第11話 覚悟の末

 保健室の扉は固く閉ざされていた。


 私は開くと思っていた壁に背中を預けてその場に座り込んだ。

 厚着してきたつもりだけれど、肌寒い気がする。


 およそ1年ぶりに来た学校。何かが変わったのかもしれないし、全くもって不動のもののようにも感じられた。

 制服に袖を通したのも、多分1年ぶりくらいだろうか。

 親からは無理しなくていいと言われたけれど、心配しないでと必死に強がって1人で来た。


 正直、自分でも自分の行動に驚いている。小学生の無謀な自分を思い出したから、というのもあるのかもしれない。だけど、初っ端からすでに心は萎えかけていた。


「打つ手なし……?」


 まあ保健室がダメなら、職員室へ行くのが無難だろう。だけど、あそこは怖い。あそこは私のような人間を白い目で見てくる。変わり者の先生くらいしか、私と会話してくれない。

 そうでなくても、ここに来るまでの道のりで息も上がってしまっていた。正直、登校レベルの運動をしたのも1年くらい久しぶりだ。2階にある職員室なんて行けそうもない。もう寝てしまいたかった。


 かといって、教室へ行くのも辛い。3階というのもあるけれど、きっと変な目で見られるだけだ。

 それでも、ちょっとだけ、一瞬ちらっとでも横道さんの横顔を見られたら、できることならお話ができたら、なんて、考えて出てきてしまった。こうした大きな壁のことなんて、昨日の自分も今朝、というか昼頃の自分もさっぱり想定していなかった。我ながら計画のなさが嫌になる。


 近くの柱にかけられた時計を見上げれば、もうすぐ13時55分。


「あれで10分だけ待ってみよう」


 声に出してみて、なんとなく覚悟が決まった。

 ここで待ってみたところで何になるのかなんてそんなのわからない。10分というのも、いつから10分か曖昧といえば曖昧だ。でも、そんな細かいところはどーでもよかった。期限が決まるだけで、バクバクうるさいだけの心音も頬のほてるような熱さも、油断すれば浅くなる呼吸も、胸の奥にある消えない冷たさも、ちょっとだけ心地よく感じられた。

 そのおかげで、ほんの少しだけ周りの情報を取り入れるだけの余裕ができて遠くから人の声がするのに気づく。

 きっと今は授業中、いや、もしかしたら休憩時間かも。私はしばらく学校に来ていないせいで休みと勉強のペースをすっかり忘れてしまった。

 懐かしさと羨ましさの狭間で私は時計の針を目で追っていた。


 *


 無限にも感じられた5分がすぎて、私は目尻に滲み出した涙から、もう帰ろうと背中を支えに立ち上がった。


 くらむ視界にじっとしていると、「キーンコーンカーンコーンキーンコーンカーンコーン」と、やたら間延びしたチャイムがまるで私の動きを待っていたかのように校舎中に鳴り響いた。


 ビクッと体が震えたきり、頭が真っ白になって、何をしようとしていたのか全部わからなくなってしまった。


 人が来る。怖い。待っていたはずなのに、誰を? それより逃げないと。


 体が、動かない。


 体育館の方からは楽しげな雑談の声と共に、まばらに足音。


 ヤバい、と思うのに反して、すくんだ体は未だに動いてくれそうもない。ただ、吐き気だけがひたすらに込み上げてきていた。眼球が押し出されるんじゃないかってくらい、涙があふれて止まらない。心臓の音すらわからなくなて、私に見える世界は回り、壁に手をついていなければ立っていることもできなくなっていた。


 終わりだ。終わり、終わりが終わる。終わってしまう。


 思考が一点に囚われていたはずなのに、すぐそこで、「先行ってて」という聞き慣れた声を私は聞き逃さなかった。それだけのことなのに、首も動くようになって、温かな手に私の手が包まれた時、体が急に軽くなった気がした。今ならどこへでも行けそうな錯覚を覚えた。


「大丈夫? いける?」


「うん」


 反射で声が出ていた。

 指先からの熱が全身を満たしてくれるようで、吐き気は一歩足を前に出すたびに嘘のように引いていった。止まっていた体が動き出す。

 無理だと思ったのに、引かれてしまえば下駄箱の方へと体は自然と動いていた。


 私が走っている。


 顔を上げれば、目の前には少しだけ頬を上気させて髪をまとめた女の子、初めて見る体操服姿の横道さん。

 体育終わりのはずなのに、私の方が息を切らして馬鹿みたいに、はあはあ言っていた。


「大丈夫?」


「……走った、せい」


「気が回らなくってごめん」


 ふるふると首を振る。今は不思議とめまいがしない。


 顔を上げると視線がぶつかった。口を開く。話したいことはいっぱいあったはずで、ぱくぱくと動くのに声が出ない。


「来てくれたの?」と目を輝かせて言ってくる横道さんの姿が直視できず、私は視線をそらした。「ん」とだけ答え小さく頷く。


 ああ。私は結局変わってないんだな、とちょっとだけ失望した。

 でも、そんなことどうでもいいくらい。来てよかったと思えた。横道さんのこの照らし出すような笑顔を見られただけで。


 いつものように、「偉い」と柔らかな手が私の髪をすくように撫でてくれた。それだけで、私の挑戦は報われた気がした。


 普段見られない姿も見られたし、友だちよりも私を優先してくれた。多分……。


「保健室開いてなかった? 先生探してこようか」


 すぐに行こうとする横道さんの手を取って、私はまた首を振る。


「んーん、大丈夫。疲れたし、今日はもう帰ろうと思う」


 これ以上は耐えられない。そんな気がした。


 振り返った横道さんが少し驚いたように目を見開いたように見えた。けれど、すぐにいつもの笑顔になって私の手をまた包んでくれた。


「わかった。気をつけて帰ってね。それじゃ、また放課後」


「うん」


 手を振られ、私も手を振り返す。


 今日、初めて横道さんに見送られた。


 それは悪くなくって、学校に来たこと自体も思っていたよりも悪くなくって、また来てあげてもいいかな、なんて、ちょっとだけそう思った。

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不登校の私がプリントを届けに来る学級委員に手玉に取られるはずがない 川野マグロ(マグローK) @magurok

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