架けうどん
紅野まろん
第1話 コータ
からんっ
ドアが小さく鳴いた。
その一瞬の隙を見逃すまいと風が吹き込んで、行き場をなくして薄く散る。振り返ると視線の先は真っ白で、帰り道は見当たらなかった。異世界の扉でも通ってきたのか......と思ったが、刺すような強い痛みですぐに現実に引き戻される。
手先の感覚がなく、どうやってバッグを持っているのか自分でもわからない。「さむっ」と思わず口に出しそうになったが、声は出ず、代わりに白い息が漏れただけだった。とりあえずどこかに座ってあったまらないと、巨大な氷像の出来上がりだ。
俺は空いているテーブルを見つけると、鉛のような体を何とかカウンターへ滑り込ませた。少し落ち着いてきたところで、改めてあたりを見回してみる。
ほの暗い店内には、ストーブの音だけがくっきりと聞こえている。席は俺が座っている一枚板の大きなカウンターのみで、テーブル席すら見当たらない。そして、客もいなければ、店員もいない。
「どうなってんだ、この店......」
俺はテーブルに視線を落とすと、メニュー表が置いてあることに気づいた。乱雑な字で、「かけうどん 400円」とだけ書かれている。無駄なものは一切なく、ただ、一言だけ。
俺は「嘘だろ」と思いメニュー表を裏返したが、無慈悲にも限りなく白かった。何度もひっくり返し、照明に透かしたり、目をじっと凝らしてみても、何も浮き上がってこない。
俺が、はたから見れば不審者と間違えられてもおかしくはない行為を繰り返していると、急に無機質な声が飛んできた。
「ご注文は」
「ひえっ」
思わず変な声が出てしまった。当たり前だ。
全身黒い服装、金色の丸渕眼鏡。五十代くらいだろうか。ソイツが、音もなく俺の背後に立っていたのだ。
「ご注文って......俺が『きつねうどん』とか言ったら作ってくれんのか?」
「いえ、この店にはかけうどんしかありませんので」
だったら聞くなよ.......という憤りをぐっと飲みこみ、俺は店員に向き直った。
淡々とした態度が余計不気味だった。ロボットとでも話しているようだ。一切隙を見せない。微笑むこともない。俺はますます気に食わなかった。
「俺、地味な奴が嫌いなんだよ。せめて卵つけろよ」
そのぶんの金なら払うーーとアイツを睨んだまま、俺は小さな青い手帳を取り出した。そしてパラパラとめくると、間に挟まっている一万円札を抜き取った。
と同時に俺の目に飛び込んできたのは、黒いペンで書かれた『夢』『星』『7月10日』の3つだった。
「ヒロ......」
俺は思わずそう呟いていた。馬鹿だ、と思った。俺の怒りが、悲しみが、全て『あの日』に起因するのだとしたら、俺は今すぐに捨てなければいけない。地味な奴が嫌い?俺が一番、地味でみっともないやつではないか。
「当店のルールに不満のある方は、お帰りください」
また、無機質な声が飛んできた。そこに感情など皆無だが、何故か激しく責められているような感覚に襲われた。
俺は、両手を机に叩き付けると
「悪い。かけうどん、一杯」
と、絞り出すように言った。額から汗が止まらない。
「かしこまりました」
アイツはそう言い残すと、音もたてずに厨房の方へ消えていった。結局、一切の感情も見ることが出来なかった。アイツは俺だ。無責任で、不甲斐なくて、それを隠すように綺麗ごとを並べて、それらを繋ぎとめる糸がぷっつりと切れたら......手のひらを返して夢を奪おうとする。だから嫌いだ。俺は、俺が。
「おまたせしました」
考えを巡らせていると、お盆に乗ったうどんが運ばれてきた。美しく澄んだスープ、何にも穢されていない真っ白な麺。
アイツの眼鏡は白く曇っている。客の前なんだからふき取るくらいしろよ。
俺はワイシャツの袖をゆっくりとまくり上げると、割り箸をひっつかんでパキリと割った。適当にスープに突っ込んだ箸には、麺が絡みついている。そっと持ち上げると、一気にズズズとすすった。
「......へえ」
飾りっ気のない素朴な味わい。奥の方に潜む煮干しの深いうまみ。こしの強い麺によく合う。山椒のピリッとした刺激も、卵のまろやかな甘みの力も借りず、それでいて輝いている。等身大の、良さがある。
「飾らないのが、いいのか?」
胸がずきりと痛んだ。目が潤み始めている。そうだ、夢なんて見なければ。
肉うどんになりたいと願わなければ、生きる希望を失うことはなかった。
きつねうどんになりたいと願わなければ、あいつを巻き込むことだってなかった。
夢なんて、見なくていい。あいつは、ヒロは、俺が止める。
俺は改めて、そう決意した。
架けうどん 紅野まろん @marongurasse
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