名探偵の助手

ま ゆい

バイオリニストの娘

第1話

 また目が覚めてしまった・・・。


 ベッドの上から起き上がったとき、ワトソンは同じ言葉をもう一度繰り返す。三年前からずっと、この言葉は彼の寝床にしがみついている。

 起き上がり、かすかな眠気が残る頭に手を当てる。それからゆっくりと、ベッドから抜け出す。

 幸い明日は診療の予定はないんだし・・・と夜更かしを心に決めながら、なにか飲むものを求めてキッチンへと歩き出す。

 泣き声が聞こえてきたのはその時であった。


 しくしく・・・。

 すんっ!すんっ!


 鼻をすする音、涙を拭う音、それがワトソンの耳に入ってきた。

「誰だっ!」

 この家にはもうわたし以外誰もいないんだ――、言いかけたとき、とたん、視界に、泣き崩れる少女の姿が入ってきた。白いワンピースを着て、長い茶髪の少女。顔は、背を向けていて、かつ、涙を手で拭っていることにより、見えていない。

「どうして君みたいな子どもが、こんなところに・・・・」

 そう問いかけようとして、止まってしまった。まばたきをしていた一瞬で、少女はいつの間にか消え失せてしまっていた。

「・・・・・」

 ハァ、とため息をつく。何かを飲みたい気持ちもしぼんでしまい、ワトソンは困ったように目を伏せて、ベッドに戻ろうとした。

 またその時、バイオリンの音が聞こえてきた。


 懐かしい音だった。


「・・ホームズ・・・?」

 いや、ちがう、これは彼の演奏じゃない。

 長年聞いてきた、彼の演奏ではない。

「・・・・」

 音の出どころもわからなかった。ワトソンはうんざりしたかのようにまたため息をついた。

 ああつかれた、と今度は言葉に出して、ぽすんとベッドに体を預ける。苦しそうに、眉間に眉を寄せる。祈るような表情だった。あるいは、泣くのをこらえているかのような力強さだった。

 バイオリンの音はまだ続いていた。また、今度は明確に、彼は寂しさを覚える。隣にいてくれていた、今は亡き妻のことを想う。隣に立たせてくれていた、今は失き探偵のことを想う。

 また忘れる、こんな夢のこと。そうだ、これは全部夢なんだ、ぜんぶ・・・。

 静かに眠りに落ち、きっと明日にはこの夢のことを忘れてしまう彼の脳裏に、しくしくとまだ泣き声が響いている。

 たすけて、たすけて、と・・・・。



「ねえねえきいた!?シャーロックホームズの話!」

「ええっ、なによその人ぉ」

「――ああわかった!有名な探偵さんだわ!」

 ――さて、場所は変わりロンドンの靴屋。「マーサ・ロンデアニー」と書かれた看板が飾られた入り口をくぐると、靴屋に勤めている従女たちが、それぞれの話に花を咲かせているのがわかる。手を止めて話し合っている。

 そんな中、一人、日の当たる作業机の中で、もくもくと靴を磨いている少女が見える。まだ十八歳の、キラキラと光る鉄のような銀髮を三つ編みにした、くすんだ青色のワンピースの少女。そんな彼女を机に残したまま、従女たちがこの靴屋の店主マーサの話に聞き入っているのが、この靴屋の日常風景だった。

「――でもなに?あの名探偵さんがどうかしたの?」

「たしかスイスの滝に落ちて死んじゃったんでしょ?」

「かわいそうよねえ、私あの人好きだったのに。というかあの人の伝記が好きだったわ。ただでさえ謎解きが面白いのに、作者さんの書き方がうまいんですもの」

「・・・・っ私の話をとるなーーーー!」

 と、従女たちがそれぞれで話し続けたせいで、店主マーサを怒らせてしまったようである。群衆は口々に謝り、彼女の話を待つ。

 ごほん。とマーサが言った。

「・・・・さてっ!・・・さっきあなたたちが言っていたように、彼、有名な名探偵、シャーロックホームズには伝記があるの。同居人、ジョン・ワトソンさんが書いている・・・ね」

「でも、ワトソンさんが結婚してから、ホームズ亡き今も、全然出版されなくなってるじゃないの」

 従女の一人が言う。マーサはうなづき、

「うん!そう。でもね。知ってた?実はね・・・」

 と、マジシャンが盛大なトリックを仕掛ける前のように言った。群衆からの視線が集まる。実はね・・・・とまたもったいぶるように言う。

「・・・実は、新作が最近発売されたのよーっ!」

「ええっ?そうだったの!?」

 ・・・と、反応したのはさっき話していた一人の少女だけで、後の群衆は、なんだそんなことかと一気に冷めていった。ブーイングまで聞こえてくる。マーサは目をぱちくりと丸め、

「・・・・え、みんな、知ってたの?」

「「知ってるよ!!」」

「なあんだあ、特大情報だと思ってたのに。・・・ねえアンナ?」

 と、話しかけられたのが、先ほど一人で作業していた少女、アンナであった。

「えっ?・・・うん、そうね」

「それにしても面白かったわああの新作!犯罪界のナポレオンと名探偵の対決ですもの!」

 と、従女の一人がしみじみと言った。

「そうねえ。三年前の出来事で、ホームズが死んだあとなんですから、そこがかなり悲しいけどね・・・・」

「そうよう、死ぬなんて想像してなかったわ・・・・。生きていてくれたらどんなに良かったか・・・・」

 とそこで話を止めた従女の一人が、ポツリと呟くように言った。

「・・・・でも、一番うれしかったのは」

「・・・・うん?」

「・・・・著者のワトソンさんが、三年たっても、ホームズさんのことをちゃんと想っていてくれていたことよね」

「そうねえ、たしかに・・・・・」

「三年って、長いわよ」

「そういえばワトソンさんて、奥さんが去年亡くなられているんでしょ?」

「不思議な人よねえ」

「そういえば私たち、ホームズさんのことはたくさん知っているけれど、ワトソンさんのことなんか、これっぽちも知らないのよね」

「そうね!見ることも、話すことも、ないし・・・・」

「また彼とホームズの活躍が見たいわ」

 ホームズはもう死んでしまったけれど・・・・、そう口から落とすように誰かが言うと、一番最初に悲しげな表情をしたのはアンナだった。彼女も耳から入るこの会話を、自分でも気がつかずに聞いていたのだ。彼女は靴を磨く手を止め、ゆっくりと手を上げ、指の爪をかみ始めた。ゆっくり、噛み締め、痛めるように、それは一種の祈りにも、懺悔にも、後悔にも見えた。

 また群衆がそれぞれの話に戻り、ちゃんと働こうとする姿勢はどこにも見えないままでいた。アンナにも働こうとする気配は見えなくなった。彼女は空中を見つめ瞳の中に何をとらえたのかそこから微動だにしなかった。従女たちはまた話をしている。催眠術の話があってね・・・・・・・・手を叩くだけで餌をもらいに来る犬が・・・・・・・・でもそれ信じられないわよ・・・・・・・・そうかも知れないけど・・・・。

 

 カラン、


 とベルの音がし、先ほどまでのぐだりようが嘘のように従女たちが自分の持ち場へ散った。店主が、来た客の相手をしている。アンナも指をゆっくりとまた離し、靴を磨き始める。ふと店主が気が付き、アンナに話しかけた。

「ごめんアンナ、テザーリの店へ行ってきてくれる?オイルが足りないの」

「わかったわ」  

 うなづき、裏口へ歩く。アンナの姿が道へ消えていく・・・・。



 ロンドンの昼の街は、柔らかな日差しが当たって彩りがいい。特に冬は格別だ。アンナも今日の昼の街にはなんの不満もなかった。

 靴屋から出て、路面電車に乗る。乗客が湧き出た路面電車なんて日常の風景で、アンナは慣れた様子で電車の手すりに片手を、入口の床に片足をかけ乗り出した。ガラガラと流れていくロンドンの町並みを眺めながら、何を考えているのかアンナは電車に乗っている。

 ある程度の目的地へつくと、飛ぶように電車を降り、また歩き始めた。テザーリの店へ向かうには、表通りを通るよりも裏を通るほうが早い。何回も行ったことのあるアンナは、無意識に裏通りを通っていた。

 時々立ち止まり、うつむき、指の爪を噛む。また顔を上げ、歩き、背筋を伸ばしたままだったのがだんだん曲がってきて、また指の爪を噛んだ。歩き出そうと顔を上げようとしたとき、人にぶつかった。

「おっと」

「す・・・すみません」

「どうってことないさ」

 自分の背より高い位置から聞こえた低い声に、アンナが顔を上げた。目の前に立っている三人の男のうち、一人とぶつかったようだった。体が大きく、たくましい筋肉のついた胴体だった。

「それよりどうかな?俺とお茶しようよ」

「そ、その」

「ほおら、お前がこんなにごついから、こわがってしまったじゃないか。こういうのはゆったり、雰囲気を持って誘うんだよ」

 もう一人の男が、揶揄するように言う。

「そういうものか」

「あの、テザーリの店へ行くので、」

 アンナが絞り出すように言うと、それまで黙っていた男が寄ってきた。

「テザーリの店?ずいぶん近くじゃないか。送っていくかい?」

「こいつのほうがお前より一枚上手だよ」

「なにい?」

「と、通してください!」

「ああ嬢ちゃん、テザーリの店なんかどうでもいいんだよ。これから俺達とお茶でもすれば全部忘れるさ」

 最初に話しかけてきた男の手がアンナをつかんだとき、アンナはひゅっと息を呑む。力強い力!きっと抵抗しても逃げられない。

 それでもなんとか断りの言葉を言おうとしたとき、眼の前にいる男三人ではない誰かが、アンナの肩を掴んで、後ろへ引き寄せた。

「すまない――いま見つけた」

 アンナに向かって言っている。

「だ、誰だお前は!」

 アンナにだって誰だかわからない。彼女は慣れない場面で体を動かせずにいる。目に入るのは、ぎょっとした顔つきの男たち三人だった。

「いや、娘が茶に誘われたのなら、父としては礼を言わなければと思ってね」

「あ、あの、」

「父?」

「おい・・・・」

 察した一人の男が、目を伏せて気まずそうにほか二人の肩をつつく。それから事態を察した三人の男は、背を向けて走り去っていった。

 アンナは硬直したまま、肩に手を乗せてきた男の顔も見れずにいる。

 やっと振り返って、ありがとうございました、と言い、お辞儀をした。

「いや」

「助かりました・・・すみませんでした」

「君が謝ることじゃない」

「それは・・・・」

 まあ・・・・とだけ言う。

「でも本当に・・・・助かりました。さよなら・・・・」

 ろくに相手と目も合わせず逃げようとすると、ぽんと肩を叩かれ、待って、と呼びかけられた。アンナが振り返ったとたん、


 薬の匂いがした。


 気がついた時には、手には包帯が握られていた。

「爪を噛むクセは、あまり良くない」

「あ・・・・」

 私なんかにそんな、と問うと、彼は静かに笑った。

 そこでようやく、アンナはその男を目に捉えることができた。

「わたしは医者なんだ――困ったらうちに来るといい」

 茶髪が揺れた。

 アンナが先ほど対面した男たちと同じくらいの身長だった。暗い色の外套が、髪と対比されてよく似合っている。髪は透けるような茶髪だったから。小さな茶色の口髭から、優しい微笑みの習慣ついた口が、小さくのぞいている。

 まつ毛が長く、瞳は鳶色だった。

 麗人だ、きれい、とアンナは小さく口を開けたまま思う。

「・・・・とにかく、君が助かったようでよかった。これで」

 また、と去っていこうとする男に、アンナがとっさに呼びかけた。

「あの・・・・っ、」

 動きが止まる男を見て、少し顔を赤くして、また続ける。

「もしあなたがお医者さんなら・・・・っ、

 ・・・・ジョン・ワトソン医師って、・・・・ご存知ですか・・・・?」

 それから、自分の意外すぎるほどのおこがましさに、また赤面する。指の爪をかもうとして、包帯があることに気が付き、やめた。

「・・・・どうして、それをわたしに?」

「・・・・いえ、や、やっぱり大丈夫です。ごめんなさい。さよなら」

 ぱっときびすを返してアンナが早足で歩く。男が少しなにかを考えてから言う。

「君のことをワトソンに伝えたほうが?」

「・・・・いえ、いいんです。さようなら!」

 消えていくアンナの背を見ながら、男はしばらくの間をおいて、振り返り、彼女とは反対方向へ歩いて行った。

 アンナの歩く速度はゆっくりと落ちていき、ついには立ち止まってしまった。

 そこから、また手を上げ、手の中にある包帯を見つめる。

「・・・・・」

 そして、困ったら、うちにきたらいいと言う言葉を思い出す。

 そうだ、昔も、同じような言葉を言ってくれた人がいた――。

 ・・・・マーニー、とつぶやく。

「・・・・マーニー・・」

 ――だめよ、私なんか、なんて言っちゃ。私はあなたが好きよ。

「・・・・・・」

「――アンナ!」

 後ろから聞き慣れた声がして、アンナは振り向いた。店主のマーサが、心配そうにアンナの方へ走ってきた。

「――大丈夫だった?さっき男の人に絡まれているのが見えたわ、怖かったわよね、もう大丈夫よ!」

「マーサ・・・・」

「・・・どうしたの?アンナ・・・・。

 あなた、泣いてるわ」

 そう言われ、ふっとアンナは頬に手を当てた。かすかに、冷たい、小さな水滴が指に吸い付いてきた。

 茶髪が蘇る。先程の男にも似た、けれど色素の濃い、長い茶髪。白いワンピースを着た少女。

 マーニー、と、アンナはもう一度呟く。そして指をかもうとして手を上げ、無意識にそれをやめた。

「・・・マーサ、あの、・・・私なんかが言ってもいいのかわからないんだけど」

「なに?できることなら協力するわ」

「明日・・・有休とりたいの。いい・・?」

「別に構わないわよ!」

 そう言われ、アンナがまた手の中の包帯を見つめる。見つめ、ぎゅっと胸に抱き寄せる。

 先程聞いた話。

 ――もしもワトソンさんが、まだシャーロック・ホームズさんを、想っているのなら。

 せめて、依頼をすることくらいは、許されるだろうか、と。

 ・・・さきほどの、儚い瞳をした彼の、つんとした薬の匂いになぜか勇気づけられながら、考える。

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