナの換字表(コードブック)を使った、古典的なものだ。
「……解析(アナライズ)を開始する」
坂上は、ノートPCに搭載されたAI解析ソフトを起動した。
これは本来、現代の複雑な暗号通信の「脆弱性」を突くための軍用プログラムだ。
そんな21世紀の「怪物」にとって、1904年の換字暗号は、
「……童話レベル、か」
AIは、傍受した膨大な電文の「出現頻度(フリクエンシー)」と「パターン」を学習し、猛烈な勢いで「総当たり(ブルートフォース)」を開始した。
ディスプレイに表示される進捗(プログレス)バーが、異常な速度で伸びていく。
ロシア軍の暗号解読にかかった時間よりも、さらに短い。
3分後。
『解析完了。換字テーブル(コードブック)特定』
ノイズの向こう側が、一気に「晴れた」。
意味不明だったカナの羅列が、PCの画面上で、リアルタイムで「日本語の文章」に翻訳されていく。
『……児玉(コダマ)総参謀長ニ電。第一軍ノ前進速度、予定ヨリ遅延。糧食(リョウショク)ノ補給追イツカズ……』
『……第二軍、敵(テキ)ノ騎兵部隊(キヘイブタイ)ト接触。敵ノ狙(ネライ)、依然不明ナリ……』
『……敵主力ハ、奉天南方ニテ防衛陣地ヲ構築中ト認ム……』
坂上は、背筋が凍るのを感じた。
彼は今、この戦場における「神」になった。
日本軍(満州軍総司令部)が、どこで、何を考え、何に困っているか。
ロシア軍(クロパトキン軍)が、どこで、何を企み、どう動こうとしているか。
この戦場の「全て」が、彼のノートPCの画面に映し出されている。
そして、恐るべき「矛盾」も。
「……マズい」
坂上は、二つの「翻訳された窓(ウィンドウ)」を並べて比較した。
【日本軍通信(解読済)】
『敵主力ハ奉天南方ニテ防衛中』
【ロシア軍通信(解読済)】
『主力ノ一部ヲ以(モッ)テ日本軍右翼(ウヨク)ヲ牽制。同時ニ、主力(クロパトキン軍)ヲ西方ニ大迂回(ウカイ)サセ、日本軍左翼(サヨク)ノ側面ヲ突ク』
「……日本軍は、完全に騙されている」
ロシア軍は、主力が防衛していると「見せかけて」いる。その実、本隊は日本軍の側面を突くため、今まさに大移動中だ。
日本軍司令部は、ロシア軍の「偽情報(デコイ)」に完璧に釣られている。
このままでは、数日後――いや、早ければ明日にも、日本軍主力の側面は崩壊し、包囲殲滅される。
「奉天会戦」は、史実の日本の辛勝ではなく、ロシアの圧倒的勝利に終わる。
「……知らせなければ」
坂上は、持っていたアナログのコンパスと、PCのオフラインマップ(演習用)を広げた。
傍受した日本軍の電波の発信源を、マップ上にプロットしていく。
一番強い信号――満州軍総司令部は、ここから南西へ約20キロ。
彼は、全ての機材をバックパックに詰め直し、立ち上がった。
極寒の荒野を、ただ一つの目的に向かって歩き出す。
二時間後。
坂上は、身も心も凍えていた。
最新鋭の防寒着を着ていても、満州の2月の風は骨身に染みた。
そして、彼は「彼ら」に発見された。
「止まれ! 何者だ!」
雪の中に掘られた塹壕(ざんごう)から、銃剣を構えた兵士たちが飛び出してくる。
カーキ色の、古めかしい軍服。三十年式歩兵銃。
日露戦争の、日本兵。
「待て、俺は敵じゃない! 日本人だ!」
坂上は両手を上げた。
だが、彼の姿は、日本兵たちを混乱させるだけだった。
見たこともない、細かいドット絵のような迷彩服(冬季ピクセルカモ)。
背中に背負った、黒い樹脂製の箱(バックパック)と、折りたたまれた奇妙な板(ソーラーパネル)。
「……露助(ロスケ)のスパイか?」
「いや、こんな奇怪な格好の…」
「話を聞いてくれ! 総司令部、大山巌元帥か、児玉源太郎大将に繋いでほしい!」
坂上が叫ぶ。
「今、日本軍はロシア軍の罠にかかっている! 側面を突かれるぞ!」
「何を戯(たわ)けたことを!」
兵士の一人が、坂上の胸を銃剣で突いた。
「児玉大将の御名を軽々しく口にするな! 怪しい奴め、捕縛しろ!」
数人の兵士に押さえつけられ、装備を奪われそうになる。
万事休すか――その時。
坂上の耳につけたままだったイヤホンが、ノイズを拾った。
ごく至近距離から発信される、ロシア軍のモールス信号。
『……コサック(カザーキ)先遣隊、前面ノ日本軍斥候(セッコウ)ヲ確認。突撃準備(アターカ)……』
「……そこか!」
坂上は、兵士たちが現れた塹壕の、さらに先――丘の向こうを睨んだ。
「丘の向こうだ! ロシアのコサック騎兵が潜んでいる! お前たちを血祭りに上げるためにな!」
「黙れ!」
兵士が彼を殴ろうとする。
「証拠を見せてやる!」
坂上は、拘束の腕を振りほどきながら、バックパックからSDRとノートPCを強引に引きずり出した。
兵士たちが発砲しようとするのを、年長の曹長らしき男が制した。
「……やらせてみろ。何をやる気だ」
坂上は、震える手でPCを操作した。
時間は無い。
AIが解読した、ロシア軍の暗号鍵(コードブック)を呼び出す。
先ほど傍受した、コサック騎兵が使っていた周波数を特定する。
そして。
SDRを「受信(リッスン)」から「送信(トランスミット)」モードへ切り替えた。
「……見ていろ」
坂上は、キーボードを叩き、ロシア軍の暗号で、偽の命令を組み上げた。
『……作戦変更(イズミノー)。全隊、直チニ後退(オツピー)。後退セヨ……』
エンターキーを押す。
21世紀の「電子戦(サイバーウォー)」の兵器が、1904年の戦場で、初めて「牙」を剥いた。
SDRから放たれた強力な電波が、この一帯のロシア軍の周波数を「ジャック」する。
塹壕の中の日本兵たちは、何が起きたか分からない。
ただ、坂上が奇妙な黒い箱を操作しただけだ。
曹長が、丘の上の見張り台に叫ぶ。
「おい! 敵の様子はどうか!」
数秒の沈黙。
見張り台の兵士から、震える声が返ってきた。
「……な……」
「どうした!」
「……敵が……ロシアの騎兵が、退(ひ)いていきます!」
「馬鹿な! 突撃準備をしていたはずだぞ!」
「しかし、間違いありません! 丘の向こうへ……Uターンして……撤退していきます!」
塹壕の中が、水を打ったように静まり返った。
兵士たちは、目の前の「不可解な撤退」と、黒い箱を持った「奇怪な男」を、交互に見比べた。
坂上真一は、荒い息をつきながらPCを閉じた。
彼は、曹長に向き直った。
「言ったはずだ。児玉源太郎に繋げ、と」
「俺は、お前たちの『神の声』にも、『悪魔の声』にもなれる」
曹長は、目の前の男が「未来人」だとは理解できなかった。
だが、彼が「ロシア軍の暗号を操り、電波で軍隊を動かす、とんでもない技術者」であることは、理解した。
「……分かった。貴様の処遇は、俺では決められん」
「……総司令部へ、お連れしろ」
坂上は、冷徹な仮面の下で、安堵の息を漏らした。
第一関門は、突破した。
彼は、誰にも気づかれないよう、ノートPCの右下を一瞥(いちべつ)する。
そこには、無慈悲なアイコンが表示されていた。
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