異人奇譚外伝―泡に消える―

大法螺 与太郎

異人奇譚外伝―泡に消える―

 ──居酒屋 常夜──


 珍しく〈常夜〉のカウンターに、

 女と与太郎が並んで腰掛けていた。

 瞳をうるませ、下を向く女に、

 女将が優しく声をかける。


「大丈夫よ。一週間、二週間、連絡しない男なんてざらにいるわよ。

 元気出して。ほら、大根と玉子、サービスしてあげる。」


 女将が与太郎に目で合図を送りながら、

 大根と玉子をそっとカウンターに置いた。

 与太郎は頷いて、

 女のグラスに酒を注ぎながら言う。


「その通りだ。

 ちょっと連絡がつかないくらい、気にしちゃいけねぇ。

 ……そうそう、こんな話だってあるくらいだ。」


 珍しく困り顔の与太郎が、

 ちらりと女将に視線をやる。

「いじめちゃだめよ」

 ──女将が、目でそう言っていた。

 与太郎は小さく息を吐き、

 珍しく優しい声音で語り始めた。


「これは、“さくら”って名前の女の話しだがな……。」


 ◇◇◇


「寂しいな……。」


 お風呂に沈みながら、

 つい口からこぼれた。

 新しいシャンプーの香りが残ってる。

 小さな慰めはドラッグストアで買える。

 そんな小さな慰めじゃ、

 流せないあの日の景色が、

 泡のように浮かんできた。


「ねぇ、翔太。あたしと別れたら、寂しがってくれる?」


「何言ってるの。さくら──大丈夫?

 寂しいに決まってんじゃん。」


「じゃあさ、あたし以外の人と別れた時と、

 あたしと別れた時と、どっちが寂しいと思う?」


「なにそれ、さくら──ちょっと変だよ。」


 なんであの時、

「さくらに決まってる」って言ってくれなかったんだろう。

 めんどくさい女。

 そんな顔をしてたよね。

 でもいいの。

 わかってるから。

 あたしじゃなくても、翔太じゃなくても……。


 人は誰かと出会って、恋に落ちる。

 当たり前のことだ。

 人の気持ちは縛れない。

 縛ろうとするほど、するりと逃げていく。


 ──でも、逃げるのは違うよ。


 翔太と連絡が取れなくなった。

 もう一週間。

 どこかで、別の人といるのかな。

 嫌だな……。


 スマホから流したリラクゼーションミュージック。

 ちっともリラックスしない。

 胸の中に空いた穴を、

 音楽が通り抜けていくだけだ。


 狭いお風呂の棚に、

 無理やり並べたボディスクラブが寂しそうにたたずんでいた。

 パッケージの文字が、銀色に輝いている。


『ふれたくなる、もちすべ肌に』


 ──ごめんね。

 ふれさせる人、いなくなっちゃった。

 しばらくは使う気になれない。


 そういえば、翔太は匂わせてたよね。

 二人で一緒になるって。

 あの日も覚えてる。


「ねぇ、東京からちょっとドライブしただけなのに、

 こんなにすごいイルミネーションがあるなんて、びっくりだよね。」


「ほんとだよね。さくらと来れて、本当に良かったよ。」


「翔太、手がすごい冷たい。

 なんか温かいもの飲もうよ。ココアとか。少しはあったまるよ。」


「そうだね。でも、さくらのおかげで心はいつも温かいよ。

 ──さくらの心も、俺がずっと離さずに温め続けたいな……なんて、カッコつけてみた。」


「そうやって、すぐ茶化す。

 でもね、そういうところも、もっと一緒にいたいって思わせるんだよ。」


 あたしね、初めて白黒の夢を見た。

 あの日のイルミネーションは、あんなに鮮やかだったのにね。


 ──そろそろ、癒されない音楽は止めよう。


 スマホを眺めた時、

 おすすめの動画が目に入った。

 フォトウェディング、家族婚。

「バカみたい……」

 スマホを掴み、アプリを閉じる。


 その瞬間、着信でスマホがお風呂に落ちそうになった。

 手を伸ばして画面を見た。

 小さくため息が出る。

 知らない番号。きっと詐欺。

 着信が切れるのを待ち、

 外に出る。

 明日も仕事だ。

 なんとか出社しなきゃ。

 タオルを巻いて、スキンケア。

 でも今日はフェイスパックで楽をしよう。

 顔にパックを乗せて、スマホを見つめる。


 絶対、詐欺だと思うけど……。

 さっきの番号を検索した瞬間、

 スワイプする指が止まった。


 ──病院。


 嫌な予感が、駆け上がってくる。

 さっきまで温かかった体が、

 一瞬で冷たくなった。

 折り返し電話をかけた。


「はい、そうです。

 えっ、本当ですか。それで彼は──

 よかった……。ありがとうございます。」


 電話を切ったあと、

 息を吐くと足に力が入らなくなって、脱衣所に座り込んだ。

 自分の人生にも、

 こんなドラマみたいな展開があるんだ。

 すぐ翔太に会いたい。

 とりあえず明日は午後半休をもらおう。

 パックを外して、化粧水を手に取った。


「プロポーズって、あたしから言っちゃってもいいんだよね。」


 シャンプーの匂いが、優しく鼻をくすぐっていった。


 ◇◇◇


 ──居酒屋 常夜──


「とまぁ、こんな話しよ。」


 与太郎が頬杖をついて、

 聞き入っていた女に優しい視線を投げた。


「おじさん、あたしの彼も……何か事情があるのかな。」


 女が、与太郎にすがるような視線を向ける。


「そうにちげぇねぇ。あわてずに待ってやんな。」


 与太郎がいつになく優しい声で話しかけた時、

 女のスマホが鳴った。

 女が小さく「彼だ」とつぶやく。


「もしもし、うん。

 えっ、今から──。

 行けるよ。うん。ゴールドはちょっと……でもピンドンなら。

 わかった、待ってて。大好きだよ。」


 女は電話を切ると、

 晴れやかな決意を含んだ表情で、与太郎と女将を見た。


「おじさん、おばさん。ありがとう。

 あたし行かなきゃ。

 やっぱり、あたしが必要だって彼が言ってる。またね。」


 女は一陣の風のように、店を出ていった。

 女将と与太郎の目が合う。

 与太郎が口を開きかけた時、

 女将の目が「何も言うな」とつぶやいていた。


 与太郎の青いグラスで、氷が澄んだ音を立てた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異人奇譚外伝―泡に消える― 大法螺 与太郎 @kai0720

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ