第49話 天才作曲家は(共鳴する)隣人(ネクスト)と(迫り来る)決戦(デッドライン)に筆を走らせる
『Resonance』。
俺が仮にそう名付けた新しい曲の断片が、スタジオ(本物)を満たし始めていた。それは静かで、内省的で、それでいて確かな光を宿した音。黒崎への怒りでも、アンチへの反論でもない。ただ、俺自身の魂が、今、鳴らしたがっている響き。そして、その響きは壁一枚隔てた隣……春日さんが紡ぐ音と不思議なほど共鳴していた。
彼女がLogic体験版で奏でるピアノのフレーズが、俺の次のアイデアを導くことがある。俺が試した新しいコード進行に、彼女がハミングで応えるかのような瞬間もある。言葉は交わさない。だが、俺たちの間には音楽を通じた、確かな対話(セッション)が生まれていた。それは、俺が『Kanata』になる前に失ってしまった、純粋な創作の喜びに満ちた時間だった。
もちろん現実の脅威が消えたわけではない。智也からの情報によれば、Croix Noire(クロワ・ノワール)は来月早々にもアルバムをリリースする予定で、そのプロモーションとして黒崎はメディアへの露出を増やし始めているらしい。「Kanataは偽物」「俺こそが本物の魂」といった挑発的な発言を繰り返しているという。橘龍生の思惑通り、世間の注目は「Kanata vs Croix Noire」という対立構造へと煽られつつあった。
柊さんからも、連日プレッシャーがかかっていた。『Anima』の成功で勢いづいたレーベル上層部は、この状況を逆手に取り、Kanataブランドをさらに強化しようと躍起になっている。『Resonance』のデモ提出を急かされ、黒崎への「反撃」となるような、よりキャッチーで攻撃的な楽曲への路線変更を示唆するメールまで届く始末だ。
(ふざけるな。俺は、誰かの期待や、誰かへの憎しみのために音を作るんじゃない)
俺は柊さんからのメールを無視し、ただひたすら、自分の内側から湧き上がる音……『Resonance』の完成に集中していた。
◇
木曜日。大学の講義が終わった後、俺は自然と旧音楽棟の空き教室へと足を運んでいた。春日さんとの非公式なレッスン(意見交換会)は、もはや俺にとっても欠かせない時間となっていた。彼女の音楽的な成長を目の当たりにすることは、刺激的であり、俺自身の創作へのモチベーションにも繋がっていたからだ。
教室の扉を開けると、春日さんは既にピアノの前に座り、自分のノートPCと格闘していた。画面には無数のMIDIノートが並び、複雑なアレンジが施されているのが見て取れる。
「お疲れ様です、彼方くん」
「ああ」
俺は彼女の隣の椅子に腰を下ろした。
「あの、聴いてもらえますか?例の曲、……一応、最後まで形にしてみました」
彼女の声には緊張と確かな自信が滲んでいた。
「ああ。聴かせろ」
彼女が再生ボタンを押す。流れ出したのは俺の黒歴史(Cマイナー)から始まったあの曲の完成版だった。
(!)
俺は息を呑んだ。音が、空気が違う。Logic体験版のチープな音源であることは変わらない。だが音の選び方、重ね方、展開の作り方、その全てが数日前のデモとは比較にならないほど洗練されている。彼女が悩んでいたブリッジからの展開は、大胆な転調と対位法的なメロディの絡み合いによって、見事な高揚感を生み出している。そして俺を打ちのめしたあのアウトロのハミングは、さらに多重録音されゴスペルのような荘厳さすら漂わせていた。
技術だけではない。曲全体を貫く「物語」がそこにはあった。始まりの不安と孤独(Cマイナー)。一筋の光(ミ♮オルゴール)。迷いと葛藤(Am→Bdim7)。そして、それらを乗り越えた先にある、静かでしかし揺るぎない希望(アウトロのハミング)。それは俺(過去)の魂を受け止め、俺(Kanata)の音楽に触れ、そして今、彼女自身の力で未来を掴もうとしている「春日美咲」という人間の魂の軌跡そのものだった。
曲が終わっても、俺はしばらく動けなかった。ただ深い感動が胸を満たしていた。
「……どう、でしょうか?」
春日さんが、不安そうに俺の顔を窺う。
俺はゆっくりと顔を上げ、心からの言葉を伝えた。
「すごいな。……本当にお前が一人で作ったのか?」
「!はいっ!」
彼女の顔がぱっと輝く。
「彼方くんが貸してくれた本とか、あと壁越しに聴こえてくる彼方くんのピアノとかたくさんヒントをもらいましたけど……でも、これは私の音(答え)です!」
彼女は胸を張って言った。その姿は、もう「弟子」ではない。一人の独立した「作曲家」だった。
「……そうか」
俺は微笑んだ。
「なら、もう、俺から教えることは何もないな」
「え?」
「お前はもう自分の力で歩き出した。俺はもう『師匠』じゃない」
「そ、そんなこと……!」
「いや、本当だ」
俺は真剣な目で彼女を見た。
「これからは対等な『音楽仲間』として、……よろしく頼む」
「音楽、仲間……」
彼女は呆然と呟き、……そしてゆっくりとその意味を噛みしめるように顔を赤らめながら頷いた。
「は、はいっ!こちらこそ、よろしくお願いします!彼方……さん!」
(……さん付けか。まあ、いいか)
俺たちの関係は、また一つ新しい形へと変わった。
その時、俺のスマホ(彼方用)が震えた。智也からだ。
『彼方、大変だ!Croix Noireのアルバム、緊急リリース決定!明日だ!』
(明日!?)
『しかも、タイトルがヤバい。『Requiem for Kanata(Kanataへの鎮魂歌)』だと!』
「……っ!」
俺は息を呑んだ。
「彼方くん?どうかしましたか?」
春日さんが心配そうに声をかけてくる。
「……いや、なんでもない」
俺はスマホをポケットにしまい平静を装った。だが、内心は嵐が吹き荒れていた。
(明日、リリースだと?橘のやつ、……俺(Kanata)の『Anima』の成功を見て焦って仕掛けてきやがったか!しかも、『Kanataへの鎮魂歌』だと?ふざけやがって!)
「あの、彼方くん?」
「……悪い春日さん。今日はもう戻る」
俺は立ち上がった。
「やらなきゃならないことができた」
「え? あ、はい……」
俺は彼女に背を向け、足早に教室を出た。
(どうする。黒崎(あいつら)のアルバムが明日世に出る。俺(Kanata)への剥き出しの悪意と共に。俺はこのまま黙って『Resonance』を作り続けるのか?それとも……)
俺の足はスタジオ(本物)へと向かっていた。心の中では二つの音が激しくぶつかり合っていた。静かな『Resonance(共鳴)』の響きと、過去のトラウマ(黒崎)が呼び覚ます激しい、『怒り(ディストーション)』の音。
俺は、今、どちらの音を選ぶべきなのか。選択の時が迫っていた。
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