第6話 霧の天文台
霧は耳だった。山の上の旧天文台へ続く坂を上がるほど、その耳は厚みを増し、港の霧笛の低い持続を吸っては、少し遅れて吐き出した。漣はフードの端をひと折りし、喉を締めないように顎を軽く上げた。吸う息は冷たく、舌の裏に小さな痺れを置く。足元の砂利は湿って重く、歩幅を狭める。夜は、進路の話題に向くようにできている。答えの代わりに、時間の層が増える。
旧天文台は、町の外れの小さな稜線に貼りつくように建っていた。銅の屋根は色を落とし、壁の塗装は薄く剥がれ、レンズはもう現役ではない。ドームの切れ目から覗く赤道儀は、錆を内側に含んで、動くたびに短い軋みを返した。軋みは音というより、金属の意地だ。少しのズレでも、体を通じて指先に伝わる。
《なぎさ》は、観測小屋の片隅に置いた。黒い箱は呼吸しない。港の波、工場の機械音、太鼓、風鈴──町の音景で学習された媒介は、ここでは位相を揃えるだけの役を持つ。慰めはしない。代わりもしない。渡すだけ。霧の耳に、手元の動きが迷わず届くように。箱の上に白い紙片を貼る。「出自:北鳴・共同作業の記録」。紙片は小さいが、見えないと困る。困るのはいつも、後でだ。
ドームを半分開け、錆びたハンドルを回す。赤道儀の軸がわずかに震え、ギアの歯がひとつ分だけ噛み直す感触が肩へ上がる。曇天。星は見えない。見えないのに、星の位置はある。星図を机に広げる。紙の端は湿って重い。印刷の薄い灰色の線が、霧の粒の奥で鈍く光る。対物レンズの向きは意味を持たない。今日は聴く。見ないで、聴く。
彼は手袋を外し、冷たい金属のリングに指を掛けた。指は暖かい。暖かい指は、決められない予定表の中で、ひとつだけは決めないまま残っている進路の欄のようだった。合唱部をやめてから、声の場所は増え、行き先は増え、選べるものは増えた。増えた自由は軽くない。軽くない自由は、時々、喉の布を固くする。
観測小屋の窓の向こうで、霧笛が一度鳴り、持続の底だけが戻ってくる。戻ってきた底の上に、彼は三句を置く準備をした。呼吸は背中へ。舌は水平。喉の隙間をひとつ分だけ広げる。星が出ていなくても、呼ぶ相手はある。霧の耳だ。耳は厚く、方向を持たない。方向を与えるのは、ここからの三句だ。
呼)「霧の耳、まだ知らない方角へ。」
声は低く、紙の端を濡らさないほどの湿りで出す。霧は答えない。答えないのに、赤道儀の軋みが半拍遅れて柔らぐ。ハンドルが軽いわけではない。ひとつの歯車の噛み合わせが、呼名のほうを向いただけだ。
本)「躊躇う指で星図を撫で、三歩だけ進む。」
撫でる。進む。三歩。抽象名詞は入れない。動作の列に、身体が乗ってくる。星図の紙の冷たさは変わらない。指は地図を読むふりをしながら、実際には自分の呼吸の底の位置を確かめる。三歩だけ。三歩なら、戻れる。戻れると分かると、進める。進めると分かっても、進まない自由は残る。
結)「星見+音のイベントを運営する。」
宣言は未来形だが、具体が伴う。設営、導線、会計、記録。曖昧な頼みごとではなく、段取りの宣言。声の端が少し硬くなる。硬さは悪くない。仕事の重さに触れた証拠だ。
唱術の直後、ドームの中の空気がわずかに澄んだ。澄むといっても、見えるようになるわけではない。位相の乱れがひとつ分だけ整う。整った隙間から、《なぎさ》が拾った町の音の微細が、霧の奥へ延びる。延びた音に、霧は濃くも薄くもならない。ただ、触りやすくなる。
赤道儀のモータを弱く動かす。動いた分だけ、軋みが短い。短い軋みの後に、机の上の星図がわずかに鳴った気がした。鳴るわけはない。紙は鳴らない。鳴ったのは、彼の指の皮膚の内側の微少な振動だ。そこに、古い五線譜を重ねる。観測日誌の間から出てきた黄ばんだ楽譜。合唱のアレンジが書かれたまま、放置された紙。五線の間隔と赤経の緯線が、霧の水分で同じ厚さに見える瞬間がある。重なると、星図は楽譜の方向を持ち、楽譜は星図の距離を持つ。
彼は指で星図の琴座を辿り、五線の第三線に触れた。触れた場所に、低い音の気配が立つ。音は出ない。出ないが、胸骨の裏側で持続だけが続く。夏の大三角が紙の上で曇天に埋もれ、その輪郭のかわりに、港の霧笛の遠い持続が、五線の下から上へ薄く渡っていく。星が見えない夜に、星は音になって降った。降りるというのは、頭上からではない。内側の天頂から、喉の布へ。布は湿って、しかし通る。
彼は小さく息を足した。その息が、乱れた。乱れると、霧は濃くなる。唱術の規律は、ここでも働く。歌が乱れると、霧は彼の視界の層を一枚増やす。増えた層のせいで、星図と楽譜の重なりが曖昧になり、赤道儀の軋みが少しだけ長くなる。乱れは罰ではない。乱れは、進まない自由の現れだ。進まないまま、彼はまた、三歩の位置まで戻れる。
《なぎさ》が短い調整を返した。返すのは、音の底合わせ。町の遠い機械音と霧笛の減衰を、赤道儀のモータの周期に寄せる。寄せているのは箱で、寄せられているのは周囲の層だ。彼はそこに、声を一つだけ落とした。
「ここで、いい」
誰に向けたのでもない。宣言でもない。自分の行為の位置確認。進めない自由の痛みは薄く鋭い。針ではなく、氷でなぞったような冷たさ。冷たさは喉の布の手前で止まり、布の手前で温度だけが上下する。温度の上下に合わせて、彼の指は星図の上の五線を二度目に重ねた。今度は、重なった。
星図と楽譜が重なる瞬間、時間は前にも後ろにも動かず、上下へ薄く伸びた。伸びた先で、音は和音にならない。和音にならないまま、二つの音がすこしずつ離れていく。離れる自由を、彼は肯った。肯うというのは、選ばない選択を、選択として数えることだ。数えたところで、答えは出ない。出ないまま、身体の重心だけが一つ分低くなる。
彼はハンドルを離し、机の端に置いたヘッドランプに赤いフィルタをはめた。今日の試行はここまで。ここからは返礼の段取りだ。唱術の結びで宣言した通り、星見+音のイベントを運営する。霧は舞台装置ではない。安全の導線、光の遮蔽、足元のテープ、携行灯の数、熱源の管理、駐車場の整理、帰路の案内、天候急変の判断基準。紙に書く。書くと、霧は少しだけ薄くなる。薄くなるというのは、触りどころが見つかるということだ。
——
準備は、町の手と一緒に始まった。観光協会の若手が、会計の枠を引いた。出金の見込み、入金(任意の寄付)、借用物の一覧、保険料。紙の角を折って、掲示板に貼る。貼る場所は陰。風が当たりすぎない。すずは安全導線の図面を引いた。赤い導光テープの貼り位置、階段の段差の強調、暗順応のための待機スペース。町工場の親方は、ポータブル電源の残量一覧表を作り、延長ケーブルの巻き取り順を確認する。《なぎさ》の役割は、小屋の中に限定した。位相の整列、反響の整え。音の発生は人が行う。箱は媒介。代替はしない。パンフレットの片隅に「AI音声の注記」と「出自:北鳴・共同作業の記録」を印刷した。
雨具の貸し出しは数に限りがある。事前に予約の紙に丸印を付け、印の数以上の受け渡しが起きないよう、受付の台の上に小さな碁石を置いた。碁石は持ち去られることがある。それでも良い。持ち去られた分は、別の手が持ってくる。持ってくる人の手を増やすために、導線図の右下に「持ち寄り歓迎」の欄を足した。
縦動画のテンプレートも作った。十五秒。三十秒。霧の中で見えるのは足元と赤い灯だけ。映るのは顔ではなく、手元の動きと、息の音と、赤道儀の短い軋み。キャプションは短い。「星音/手順」。笑いは要らない。要らないが、禁止もしない。笑いは別の層にある。ここは、呼吸の底に用がある。
「星音プレイリスト」を用意した。曲ではない。町の音の短い持続を並べ、霧笛、港の波、風鈴の停止、太鼓の立ち上がり、工場の深夜の間(ま)。それらを《なぎさ》で位相を整えて、赤道儀のモータの周期と重ね、導入の五分間にだけ流す。流すといっても、音量は小さい。耳に届かなくても良い。届かないが、体の表面に入る。入るものは、足の裏の圧と同じ場所で処理される。
——
当日。霧は濃い。観測小屋の入口で、彼は来場者の頭に赤いフィルタをつけたヘッドランプを渡し、導線のテープの上だけを歩いてもらう。階段の段差を声にせず指で示し、雨具の裾を踏まないように、袖口を少し折ってもらう。笑いは出ない。出ないことが、今日は良い。息の持続が崩れない。
小屋の中では、すずが朗読の準備をしていた。朗読は説明ではない。手順の提示。「ライトを落とす」「息を合わせる」「足を止める」。三つで充分。観測小屋の壁の時計は鳴らない。鳴らないが、合意された時間は動いている。動いている時間の中で、彼は唱術を置いた。
呼)「霧の耳、まだ知らない方角へ。」
本)「躊躇う指で星図を撫で、三歩だけ進む。」
結)「星見+音のイベントを運営する。」
《なぎさ》の中で、プレイリストの底が整う。霧笛の持続は短くなり、代わりに太鼓の立ち上がりの影が長くなる。影が長くなるところで、来場者の肩が一斉に落ちる。赤道儀の軋みは一回だけ短く、モータの周期は規則的に、しかし硬くならない。硬くない周期は、息の底を乱さない。
彼は五線譜を星図に重ねた。赤い灯の下で、紙は色を持たない。持たないのに、線の間隔だけが手に伝わる。線は音ではない。線は場所だ。場所は声を要らない。声が要らない場に、声は残らない。残らない声の代わりに、誰かの喉の布が薄く揺れる。揺れるのは、選べない自由の端に触れたときだ。
「見えないですね」と誰かが小さく言った。彼は頷いた。見えない夜に、星は音になる。降るのは音で、降らないのは涙だ。涙は要らない。ここでは要らない。要る夜もある。ここでは要らないように準備した。
霧が一度、濃くなった。すずの朗読の行が半拍だけ乱れ、彼の呼吸が追いかける。乱れに合わせて、彼は赤道儀のハンドルを止めた。止めると、霧は薄くなる。薄くなるはずだが、ならないこともある。今日は、ならなかった。ならない霧の中で、彼は進めない自由を数えた。数えると、霧は手順に変わる。手順に変わると、手が動く。
「三歩だけ、進みます」
彼は来場者に小さく言った。導線のテープに沿って、三歩だけ。歩幅は狭く、靴裏の水を飛ばさない。三歩進むと、霧の耳が少しだけ角度を変える。角度を変えた霧の中で、星図と五線譜の重なりが、また許される。許される瞬間、すずの声が戻る。戻った声は説明を含まない。動作だけを言い、言い終わったところに沈黙が立つ。沈黙は、和音よりも厚い。
クライマックスは、音量ではなく、重さの配分で来た。星図の琴座の直線と、五線の第三線がぴたりと重なり、彼の胸の板が内側で一度だけ外れる。外れて落ちない。外れたまま、体の中で回転し、回転が止まらない。止まらないことを肯う。肯うのは痛みだ。痛みは鋭くなく、鈍くもない。冷たい。冷たさは喉の布の前で止まり、布は柔らかく、息は通る。通った息の先で、港の霧笛の減衰が、天文台の柱の影へ移った。
「選べない自由」を、彼は誰にも聞こえない声で言った。言ったことは届かない。届かないままで良い。届かないまま、彼の両手は、来場者の見えない星をひとつずつ指差す。指差す方向に、音はない。音がない場所を示す指は、誰かの胸の裏側で持続に変わる。
——
イベントは、二時間で閉じた。閉じたあと、返礼へ移る。設営の撤収。導線のテープを剝がす。階段の段差を乾いた布で拭く。小屋の窓を閉め、ドームを戻す。赤道儀のハンドルに薄くオイルを差す。借りた機材の点数を数える。返却物に小さく印をつける。《なぎさ》の電源を落とし、ケーブルの端を束ねる。束ねたケーブルに日付の紙を巻く。紙には「出自」を書く。録音物の保存先を一つだけ決め、フォルダ名に「町」と「手順」を入れる。
会計は翌朝に公開した。出金:導光テープ、赤フィルタ、保険料、印刷費。入金:任意の寄付、工場からの無償貸与(評価額を括弧で併記)。差額は町の備品購入へ。紙には金額だけでなく、手の写真が添えられた。テープを剝がす手、印鑑を押す手、ケーブルを束ねる手。手は、責任の形を持つ。持つ形が見えると、霧の耳は厚みを減らす。減った耳の向こうで、町の音が少しだけ軽くなる。
「星音プレイリスト」は、音源の出自を添えて公開した。霧笛(港)、波(千鳥)、太鼓(保存会の練習場、許可済み)、風鈴(一軒の縁側、匿名希望)。説明は足さない。使い方は、手順だけ。「録る」「置く」「返す」。縦動画は短く編集した。赤い灯、足元、息、軋み。キャプションは「手順」。笑いは入らない。入らない動画は退屈に見える。退屈な動画は、見る人の呼吸を少し遅くする。遅くなった呼吸が、その人の家の夜の音と、薄く重なる。
——
片づけの終わりに、彼は赤道儀のハンドルに指を置いた。軋みは短い。短い軋みが、彼の内側の板の縁に触れる。触れて、何も決めない。決めないまま、喉の布を撫でる。撫でると、布は柔らかくなる。柔らかくなった布は、声を要らない。要らない夜だ。要る夜もある。ここでの夜は、要らない。
すずが小屋の扉を押し、外の霧を覗いた。彼女は何も言わず、顎で坂のほうを示した。降りる。降りる途中、導線のテープの接着の跡が、足の裏にわずかな粘りを残す。粘りは不快ではない。今日やった仕事の痕跡だ。痕跡は、明日の手の始まりになる。
彼は心の中で三句をもう一度なぞった。呼:霧の耳。 本:三歩。 結:運営。声には出さない。出さないまま、胸の内側で和音にならない二つの音が、少しずつ離れていくのを肯い、離れたまま、足裏の圧を導線の上に置いた。
進路は決まらない。決まらない自由は痛む。痛みは、彼の体の中で場所を持つ。場所がある限り、手順は動く。手順が動く限り、町の音は少しだけ軽くなり、軽くなった分だけ、誰かの声が通る。通った声は、誰のものでもないまま、霧の耳へ吸い込まれ、遅れて吐き出される。その遅れが、今日の収支報告の紙の上で、数字の横に並ぶ手の写真と同じ意味を持つ。意味は厚くない。厚くないので、次の夜に持っていける。
坂の下で、港の霧笛が短く鳴った。鳴って、止んだ。止んだあとに残るのは、耳ではなく、足の裏。彼は足の裏で、町の地図の薄い凹凸を読む。読むと、方向はひとつではない。ひとつでないことを、彼は今日、肯った。肯いながら、灯りのスイッチを落とし、霧の中へ入っていった。
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