第28話 三角関係の受容


 佑樹の部屋の空気は、三人分の熱と、二度の情事が残した生々しい匂いで、息苦しいほどに澱んでいた。窓の外では、まだ陽が高い夏の午後が続いているというのに、カーテンを閉め切ったこの密室だけが、世界の理から切り離されたかのように、濃密な夜の続きを生きている。


 俺の腕の中で、文香の身体が、絶頂の余韻に微かに震えていた。彼女の白い肌は汗で濡れ、乱れた黒髪が俺の胸に張り付いている。そのか細い身体から伝わる、満足しきった脱力感と、すべてを委ねるような重みが、俺の中に、罪悪感とは比較にならないほどの、歪んだ支配欲を湧き上がらせていた。「あなただけのものにして」という彼女の懇願は、今も俺の鼓膜に甘く響いている。俺は、親友の恋人の身も心も、完全に自分のものにしたのだ。その事実が、俺の性的コンプレックスによって歪められた自己肯定感を、倒錯的な全能感で満たしていく。


 しかし、その甘美な支配者の感覚は、部屋の隅から突き刺さる、冷たい視線によって、一瞬にして現実に引き戻された。


 菜月だった。


 彼女は、床に散らばった文香のワンピースと下着を、そして、ベッドの上で絡み合う俺たちの姿を、ただ無言で見つめていた。その大きな丸い瞳からは、もはや嫉妬や怒りといった、分かりやすい感情は消え失せている。代わりに宿っているのは、氷のように冷たく、そして底の知れない、静かな光だった。彼女は、この状況を、この裏切りを、そして、これから始まるであろう、より複雑で、より醜い関係性のすべてを、冷静に、そして残酷なまでに客観的に、分析しているかのようだった。その沈黙が、何よりも恐ろしかった。


 俺は、文香の身体をそっと離すと、ゆっくりとベッドから起き上がった。シーツが擦れる音が、やけに大きく響く。どう切り出すべきか、言葉が見つからない。謝罪か、言い訳か、あるいは開き直りか。どの選択肢も、この地獄のような状況を好転させる力など、持ち合わせてはいなかった。


 先に口を開いたのは、意外にも、菜月だった。


「……ふーん」


 彼女の唇から漏れたのは、たったそれだけの、感情の読めない一言だった。彼女は、ゆっくりと立ち上がると、俺たちの元へと歩み寄ってきた。その足取りには、何の躊躇もなかった。


「あんたたち、すごいね。私がいる前で、よく、そんなことできるじゃん」


 その声には、怒りよりも、むしろ感心したかのような、皮肉な響きが込められていた。彼女は、俺の隣に立つと、涙の跡がまだ生々しく残る、文香の顔を、じっと覗き込んだ。


「で? 満足した、文香? これで、あんたのその、満たされない身体は、少しは楽になったわけ?」


 その言葉は、鋭い刃物のように、文香の心を抉った。文香の肩が、びくりと震え、彼女は、怯えたように俺の腕にしがみついた。


「ご、ごめんなさい……菜月さん……」


「謝んなくていいよ。謝ってほしいわけじゃないから」


 菜月は、そう言って、ふいと視線を逸らした。その横顔には、軽蔑と、そして、それを上回る、何か別の感情が浮かんでいた。それは、親友がここまで追い詰められ、プライドも何もかも捨てて、一人の男に身を委ねる姿を目の当たりにしたことへの、深い、そしてやりきれないほどの、同情だった。快活で、常に物事を単純に割り切ってきた彼女にとって、文香が抱える、この複雑で、どうしようもない苦しみは、理解の範疇を超えていた。しかし、その痛々しいまでの姿が、彼女の心の最も柔らかい部分を、確かに揺さぶっていたのだ。


 菜月は、長いため息をつくと、諦めたように、そして、すべてを覚悟したように、言った。


「……はぁ。もう、いいよ。分かったから」


「……え?」


 俺と文香は、信じられないというように、彼女の顔を見上げた。


「だから、いいって言ってんの。あんたが、そこまでして、佑樹が欲しいって言うなら、もう、何も言わない。……私も、あんたの気持ち、分からなくもないから」


 菜月の瞳には、ライバルに対する、不思議な連帯感が宿っていた。彼女もまた、佑樹という男に、友情以上の、特別な感情を抱いている。だからこそ、文香が犯した過ちを、一方的に断罪することができなかったのだ。


「ただし、勘違いしないでよね」


 菜月は、そう言って、俺の顎を掴み、強引に自分の方を向かせた。その指先は、冷たく、そして力強かった。


「こいつは、もともと、私のものだ。あんたは、後から来ただけ。その順番は、絶対に覆らないから。……それから、佑樹。あんたも、覚悟決めなよ。一人じゃ、足りないんでしょ? 私と、文香、二人まとめて、あんたが面倒見るんだよ。……できるよね、それくらい」


 その言葉は、問いかけではなかった。それは、この歪んだ三角関係の成立を、一方的に宣言する、女王の命令だった。彼女は、文香の加入を、同情と、そしてライバルとの共存という形で、受け入れたのだ。その上で、自分こそが、この関係の第一人者であると、明確に宣言した。


 俺は、その言葉に、反論することができなかった。いや、むしろ、心のどこかで、安堵していた。二人の間で引き裂かれるのではなく、二人を同時に手に入れる。その倒錯した状況が、俺の歪んだ支配欲を、静かに、そして深く満たしていく。


「……ああ。分かってる」


 俺は、そう答えるのが、精一杯だった。


 文香は、菜月のその意外な言葉に、ただ、涙を流し続けていた。しかし、その涙は、もはや絶望の色を帯びてはいなかった。それは、この地獄のような状況の中で、唯一の救いの手を見出したことへの、安堵の涙だった。


 こうして、俺の部屋という、ありふれた日常の空間で、俺たち三人の、倒錯的な三角関係は、静かに、そして確かに、成立した。それは、友情の完全な終焉であり、そして、罪と欲望で塗り固められた、新しい日常の、歪な始まりだった。

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