残響異譚

@ame1

振袖を着た芋。

いつもなら遠くで微かに響くだけだったあの音が、この日はやけに近かった。

幼いころ、田舎の林でよく捕まえたカブトムシの羽音にも似ている。

あのときは虫籠をぶら下げて、夏草のにおいを胸いっぱい吸い込んでいた。

今はどうだ。爆撃機のプロペラを仰ぎ見て、死を吸い込んでいる。なんと、風流でない話であろうか。


「……中将!東雲中将!!」


周辺の航空基地が壊滅したという報が入ったのは、一週間ほど前のことだったか。

曇天を悠々と進む敵機。その行く手を遮るものは、もはや何もない。


「中将!……おられますか!」


錆びついた旧式の対空砲が二門。まるで笑えない冗談である。

神に仕える"神兵"だのと呼ばれたところで、射程の外を飛ばれては、あの鉄の鳥を撃ち落とせるはずもない。

上層の連中は、すっかり道理も分からぬ木偶の集まりになってしまったらしい。


「あっ!東雲中将!ここにおられましたか!」


伝令の声が、泥を踏み鳴らして近づいてくる。幼さの残る彼の顔には煤と汗が張りついていた。


「ああ、君か。」


返事もせず、外を眺めているだけだった男は、何とも白々しく答えた。


「敵影が迫っております! 我が兵の士気は高く……!」


必死に叫ぶその報告を、男は半ば聞き流していた。

口から出てくる言葉は嫌に長いが、要するに、「敵が来ております。ご指示を」と言いたいのだ。


男は思う、我ながらここまでよくやったと。


日を追うごとに軽くなる弾薬箱。食料も満足な量はない。

医療品の入った箱に至っては覗き込めば底が見える有様。

だが、味方の兵站は煽てても脆弱としか言いようがなく、これらの補給は絶望的。

やむを得ず敵の輜重部隊を襲えば、兵を大勢失う。


物資もない中、常に敵本隊へ接近しないよう細心の注意を払いながらの移動。

蝙蝠のように、あるいは虫のように崖下の穴や谷底に身をひそめ、夜襲奇襲を繰り返す毎日――とても誇り高き皇国軍人の姿とは思えない。

その上、決死の覚悟で破壊した野営地が、数週間もすればすっかり元の形に戻っているのだから、それはまるで酷い喜劇を見ているような気分だった。


圧倒的な物量差。

こちらばかりが消耗を続ける日々。

完全に包囲される日が近いことなど、とうに分かっていた。


ゆえに――今日という日が訪れても、男の胸には何らの感情も湧かなかった。


ほんの数刻前のこと。

周辺に展開していた部隊からの通信が、「接敵セリ」の一報を最後に沈黙した。

いよいよかと思ううち、今、こうして作戦本部への攻撃が始まったのである。


孤立した本部へ与えられた任務は、ただ一つ。

祖国より遠く離れたこの大陸の只中で、一秒でも長く時間を稼ぎ、一人でも多くの敵兵を道連れにすること。

――つまり、“犬死”せよ、という命令であった。


もっとも、その命令書自体は上品な言葉で飾られていたが。

「祖国のため」「名誉のため」「父母のため」――いくら綺麗に見せようと、要してしまえばつまり死ねというだけの話だ。


「……芋に振袖を着せたところで、芋は芋。そうは思わんかね。」


「はっ!!………は?芋、ですか。」


伝令の困惑する顔がどこか可笑しくて、男は笑みを漏らした。

自分にもし子供がいれば、これくらいの年齢であろう。

そんなことを思っての笑みだった。


男に家族はない。父母は既に、戦争と病でこの世を去っていた。

職業柄自らの命が長くないことも知っていたし、家族を作ろうという気は起らなかった。

戦況は次第に悪化し、戦場に縛り付けられる生活が続いたため、どちらにせよそんな暇もなかった。


「…いや、何でもない。……退路を確保していた部隊との連絡は途絶えた。ここを死守せよとの命もあった。……よって、我々はここに留まる。」


それだけを言い、静かに手を振った。伝令は敬礼し、駆け去っていった。

その一分後、彼は敵機の機銃掃射を受け、肉片と化した。

男はその光景を見ても眉ひとつ動かさなかった。見慣れた地獄だ。驚きもしない。


空を仰げば、爆撃機の影がついに真上へと迫っていた。


作戦本部などと大層な呼び名をつけられた穴倉が軋み、壁が崩れ、どこかで誰かの叫び声が途切れた。

焦げた油の臭いが立ちこめ、鉄と血の匂いが混ざり合う。

通信機からは雑音だけが流れ、時おり聞こえるのは、敵機の旋回する羽音と陽気に跳ねる銃声だけだった。


そして、花火が打ち上がるときのような、あるいはやかんの湯が沸くときのような――甲高く、耳障りな音が空気を裂く。

遥か上空に見える黒い点は、美しい真円を描いている。

それの意味するところを彼は知っていた。


ここに至っては、もはや暴れても仕方がない。

静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

光のない世界。硝煙と血の匂いだけが鼻を刺したが、それでもいくらか胸はすっとした。


恐怖もない。後悔もない。安堵もない。

――ああ、終わるのだ。

男の中にあるのは、ただそれだけだった。


刹那、世界が反転した。体が浮いた。

肉体から魂をまるごと剥がし取られるような衝撃が、外から内まで、おしなべて男の全身を貫いた。

痛みはなかった。


崩れゆく意識。それをここに留めようとも思わなかった。


そして、『北部戦線の残響』と呼ばれた男は、静かに、音もなく、この世界から姿を消した。

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