Sophia 短編集

月咲 幻詠

セルビアの辺境にて

第一話

 それは、光と名のつくもの全てを拒むような暗がりに聳えていた。


 村外れの森奥に建つ、ツタの絡みついたこの古館に窓はない。正面には腐りかけた木の扉があって、その両端に取り付けられたランタンのぼんやりとした明かりだけが、この館の存在を慎ましやかに主張している。


 そんな怪しげな館に、一人の娘がやってくる。胸の前に赤い木の実の入った籠を握った、頭巾を被った娘だ。


「どこなの、ここ……」


 彼女は辺りを見回しながら不安気に言った。

 

 周囲に生の気配はない。木々は不気味に蠢き、川を流れる水でさえその動きを止めて、鈍く淀んだ光を映している。時折聞こえる風の音は、知らぬ誰かの嘆きを真似しているようだった。


「…………」


 娘は胸の前に手を組み、緊張に下唇を噛んだ。この森に迷い込んで、彷徨うこと小一時間。それまで人らしい影を見なかった彼女は、もはやこの怪しげな屋敷だけが望みだった。


 娘は館の扉を四度叩いた。乾いた音が嫌に響く。


 扉の奥から返事はない。やはりこのような場所に人など住んでいないのか。だが彼女は諦めきれず、もう一度扉を叩こうとした。


 その時だった。


「えっ……」

 

 目の前の扉が独りでに、ギィ……と鈍い音を立てて奥へ開いたのである。中からは冷たい空気と、肌を刺すような何かの気配が漂ってくる。


 娘は息を呑み、数秒躊躇うと意を決したように一歩踏み出そうとした。


「このような森奥に客人とは珍しい。何用でここへやってきた?」


 背中に虫が這うような感覚が娘を襲う。


 今、彼女がこの館に足を踏み入れるまで、少なくとも周囲に人はいなかったはずである。それが、頭上から言葉が投げかけられた。


 まるで地獄の底から響いてくるような、低く恐ろしい声だ。


「えっ……あっ…………」


 娘は恐怖に口が聞けなくなった。何処となく死の気配を纏った目の前のそれは、夜の暗がりが人の形をとったような男で、家の中だというのに真っ黒の外套に身を包んでいる。


「……なにも怖がることはない」


 男は少し屈んで言った。ランタンの光は、青白くも美しい男の顔立ちをくっきりと映し出す。優しく細められた蒼の双眸と、そこにかかった豊かな金髪が娘の胸を跳ねさせた。


「あ、あのっ、私……木の実を採ってる途中に迷ってしまって」

「迷い子か。村の者だね? あの村はこの森を怪物の棲む森として忌み嫌い、足を踏み入れることを禁じていたはず」

「ええ……」


 村の掟を破った自分を恥じてのことか。それとも、間近に迫る彼の美しい顔に耐えられなくなったのか。娘は俯いて喋らなくなった。


「よい。私が君を帰してあげよう」


 男は指先で娘の顎をクイと上げると、穏やかに微笑んだ。


「森よ。この娘の為、道を開けるのだ」


 力強い声が森に響く。すると、木々は嘆きざわめくのをピタリと止め、独りでにザワザワと娘にその道を譲りだすではないか。そこに生えた草やキノコや、近くを飛ぶ虫たちは淡い光を放ち、まるで別世界のような様相を成した。


「すごい……」

「もうこの森に入ってはいけないよ。ここに棲むのは、私だけとは限らぬのでな」

「あっ、待って!」


 娘は館へと戻る男の背を引き留めた。何故そのようなことをしたかはわからない。ただ、ここで何も言わぬまま別れればこの男には二度と会えなくなる。そんな直感を彼女は否定したかったのか。


「私、イレナといいます。貴方は……?」


 男は彼女の言葉に暫し逡巡し、

 

「私の名は、ヴィクトール」


 と名乗った。娘の顔に喜色が宿る。

 

「ありがとう、ヴィクトール」

「良い。イレナ、達者でな」


 彼女は帰路を何度も振り返り、男に手を振った。やがて男が見えなくなると、上機嫌に村へと帰ってゆく。小さくなってゆく娘の背に、男が微笑みかけたことに彼女は気づかなかった。



 翌日、娘はまた木の実を採りに出かけた。こうして昨日のように森へ迷えば、またあの男に、ヴィクトールに会える。そんなささやかな下心を隠して。


 彼女が森へ入ってゆくと、木々は独りでに道を開けた。薄気味悪い闇は木漏れ日のカーテンで遮られ、光が道を作っている。まるで何かが彼女を導くように。


「ヴィクトール……!」

 

 そして、彼女は再会を果たした。


「何故君がここにいる。もうこの森に近寄ってはならぬと、そう伝えたはずだ」

「ええ。でも貴方と話がしたかったんです」

「話……?」

「貴方のことが知りたくて……」


 彼女の言葉に、男は何処か悲しげな、後ろめたそうな、難しい顔を作る。


「帰りたまえ。ここは君の居るべき場所ではない」

「帰りません。帰ったって、居場所なんかありませんから。貴方みたいな人とお話できた方がずっと楽しいですもの。もちろん貴方さえ良ければですけれど」


 そう言って微笑む娘の意思は固い。それは真っ直ぐな彼女の双眸を見て知れた。


 無理に帰すこともできた。しかし彼女の申し出は、どうしてか断ることができぬ魅力を秘めていた。真っ直ぐだからか、正直だからか、それとも微笑みの裏に暗い影が見え隠れするからか。


 男は難しい顔のまま押し黙ると、ついに諦めたような顔をした。


「……よかろう。とは言え一人きりで暮らすようになって長いので、客人をもてなすものは何も無いが」


 娘は男について館に入り、目の前に広がる光景に息を呑んだ。


 一寸先も見通せぬ暗闇の館は、男の合図と同時に壁にかかった燭台を全て灯らせ、寂れた外観からは予想もつかぬような、美しく手入れの行き届いた内部を浮き上がらせたのだ。


 娘は貴族のするような贅沢とは無縁の場所に育ったが、それでもこの館の床や壁から、細々とした調度品の一つまでが高い価値を持つものであろうことは容易に想像できた。


 男は、広いメインホールを進み、左右に分かれた階段を右へ、奥に続く廊下を左へ右へ。途中、独りでに動く箒に会釈をしたりなどしながら、更に進む。


 外から見たよりも館の中は広いのかもしれない。娘は男の外套がはためくのを眺めつつ、そんなことを考えながらついて行くと、彼はある扉の前でピタリと止まった。


「君はここで待ちたまえ」


 男は振り返ると言った。そして部屋に入ろうとして、


「決して中を覗いてはならん。よいな?」


 と、もう一度振り返って言った。娘が頷くと、男はそれに満足したように部屋へ入ってゆく。


 男が部屋に入ってから暫く、中からはガサゴソと物音が続いた。やがて物音が鳴り終わると、やはり扉は誰の力を頼るでもなく開き、


「入っておいで」


 と、彼の優しげな声が聞こえてきた。


 扉を潜り、まず視界に入ったのは暖炉の暖かな明かり。その傍らにはテーブルが置いてあって、ワインとチーズが並べられていた。男は空いている椅子を引くと、ゆったりとした動きで彼女を席に招く。


「私のことを知りたいと言ったね」


 男は娘の向かいに座りながら言った。


「であれば、先に断っておかなければならぬことがある」

「なんです?」

「私は人ではない」

「え?」

「そこに鏡があるだろう」


 男の指差す先、部屋の隅には丁度男の身長程の大きな姿見があった。


「座らせてしまってからでなんだが、おいで」


 男の手招きに誘われて、娘は姿見の前へ躍り出た。眼前には鏡に映る自分の姿と、ぽっかりと空いた彼が立っているはずの空間。彼の姿はおろか、影の一つも映っていない。


「なんで……この鏡おかしいわ。貴方が映っていないもの」


 彼女は振り返り言った。そして知る。彼は影を持たぬことを。自分は人ではないという彼の言葉に嘘偽りはないことを。


「……私は、人ではない。人の血を糧とし、彼らに恐れられた、心無い飢えた獣なのだ」


 そう言う彼の目はとても悲しげだった。娘はその目を放ってはおけなくなった。それが、恋慕になりかけた気持ちによるものか、女が備え持つ母性によるものかは定かではない。或いはその両方か……。


「……なら、貴方はなんでこんな所に住んでいるの?」


 娘は、硝子を布で包むように言った。

 

「なに?」

「貴方が人の血に飢えた心無い獣なら、今ここで私を襲えばいい。こんな森奥に住んでいないで、村の人達を襲えばいい。でもそうはしないのは、貴方が優しいからではなくて?」


 男は悲しげな目をしたまま黙り込み、やがて縋るように何かを言いかけて、力なく頭を振った。


「それでも、吸血鬼としての性が私を人として生かしてはくれぬ。そういう運命さだめなのだ」


 娘はこの時、男に掛ける言葉を持たなかった。他者を遠ざけるような、寂寥を帯びた彼の声色もその一因かもしれない。

 

「すまないね、暗い雰囲気にさせた」

「いえ……」

「別の話をしようか」

「いえ、私は貴方のことが知りたいんです。それに人間じゃないって言うなら私だって人間扱いされていないわ」

「何?」


 男は思わず聞き返した。


「私は魔女の娘だって。母は他の人より少しばかり賢くて、薬草なんかに詳しかったんです。それが、身分ばっかり偉い男の人の鼻についたみたいで。最後には火あぶりにあって、父も後を追いました」


 娘の目は遠い過去を眺め、唇は微かに震えていた。


「私は……きっと貴方を利用して自分のさみしい気持ちを紛らわせたいのです。ずるい女だと罵られるかもしれません。けれど、ひとりぼっちなのは一緒だと思うから……だから貴方を知りたいのです」


 やはり、娘の提案にはなにか抗えぬ魔力がある。

 

「……いいだろう。ここでは誰も君を罵ったりはしない。さぁ、そこへお座り」


 男は娘を席に促し、自身も席に着くと、目を閉じ大きく一呼吸する。そして瞼を上げた彼は何処か遠くを見据えて、やがて視線をゆっくりと落とすと、ポツポツと語り始めた。


「私が生まれたのは、このセルビアの地がオスマン帝国領となる以前、かつてセルビア公国のあった時代。今から二百年も前になる」

「二百年……」

「セルビアの貴族だった私は、兵を率い攻め入るオスマンの兵どもを打倒した」

「もしかして、英雄ミロシュの?」

「ああ、彼は最も優秀な騎士の一人だった」


 ミロシュ・オヴィリッチ。セルビアの地に、最も高貴なる英雄として名の残った護国の騎士である。


「だが、我々は負けた。ローマはその後十字軍を結成。共に戦ったワラキアなども抵抗を続けていたと聞くが、詳しいことまではわからぬ」


 そこまで言うと、男は一瞬黙った。娘が不思議がって顔を覗き込むと、


「いや、何もない」


 と、顔を背けてしまう。何かを抑えるように、瞳孔の開いた目を閉じ、歯を食いしばりながら、肩を震わせて。そして彼は、ゆっくりと息を吐いた。


「……オスマン帝国はあまりにも強大だった。私は力を求め、自らの魂を神へ捧げたのだ。それが、神を騙る悪魔だったとも知らずにね……。そんな私を、神はお許しにならなかったのだろう。私は怪物へと成り果て、彼への信仰さえ禁じられた。日の光が、十字架が、聖書が、私を拒み身を焼くのだ」


 彼はまた顔を落とした。視線の先では、彼の手が小さく震えている。


「代わりに残ったのは、人間離れをした力に、永遠の餓えと渇き……今にも人を殺してしまいそうな、耐え難い衝動。濁流となって襲い来るそれは、目の前の愛する者さえわからなくしてしまう……。だから私は、この森で一人棲むことにしたのだ」


 娘は言葉を失った。彼女の知るところでは、神は赦す者であったはずだ。それが、悪魔に騙されただけのこの哀れな男に斯様なまでの仕打ちをするのか。そう思うと、彼女は思わず彼の手を握っていた。


 掛ける言葉はなかった。だが、そうしないでは気が済まなかった。


「……ありがとう」


 彼は微笑んだ。愁いを帯びた、儚げな微笑みだった。


「もう遅くなる。今日のところは家にお帰り。ここにいて、村の者にあらぬ嫌疑をかけられてもつまらないだろう?」

「……また会える?」

「運命がそれを許すのなら」


 男の静かな言葉に娘は顔を上げると、微笑みながら頷いた。



 一方、村では奇怪な事件が起きていた。始まりは、ある村の女の耳をつんざく悲鳴だった。空の紅い夕方の事だ。


 悲鳴はすぐに人を集め、そこにある悍ましい光景を見せつける。


「これは……」


 村長がしわがれた声を震わせて言った。


 見るも無惨に食い荒らされた女の死体が、まるで刑死者のように木から逆さに吊り下げられていたのだ。その死体は恐怖の顔を貼り付けて、引き裂かれた腹からは頭のない胎児が見えている。


 村人たちは慄き、中にはその場で吐き出す者や、死体に縋って泣き崩れる者もいた。


 そして、ある若者が怒りを滲ませて口を開く。


「誰がこんなことを……」


 この村にはいくつかの決まりごとがあった。大半は村の秩序を守るためのものであったが、中には迷信じみた決まりもあった。


 若者の呟きに、村人全てがある決まりを頭に過ぎらせる。


――森に入ってはならない。森には世にも恐ろしい怪物が眠る。


 森の怪物が目覚め、村へ侵入していたとしたら。そんな得体の知れぬ恐怖が徐々に広がる夜闇と共に村人たちを支配しようとしていた。


 結局、自警団によってその場は一旦の収まりを見せた。遺体は埋葬され、多くの者は事件について口を噤んだ。事件は自警団に任せ、皆はできる限り普段の日常を過ごすようにとの村長の指示によるものである。


 だが、人々に植え付けられた恐怖と不安の芽は確実に根づき、花を咲かせようとしていた……。

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