踊る指先 ―触れられない私たち―

@__shiika__

第1話 はじまりのステップ

触れられない距離だと、最初からわかっていた。

それでも、彼女の隣に立つたび、心は勝手に近づいていった。


ダンススクールで出会った、私たちの話。



漸く暖かい日が増え始めた、3月最初の週末。

朝の光が差し込むガラス張りのスタジオは、少し冷たい空気を抱えながらも清潔な匂いがした。


開始10分前。鏡の前には、5人ほどの女性が慣れた仕草で静かにストレッチをしている。

杏もその空間に溶け込もうと、見よう見まねで右足を伸ばしながら少し緊張していた。


(…本当に来ちゃったな)


平日の仕事帰り。久しぶりに何か始めてみようと思い立って、見学のつもりで足を運んだのが先週。

当日申込み初月無料の誘いに釣られて勢いのまま会員になり、今日が初めてのレッスン。

「女性限定」「初心者歓迎」と書かれていたけれど、

スタジオの鏡越しに映る人たちは、みんな体の使い方に迷いがない。

自分だけ浮いているような気がしていた。


どこを見て過ごせは良いかわからず、つい忙しなく視線を漂わせてしまう。


(場違いだったかな、どうしよう…)


楽しみにしていた気持ちを覆い隠すように、不安が募り出す。


そこに。

ガチャッ、と勢いよくスタジオのドアが開いて、爽やかな声が響く。


「おはよ〜!」

声のする方へ、杏は誘われるように視線を移す。

その瞬間、部屋の温度が一度上がったような気がした。


大きめの真っ白なTシャツとグレーのスウェット。身体のシルエットを拾わないレッスン着に包まれていてもわかる、すらりと伸びた手足。ウェーブのかかったショートヘアが跳ね、浅く被ったキャップから溢れている。

ひと目で「慣れてる人だ」とわかる、軽やかな足取り。

そして何より、彼女──優の笑顔には、この空間を一瞬で明るくしてしまうような力があった。


「優ちゃんおはよう」と何人かが声を掛ける。

ひとりひとりに片手を上げて、改めて挨拶を返す姿に思わず見惚れた。


(ゆう、って感じ)


そんなことを考えていると、不意に目が合う。杏は慌てて会釈をした。

優は、僅かに目を細めて、杏の目の前にしゃがみ込む。


「はじめまして、優です。」


「あ、杏です。よろしくお願いします。」


「杏ちゃん、よろしく。かわいい名前〜」

当然のように差し出された手は、杏よりひと回り大きく、人差し指の付け根の部分が少しだけ硬い。

なんの仕事をしてる人だろう。

握った瞬間、なぜか背筋が伸びた。


「緊張してる?こういうのは楽しんだもん勝ちだよ!」


言葉の明るさとは裏腹に、視線の奥にはどこか鋭い光があった。

いたずらっぽく笑うその目に、少しだけ心がざわめく。



レッスンが始まる。

ヒップホップのリズムが流れ、汗ばんできた頃に先生が声を張る。

「じゃあ、少し休憩してからペアになってステップ踏んでみよう!みんなお水取って!」


優はすぐに数人の仲間に囲まれて、中心で笑っていた。

誰とでも冗談を言い、笑い合う。

杏はその輪の端から、その光景を他人事のように見つめていた。


(ああいう人がいるだけで、空気が軽くなるんだな…)


次の瞬間、優と目が合った。

優は小さく手を振って、まるで「こっちおいで」と言うように顎をくいっと動かした。


「杏ちゃん、ステップ一緒にやる?」


杏は、反射的に頷いていた。


音楽が始まる。優の動きを真似てステップを踏もうとするけれど、

リズムがずれて足がもつれる。


「ごめん、私には難しいな…」


「大丈夫大丈夫。ちょっと失礼」


優がすっと杏の後ろに立ち、肩に手を置く。

細い手首なのに、意外と力がある。

「ここで1、2、3。で、もう一回トントン。そうそう。よく聴いて、身体を音に預ける感じ」


言葉は優しいけれど、鏡越しにこちらを見る目線は少しだけ挑発的だった。

緊張で肩に力が入る。不意に指先が杏の腰に添えられた。


「もっとゆるく。力抜いていいよ」


触れたのか触れていないのか、わからないほどの距離。汗をかいているはずなのに、柔軟剤のいい香りがする。


(……全然集中出来ない)

杏の心臓は、リズムよりもずっと速く鳴っていた。


音楽が止まる。先生が次の説明を始める間、

優がふっとこちらを見た。


悪戯っぽい笑み。


ドキドキがバレてしまったらどうしよう。

杏は思わず、視線を逸らした。

頬が少し熱い。

けれど、不思議と楽しかった。





レッスンが終わると、いつの間にか窓の外は少し霞んだ午後。

鏡に映る自分の頬が少し赤いのを見て、杏はタオルでそっと顔を覆った。


「杏ちゃん、おつかれ!」


優が、ペットボトル片手に駆け寄ってきた。

その笑顔には、レッスン中の真剣な表情とはまるで違う柔らかさがある。


「初日なのに、よく頑張ってたね。ステップ、ちゃんとつかめてすごい」


「えっ、そんなことないよ。途中で足が全然動かなくなっちゃって……」


「でも、リズムはばっちり感じてたじゃん。そこ大事」

優は軽くウインクして、ペットボトルの水を一口含んだ。

喉を鳴らして飲み干す音が聞こえて、杏はなぜか妙に意識してしまう。


(この人、ほんとに自然体だな……)


優はタオルで額を拭いながら、明るい声で続けた。

「よかったら、今度一緒に練習しよ。レッスン前とか後とか、ちょっとだけでも」


「いいの?」


「もちろん!せっかく同じクラスだし」


杏は一瞬言葉に詰まった。

社交的な優にとっては何気ない誘いなのだろう。

でも杏は、感じたことのないドキドキに戸惑っていた。胸の奥が少し熱くなる。


「…それじゃあ、ぜひ。ありがとう」

緊張が顔に出ないよう、自然な笑顔を意識する。


優は満足そうに笑い、軽く杏の肩を叩いた。

「じゃ、来週も頑張ろうね。また杏ちゃんの顔見るの楽しみにしてる」

不意に掛けられた言葉に、杏の表情は思わず崩れる。


動揺を気取られないように、一言「私も」と返した。


スタジオを出ると、春の風が頬を撫でた。

晴れ晴れとした空を背に、優が振り返って手を振る。


「じゃあ、気をつけてね!」


その声は明るくて、どこまでも軽やかだった。

けれど杏の心の中では、残響が続いている。


「ゆう、ちゃん」

今日の出来事をなぞるように、小さく呟く。


(来週、また会えるんだ)


偶然の出会い。どんな人かも、まだわからない。

それなのに、杏の足取りは軽かった。


名前を呼んだ唇の感触が、まだ残っていた。


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