第5話:青年、手痛き傷を負わさるる事。

 夢かと思ったのに夢じゃない、夢だったら良かったのにと思うような気色の悪い光景が、目の前で繰り広げられていた。


 暗い場所で、俺の周りを囲むように篝火かがりびが焚かれている。ここがどこかなんて、知ったこっちゃない。薄く湿った空気が、不穏な雰囲気をより際立たせている。監禁されていた部屋かとも思ったけど、篝火かがりびの向こうを見ても部屋にあった日用品の数々は見当たらない。灰色のコンクリートの壁が見えるだけだ。


 手足は動かせない。どうやらベッドの上に手錠で繋がれて、大の字になって寝かされているらしい。ガシャガシャと音は鳴らせるが、それだけだ。オマケに口には猿轡さるぐつわを噛まされ、唸ることしか出来ない。着ていたはずのシャツは脱がされ、上裸じょうらにされていた。


 俺はどうしてこうなってしまったのかを考え、そして猩々しょうじょうの奴に飲み物に薬を入れられたことを思い出す。唯一逃げ出せるかもしれない機会を潰すために、あそこまでやる奴だとは思わなかった。


「お目覚めですか。依代よりしろくん」


 俺の頭上から声がして、首を思い切り反らして頭の上へ目をやると、例のメガネが笑みを浮かべて逆さまに見えていた。但しその姿はいつぞやのスーツではなく、神職の神主が着るような白い装束を身に着けている。メガネと呼んではみたが、今はメガネもしていない。


 その隣には、猩々しょうじょうが冷たい無表情で立ち尽くしている。今日の昼までなら抗議の唸り声を上げてもおかしくはなかったけれど、今となってはもうそんなことをしても遅いのは痛感している。


 儀式の準備は整ってしまい、俺はどんな手を探ることも叶わず逃げ損ねたってことなんだろう。辛いことやしんどいことはこれまでに山ほど味わってきたけど、その中でも一際辛く厳しい現実ことが始まる予感だけをひしひしと感じていた。


「そんな顔をしなくてもいい。これから君は、英雄になるんですから」


 メガネは言いながら、俺のベッドの周りをゆっくりと歩き始めたようだった。それと同時に、水をくような音と鼻につくアルコールの香りが、俺にまで届いてくる。酒を地面に振りいているようだ。それに果たしてどんな効果があるのか、分かりたくもなかった。


 それが終わると周囲の闇の中から、ベッドを取り囲むように数人の人が現れる。メガネと似たような神職の格好をしているが、こっちは頭に被った烏帽子えぼしに紙を貼り、顔が完全に見えないよう隠していた。


 けどそれが誰かは、持っているもので理解出来た。周りの奴らはメガネと違い、全員スチール製の刺股さすまたを持っていたからだ。総勢十名ほどの数は、俺の見張りをローテーションしていた人数と一致する。そいつらは刺股さすまたを地面に置くと、ベッドの周囲へ座り込んで手を合わせて拝み始めた。


 それが合図だったかのように、メガネは俺の頭側に立って紙のついた棒を左右に振りながら、とうとうとうたいだす。


「雲は千切ちぎれ木々は乱れ、千の民草たみくさこうべ垂れ、もとくに八難有はつなんありしかどはらいてよしと成す、たっときはかいな也哉なるかな


日月輪にちがちりん光明こうみょうかげりありて、悪心世あくしんよ蔓延はびこまどいのよし断ち切りなんとすれば、永久とこしえ栄有さかえあれとぞ願いたてまつる」


「いと高きこと不動山ふどうさん、いとたくましきこと万人力ばんにんりき御神みかみけがらふわれ不浄断ふじょうたちて御身奉おんみたてまつそうらへば、禍非此之大神参まがひこのおおかみまいたまへともうす」


 その朗々ろうろうとした声に合わせて、周りの奴らもいよいよ強く拝み、平伏へいふくしだす。逃げることは出来なくても、せめて妨害になりはしないかと派手に音を立ててみたが、平気な様子で儀式は続いている。


 メガネは呪文のような言葉を繰り返し、周囲の男たちはいよいよ熱のこもった祈りを捧げだす。俺の腹の底からは、逃げ出したい気持ちが強く湧き上がっていた。


 しかしそこから、儀式は停滞しているように見え始めた。メガネが呪文を唱え周りのモブが祈りを捧げる、それだけで無為に時間が過ぎていったのだ。


 メガネの額には次第に汗のテカりが浮き、顔には苦悶の表情が張り付いた。呼吸も僅かに荒くなっているような気がする。しかし俺にも周りにも、何も変化は起きない。


 もしかしたらと、俺はありもしない可能性にすがった。もしかしたらこの儀式は、特別な何かが起こることのない一般的な儀式と同じなんじゃないだろうか。


 荒神降こうじんおろしという仰々ぎょうぎょうしい名前とは裏腹に、世の神事で行われるような、形式として催されるだけの形骸化けいがいかした儀式。それと似たようなものなのでは?


 しかしそれだと、ひとさらってまで儀式を遂行しようとしたことに疑問が生じる。わざわざ神様に呪われている俺を選んだんだから、やはりそれなりの儀式だったと考えるのが妥当だ。


 それなら儀式は失敗してしまい、メガネは今それを取り繕うために必死にリカバリーを繰り返しているのではないか。そう考えた方が自然な気がする。停滞しているように見えるのは、そのせいなんじゃないだろうか。


 一縷いちるの望みに希望を寄せるのは、それしか出来ることがないせいだ。そして俺の願いは叶えられたのか、そこから随分と長い間、メガネは同じことばかりを何度も繰り返していた。


 額のテカりはついに汗の粒になり、周囲のモブの祈りに疲弊ひへいが混じり始める。しかし、やはり何も起こらない。起こってたまるもんか。こんな怪しい儀式に連れ込まれて、何も起こりませんでしたというのはいかにもマヌケな結末だ。でもそのマヌケな結末は、俺が一番望んでいる結末でもある。


 どうかこのまま何も起きず、こいつらが諦めて儀式を放棄ほうきしますように。神に祈るのはしゃくなので、俺は自分自身に願を掛けるようにそう願い続ける。でもそれは、ほとほと甘い考えでしかなかったと、しばらくしてから知れた。


 儀式が始まってから、俺の体感時間で二、三時間ほど経った頃だろうか。メガネが不意に暗い天井を見上げ、表情を変えた。


「……来た」


 その呟きと同時に、俺の耳に届いた音があった。シャアン、という涼しげで聞いたこともないような、清らかな鈴の音色だ。


 その鈴の音は、誰が鳴らしているのかも分からないのに何度も鳴っている。シャン、シャン。シャン、シャンと、場違いなほどに美しく。周囲の誰もそんな鈴らしき物を持っていないのを確認した俺は、自分の中でだけ確信を得た。


(予兆……!!)


 それは俺に取り憑いた神どもが俺に知らせる、きざしの幻聴げんちょうに違いなかった。その証拠とでも言うように、鈴の音が鳴る毎に、この場所に何かの異様な気配が高まっていくのを感じる。


 それは例えば、「一人しかいない部屋に自分以外の気配を感じる」といった、曖昧あいまいなものではない。十人以上の人がいるこの場所で、その十数人よりも気配だけが濃く大きい「何か」が降り立とうとしている。そう信じさせるのに十分すぎる空気なのである。


 前や横や後ろから感じる気配ではなく、全身に重さすら抱かせるような、のしかかる重圧。それが時の過ぎる毎に大きく、強力になってゆく。飄々ひょうひょうとした態度を崩さなかった猩々しょうじょうですらが、顔を伏せて項垂うなだれるだけの強い圧が、ここに生まれていた。


「来たりませい! マガヒコノオオカミよ!」


 メガネがそう口火を切ったと同時に、周囲のモブたちも大声で叫ぶ。


「来たりませい!」「来たりませい!」「来たりませい!」「来たりませい!」「来たりませい!」「来たりませい!」「来たりませい!」「来たりませい!」「来たりませい!」「来たりませい!」


 しかしその声に反して、それは天井の中ほどでとどこおり、こごったように気配の拡散を止めた。しかしそれも予定調和よていちょうわだとでも言うように、メガネは口の端だけを歪めて笑っていた。


「では、仕上げと参りましょう」


 そこから先に起こったことを、俺は未だに悪夢だと思っている。未来から見れば思い出すのも苦痛で、過去から見れば本当に自分の身に起こったことなのか疑わしいと思うくらいに。


 メガネはベッドの側から離れ、篝火かがりびの足元に置いてあった火挟ひばさみを握った。そして、その中から特に火勢かせいの強い、おきの燃え盛る部分をりすぐる。


 メガネは赤く燃える篝火かがりびの薪を持ったまま戻ってくると、今度は俺の頭側でなく、ベッドの横に立った。メガネが立つ分だけ、モブどもがスペースを空ける。メガネは、薪を俺の腹の上に持ってくる。シャンシャンと、警告の鈴の音が俺の耳にだけ届いてくる。


(おい、嘘だろ、まさか……!!)


 そのまさかだった。メガネは火挟みに入れていた力を緩めると、服も着ていない俺の腹部へ、容赦なく火の着いた薪を押しつけたのだ。


「があぁぁぁぁああああああああああ!!!!!」


 あまりの痛みに、俺はけだもののような雄叫びを上げていた。肉の焼ける悪臭と、ぶちぶちと何かが焼き切れる嫌な音が、予兆の鈴の音を上塗りしてゆく。


「あぁっ!! があっ!! ぎっ………があぁっ!!」


 薪がその燃焼を止めるまでに、俺の腹は皮膚が爛れ、大量の火膨れで無残な有り様になっていた。全身はびっしりと脂汗をまとい、痛みの信号に脳は支配されている。メガネの表情を見上げると鉄壁なまでの無表情で、動揺どうよう喜悦きえつの感情すら見られない。それがかえって不気味だった。


 人間は何の感情も抱かずに、ここまで酷いことが出来るものなのか。すがりつくように猩々しょうじょうの方を見ても、助けてくれそうな様子はない。


 メガネは俺の体液でくすぶる薪の残滓ざんしを挟み上げ、床に捨てた。そしてあろうことか、また篝火かがりびまで歩いてゆき、薪をつまみ持ってきて、同じ事を繰り返そうとした。


 俺はさっきまでより大きくもがいてそれを拒もうとしたが、火傷の激痛で身をよじることすら叶わない。そしてまた、火の着いた薪は腹の上で無情な熱を放つ。


「がっ……ひっ、ぐ……あぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!!」


 傷をえぐるるような形で、火傷の上からさらに火傷が重ねられる。火膨れは潰れ、神経を直に焼くような壮絶な痛みの嵐が俺を蹂躙じゅうりんする。まともな思考なんて、もう出来るはずもない。俺は雄叫びとうめき声を上げ、激痛にのたうつだけの無能に成り下がっていた。


 火を当てられる度、ベッドに後頭部を打ちつけて痛みを誤魔化そうとした。全身に力を込めて、薪をけようとした。そのどちらもが無駄だと知って、吐き気がするほどの絶望を味わった。どうして俺がこんな目に、と思った。殺してやる、とメガネを呪った。感じたことのない痛みに、気が遠くなった。


 そうしてメガネが篝火かがりび一本分の薪を、俺の腹の上に転がしたくらいの時間が過ぎた時、天井付近に在った神の気配にもようやく異変が生じた。


 それは最初ゆらぐように、そして次第に渦巻くエネルギーとなり、さらに最後には嵐としか形容出来ないような気配の蠢きを見せていた。その嵐がすさぶのに共鳴したかのように、床からドンという力強い振動が伝わった。


 立っていた周りのモブも、メガネも、尻もちを着くほどの振動だった。猩々しょうじょうだけが唯一バランスを保っていたが、それもかろうじてに見えた。振動は一度で衝撃を与えることを止めず、地面を殴りつけているかのように何度も訪れる。やがてそれは絶え間ない縦揺れとなって、俺たちのいる場所を襲った。


「チッ……!」


 猩々しょうじょうが舌打ちをして、メガネの正面に立ったのが見えた。


「なぁ、おい、三浦さんよ! だから俺は言ったじゃねぇか!


 失敗? 何のことだろう。猩々しょうじょうの言うことを吟味出来るだけの余力が、俺にはもう残っていない。


「黙りなさい。これは何も失敗ではありません」


 メガネの言葉も、表情も、閉じかけた俺の意識までは届かない。揺れはどんどん酷くなり、部屋の壁に亀裂が入っている音が聞こえたかもしれない。でも、もう何も分からない。激しい痛みですら、意識を繋ぎ止めることが出来ない。


(……あれ、俺もしかしてこのままだと死ぬんじゃね?)


 最悪な予感を最後にいだいて、俺の意識はドブのようにまっ暗な闇の中へと沈んでいった。


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