第2話:青年、憩いの猶予も与えられぬ事。

 我が家での時間は、何も起きないセーブポイントで過ごす時間とよく似ている。この時ばかりは神にもちょっかいを掛けられることのない、幸福な猶予ゆうよである。


 何せ、学校から帰る間にも何か起きやしないかとビクビクしながら帰らければならず、落ち着く暇なんてどこにもない。部活動なんてもってのほかだ。


 家に帰ると俺はまず干していた洗濯物を取り込んでから、冷蔵庫の中身を見て夕飯に何を作るか考えを巡らせる。


 残り物の野菜と豚バラがあるので、適当に野菜炒めにでもしようと思い立つ。夕飯まではまだ時間があるので、一通りのことを済ますと俺は敷きっぱなしの布団に体を横たえた。


 課題出てたからやらなきゃなぁとか、小テストは何とか受けれてまだ良かったなとか、取り留めもない思いが浮かんでは消える。


 あんなことがあったにしては、小テストもそこまで悪くない出来だった。それは努力の結果というより、あの程度のことで動じなくなったからなんだと思う。


 ヤク中とやりあってから三日が経ち、大きな揉め事にこそ巻き込まれていないが、それが明日の無事を保証するものではないことも俺は知っている。気を張って生きるのも疲れるものだ。


 気を張るといえば、俺が気を配って生きなきゃいけなくなった神のボケナスどもについても少しばかり考えてみなければ。


 第一にして唯一の疑問は、なんで俺は無条件に奴らから気に入られてしまっているのかというとこだ。誰でもいいというならこんな役目、とっとと誰かにゆずわたしてしまいたい。


 それが出来ないということは、やはり俺に何か原因があるということなのか。例えば前世ぜんせで何かやらかしたとか、今世こんせで何かやらかしたとか、来世らいせで何かやらかす予定とか。


 自分のしでかした事の始末としてこうなっているのならまだ分かるが、俺に苦難を乗り越えることを期待しているのなら、神は罰として苦難それを与えているのではないはずだ。


 だとしたら神の側から見て、俺はそんなに魅力的みりょくてきに写るのだろうか。何を差し置いても、受難という名の応援をしたくなるほどに。


 腹立たしいのは神という相手に対して、俺が選べる対抗の手段がないからだ。そのせいで俺は要らん苦労ばかりして、周囲にも迷惑ばかりかけて、それに、それに……。


 段々ムカついてきた俺は、うつ伏せになって枕へ顔を突っ込んで、自分でも気付かないうちに寝入ってしまっていた。


「四季」


「ん……あぁ……?」


 つむっていた目を開けると、俺とは別の意味で疲れた顔をした中年男性が、俺の顔を覗き込んでいた。名前を呼ばれ、見慣れたその顔を思い出すまでに、寝ぼけた頭は数秒を要してしまう。


「ヤベッ……悪ぃ、親父! 夕飯まだ作ってない……!」


「あぁ、気にするな。俺も手伝うから」


 俺の顔を見ていたのは、うちの親父だった。壁に掛けられた時計を見ると、時刻は七時過ぎを指している。


「今日も残業だったんだな。飯まだでゴメン」


「気にするなって。それより、洗濯取り込んどいてくれたのか」


「うん。まだ畳んでないけど」


「いや、助かるよ。ありがとう」


 モゾモゾと起き出すと、親父は鞄を置いて洗面所へ手を洗いに行った。仕事終わりなのを差し引いても、その背中が妙に小さく、力なく見えてしまう。


 御影庇志みかげひさし。小銀行の平行員ひらこういんをやっている五十歳。髪には年々白いものが混じり、目尻のしわはその深さを増している。親の顔を間近で見たのは、子供の時以来かもしれない。


 老いを感じてやるせなくなった俺は、気分を誤魔化すように爆速で野菜を切り、油を引いて熱したフライパンに豚バラをぶち込んだ。


 親父は冷凍してあったご飯を二人分取り出し、レンジに二分半掛けた。その間に小鍋で湯を沸かし、汁椀にドライの味噌汁の素を入れる。野菜炒めが出来上がれば、あっという間に食卓の準備は整った。


「いただきます!」


「いただきます」


 男二人の食卓は、簡素なものだった。野菜炒めにはこれでもかとキャベツを入れ、彩りに人参とピーマンが顔を覗かせている。味付けは我ながら上手く出来たと思う。


 野菜と肉に箸をつける俺と対照的に、親父はまず唇を湿らすように味噌汁へ口をつけていた。


「ん……美味いな」


「最近のインスタントって案外馬鹿に出来ないよな」


 そうしてしばらく、俺たちは無言で食事をつついていた。


 見ての通り、我が家に母親はいない。二人暮らしの父子家庭である。母は俺を産んだ直後、免疫力が戻りきらないうちに感染症にかかってしまい、呆気なく死んでしまったそうだ。


 父の話では、もともと体の強い人ではなかったらしく、母の死も神の試練の内なのかは判別しかねるところだ。仮にもしそうだったら、俺は自分の出生しゅっせいにまで罪の意識を負わなければならなくなる。


「そーいや親父、明日の保護者説明会来んの?」


「いや、仕事だ。さすがに被害者の親が行かんのもどうかとは思うんだが」


「いんじゃね? 来れなかった家庭には後で説明会の冊子さっしだけ配るって言ってたし」


「すまんな」


「謝んないでよ。別に悪いことしたわけでもあるまいし」


 白飯をかきこみながら慰めにもならない言葉を掛けていると、不意に親父が箸を止めて、俺の顔をじっと見つめてきた。


「……何? なんかついてる?」


「いやな……お前も年頃なんだし、もっと遊んだり、出かけたりしてきていいんだぞ」


「何だよ、今さら。親父だって知ってるだろ? 俺が出かけたらろくなことにならないって」


「そうかもしれんが、十代の時間はお前が思うよりずっと短いからなぁ……」


 何か思うところありそうな顔で親父はしみじみとそう言う。けれど、やはり我が家が一番安全で信用出来る場所ってことに変わりはない。


「お前が家に友達とかを連れてきたこと、一度もないと思ってな。もしお前がそうしたいなら、泊まりで遊んできたって構わないんだぞ?」


「いいよ、気ぃ使わなくて。行きたいとこもやりたいことも、特にないから」


 それは俺の本音だった。どこへ行っても何かに邪魔される俺にとって、安住の地は我が家にしかあり得ない。大体、こんな俺といっしょに行動してくれる奇特な友達なんて、いやしない。


「ごっそさん!」


 それ以上の会話を拒むように、俺は手を合わせて食事を終了させた。


「風呂は先に入っていいから。俺ちょっと食いすぎたから横になる」


「あ、あぁ……」


 俺は隣室へと逃げ、相変わらず敷いたままの布団へダイビングを決めた。


「親に遊びの心配されるなんて、終わってんなぁ……」


 そうぼやきながら、俺は自分の腕を枕にしてごろんと半回転し、暗い部屋の天井を見上げた。


 親父の言うことも、理解出来ない訳ではない。けれど、俺は俺の特性を分かった上で、それでも他人を遊びに誘う勇気はなかった。


 想像してみてほしい。誰かと出かけた先で何かの事件に巻き込まれ、そして俺だけが無傷むきず帰還きかんしたとしたら。そりゃ、不気味以外の何物でもないだろう。


 そういうことが過去に何度も起こるうち、俺は気味悪がられ、避けられるようになってしまったのだった。要するに疫病神やくびょうがみなのだ、俺というやつは。


 好転しない人生ほど、人にストレスを与えるものはない。それを実感として知っている俺は、手探りで見えない道を歩いているような毎日を送る羽目になっている。


 それともこんなものはまだマシな方で、俺が甘ったれているだけなのだろうか。親父だって優しい、学校にも通えている、衣食住にも不便していない。考えればそれだけで恵まれてるとも言える。


 俺より悲惨で目も当てられない人生を歩まざるを得なかった人間は山ほどいるんだから、お前はもっと努力して我慢しろ。人に話せば、そう言われてしまうだろうか。とても話せるようなことではないけれど。


 答えは出ないまま夜は更けていき、俺は考え過ぎて眠れない一晩を過ごす事になった。だからこの時の俺はまだ、何も知らなかったんだ。


 恵まれてるだなんて驕りもいいところで、明日の自分が好転どころかジェットコースター並みの急転直下きゅうてんちょっかへ見舞われることになるなんて。



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 五月も終盤に差し掛かり、梅雨になろうかという季節の割にその日は雲一つない晴天の朝だった。親父を仕事に送り出したあと、俺も学校へ向かう準備をしている。


 昨日は悶々もんもんとしていたせいであまり眠れず、頭はぼんやりとかすみがかっていた。生あくびは起きてから止まらず、体はだるさを引きずるように重たい。


 親父からも心配されるような有り様だったが、単なる寝不足ならだまだましどうにかなるだろうと思い、俺はマンションの一室から外へと出た。


「おー、いい天気だぁ」


 手でひさしを作り、朝の日差しから目を守ると、気持ちのいい風がほおを撫でた。梅雨入り前に、夏物の衣類をまとめて洗濯しておきたくなるような快晴である。しかしそんな爽やかな気持ちも、僅か数秒で突き崩された。


「おはようございま〜す」


 唐突に、俺の進路をふさぐような形で見知らぬ男が現れた。パリッとした青いシャツに、ポケットの山ほど着いたダサいブルゾンを羽織った男だ。


 ご近所さんかと思い会釈えしゃくだけ返してやり過ごそうとしたら、男は俺の前へ立ちはだかって強引に手を突き出して来た。


「私、こういうものなんですが……御影四季みかげしきさんですか?」


 その手には、俺でも名前を聞いたことのある新聞社の名前と男の名前らしきものが書かれていた。


「先日、薬物中毒者に襲われた事件について、少しお話聞かせていただいてもいいですかねぇ?」


 ねっとりと絡みつくような声で、男はにこにこと笑みを張り付かせている。そのねちっこさに、俺は内心で舌を出さずにいられなかった。


 いわゆるマスコミの取材のようだが、こういう手合いを相手にして良い思いをしたことは、経験上全くと言っていいほどなかった。


 大抵の場合俺は悲劇のヒロインのように扱われ、生き残っただけでも奇跡のような報道をされる。俺の発言なんて、刺身のツマ程度の添え物でしかない。


 対処の仕方を知らない子供の頃は、今よりもっと酷かったものだ。それはどれだけ大手のマスコミでも同じだった。


「あ、今から学校ですよね。でしたら通学しながらでいいですから、お話聞かせてくださいよ」


 無視するつもりで歩き出した俺の横に、記者は厚かましくもぴったりと付いてきて離れなかった。職業記者のウザったさは、春間を相手にしていれば嫌というほど味わっている。


「学校側も随分と杜撰ずさんな警備をしていたようですが、何か言いたいことでもあるんじゃないですか?」


 ほんの数分で「もういいって…」と言いたくなるしつこさは、春間をゆうに超えている。かといって手を出せば、それを悪しざまに記事にされるのだ。


 このまま無視しても学校まで着いてくるようなら、教師を頼って警察でも呼んでもらおうか。いやいっそこのまま自分で警察を呼べば済む話か。


 そう思った矢先、それは起こった。雲一つない筈だった空から、ざっと音をさせて雨が降ってきたのだ。空模様に変わった様子はなく、雨だけが唐突に辺り一帯を湿らせ始めた。


 小雨程度の規模感だったが、雨は朝日を反射して金色に輝いている。いわゆる天気雨というやつだ。当然のように俺も記者も、雨具を装備してはいないため好き放題濡れてしまった。


「チッ……何だよ、どっから降ってきてんだ?」


 本性を表したかのように、記者がそれまでの丁寧な言葉遣いをかなぐり捨てて、舌打ちしながら空を睨みつけた。だが俺は、記者とは全く違う意味で、そぼ降る雨を見上げていた。


("予兆"だ……!)


 俺はぐっと身構え、周囲を見渡した。それは、神が俺へ試練を与える前に見せる、兆しの一つだった。


 神々の受難が俺に降り注ぐ時、それには必ず事前に予告のような現象が起こる。以前のヤク中の事件で言えば、それは珍しい白黒のペア猫が目の前を横切ったことが該当する。


 普通の人間なら見慣れない光景、珍しい生き物、あるいは俺にしか聞こえない幻聴げんちょう幻臭げんしゅう幻味げんみ、そういった現象が起こった直後に、事件は起きる。それを改めて確信させるかのように、"その男"は俺の目の前に現れた。


「やぁ、ちょっとすんませんね」


 雨のカーテンを割って、その男は朝の住宅街の一角にぬっと立っていた。上背は高く、一九〇センチ近くはありそうに見える。黒の長髪はよれてボロボロで、こんな時間なのにサングラスを身に着けた、スーツ姿の男だ。


 こんな体格の男が前方に居れば間違いなく気付きそうなのに、俺には声を掛けられるまでその存在が見えてすらいなかった。


 タイミングからして、この予兆は記者を指して起こったことではなさそうだ。ということは、俺が本当に注意を割くべきは、突然現れた前方の男の方だ。


「ちょっとちょっとぉ! おたく、他所の記者さん? うちが先に取材してんだから邪魔しないでくれるかなぁ!」


 記者はそう言って男の行く手をさえぎろうとしたが、男は拳のスナップを利かせて、記者のこめかみへ人さし指の第二関節を当てた。


退け」


 ゆで卵を割るような軽い仕草しぐさだったのに、記者はそれだけで白目をいてがくりと膝を着いた。


御影四季みかげしきさん、ッスよね?」


 記者と同じような問い方をしているのに、何故かその言葉の背後に妙な威圧感を覚えて、背筋せすじがゾワゾワと粟立ってゆく。初めて味わうその威圧感に負けて、俺は一目散いちもくさんに我が家へ逃げ帰ろうとした。


 いや、待て俺。今着いてこられたら部屋の番号まで把握されちまうんじゃないか? でもマンションの前で待ち伏せされていたってことは、もう遅いんじゃ……。


 一瞬の逡巡しゅんじゅんは出足を迷わせてしまい、その後の対応に遅れを生じさせる。結果、それが致命的ちめいてきな敗因となった。


 男に気を取られていた俺は、自分の背後から黒いバンが迫っていることに気付いていなかったのだ。


 振り向いてマンションへ逃げ込もうとした時には、黒いバンは俺の横について、中から二人の男が飛び出て来た。帽子を目深まぶかに被り、マスクをしているためその顔立ちまではよく見えない。


 そこからはもうあっという間で、俺は無理やり車へ引きずり込まれて、口をガムテープでふさがれた。暴れて逃げ出そうとする暇もなく、腕と足に手錠が掛けられた。


 他人事なら鮮やかと呼べる手管てくだでも、やられる当事者からしたら死活問題だ。誰か運良く通りかからないかと、俺はガムテ越しにでも声を張り上げようとした。


「むあ、むあぁぁーーーー!!」


 その悲鳴にふたをするように、例のデカい男が車外から車の入口をふさいだ。


「ちょっとやかましいッスねぇ。静かにさせてから出発しますか」


 言うと男は、記者にそうしたように鋭い振りの拳で俺のこめかみを突いた。その一撃で俺は意識を失い、ストンと座席へ腰を落とした。


「じゃ、行きましょーか」


 その台詞も、男が助手席へ乗り込んだのも、俺には聞こえなかったし見えなかった。車に気絶した俺を乗せて、バンは天気雨の住宅街を、のっそりしたスピードで走り抜けていった。




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