第47話 天才作曲家は(宿敵の)宣戦布告(アンサー)と(隣人の)探求(クエスチョン)に魂を揺さぶられる


 金曜日の夜。自室(スタジオ)に戻った俺は重い沈黙の中にいた。隣の部屋(502号室)からは、春日さんが作曲に取り組むピアノの音が断続的に聞こえてくる。それはまるで彼女が抱える創作の苦悩と、それでも諦めない意志を同時に物語っているかのようだった。


 俺の手元には智也から送られてきたCroix Noire(クロワ・ノワール)のライブ中継のURLが表示されたスマホ(彼方用)がある。時刻は午後七時半。そろそろ奴らのステージが始まる頃合いだろうか。黒崎。俺の忌まわしい過去の象徴。奴が放つ『Kanataへのアンサーソング』とやらを、俺は聴くべきなのか。


(逃げるのか? 俺は)


 橘龍生の嘲笑うような顔が脳裏をよぎる。奴は俺を挑発し、過去のトラウマを抉り、表舞台(天音彼方)へと引きずり出そうとしている。その手口は悪辣だが、的確だ。黒崎の音楽は、俺の最も触れられたくない部分……『Kanata』という仮面の下に隠した生々しい劣等感と怒りを刺激するだろう。聴けば確実に心は乱される。創作どころではなくなるかもしれない。


 だが、聴かなければ。敵を知らなければ戦うことも、あるいは無視することもできない。俺(Kanata)の音楽が『本物』であると証明するためには、奴らの『偽物(フェイク)』の音を正面から受け止める必要があるのかもしれない。


 俺は覚悟を決め、スマホの再生ボタンを押した。粗い画質の中継映像が映し出される。都内のライブハウス。熱狂する観客。そしてステージ中央には、黒い衣装に身を包み、不敵な笑みを浮かべる黒崎の姿があった。数年ぶりに見るその顔は、高校時代の生意気な面影を残しつつもより鋭利で危険な光を宿していた。


「待たせたな、子羊ども!」


 黒崎がマイクに叫ぶ。会場が割れんばかりの歓声に包まれる。


「今夜は、俺たちの復活祭だ! そしてある『偽物の神』への、鎮魂歌(レクイエム)を捧げてやる!」  


 観客の一部が「Kanataのことか!?」と叫び、会場のボルテージが一気に上がる。橘が仕込んだのだろう、明らかにKanataアンチと思われる者たちの扇動的な声も混じっていた。


「新曲『Fallen Idol(墜ちた偶像)』! 聴きやがれ!」  


 黒崎がギターを掻き鳴らす。激しく歪んだリフ。ヘヴィなドラムとベース。テクニカルで攻撃的なサウンドだ。だが、その音にはどこか既視感があった。俺(Kanata)が『アストロラーベ』で提示した複雑なコード進行や変拍子をあからさまに模倣(コピー)し、さらに歪に増幅させたような。


 そして、黒崎が歌い出す。


『完璧な鏡は砕け散り 虚像(うそ)の光は闇に消える』


『魂なき音(うた)に誰が踊る?偶像(アイドル)は地に墜ちたのさ』


(やはり、俺(Kanata)のことか)  


 歌詞は稚拙で直接的だ。『Luminous』の成功と「鏡理論」を嘲笑し、匿名性に隠れた俺を臆病者だと罵る。そしてサビでは、『アストロラーベ』のメロディラインを皮肉っぽく引用しながら、絶叫する。


『叫べよ もっと! 偽りの仮面(ペルソナ)剥がして!』


『見せろよ もっと! 泥塗(どろまみ)れの魂(リアル)を!』


『それができないなら 消え失せろ! 王座(おうざ)は俺が奪い取る!』


 高校時代の記憶が鮮明に蘇る。コンクールの結果発表。審査員たちの冷ややかな視線。そして、優勝した黒崎が俺に向けた、あの侮蔑に満ちた笑み。奴は、俺の楽譜を盗み見て、その核心的なアイデアを自分の曲に取り入れていた。俺が審査員にそれを訴えても、「若気の至り」「影響を受けただけだろう」と取り合ってもらえなかった、あの無力感。


「…っ!」  


 俺はスマホを握りしめる手に力がこもるのを感じた。怒りで腹の底が煮えくり返る。  


(ふざけるな……!お前こそが、偽物(フェイク)だろうが!)


 だが、曲が進むにつれて、俺の怒りは別の感情へと変わり始めていた。違和感だ。  演奏は激しく、歌唱もパワフルだ。だが、そこに「魂」はあるのか?黒崎の歌は、ただKanata(俺)への憎悪と嫉妬を撒き散らしているだけでその先に何も見えない。彼の音楽は結局、俺(Kanata)という「偶像」へのアンチテーゼ(反対命題)でしかなく、彼自身の「オリジナル」ではなかった。


(空っぽだ)


 俺はふっと冷静になった。橘に焚きつけられ、過去の栄光(?)にすがり、俺への当てつけのためだけに音楽をやっている男。それが今の黒崎の姿だ。俺が本気で向き合うべき相手ではない。俺はスマホの再生を止め、ポケットにしまった。もう十分だ。


 俺が向き合うべきは、過去の亡霊ではない。俺自身の「今」と「未来」だ。そして……。俺は再び、左の壁(502号室)に耳を澄ませた。ピアノの音がまだ続いている。春日さんの探求は終わっていない。


 彼女が弾いているのは、Bdim7(ディミニッシュ)からE♭(イーフラット)への、あの意外な解決のフレーズ。だが、その響きがさっきまでとは少し違って聞こえた。もっと、静かで内省的な響き。俺が昨日言った言葉。「周りの音を聴け。自分の心の声を聴け」。彼女はそれを実践しているのかもしれない。


(どんな音を見つけようとしているんだ? 春日さん)


 俺は、自分のスタジオの鍵盤に再び指を置いた。黒崎の音ではない。春日さんの音でもない。俺自身の音を探すために。だが、今はまだ何も生まれてこない。焦りだけが募る。


 その時だった。壁越しのピアノの音がふっと止んだ。そして、代わりに聞こえてきたのは、彼女の小さなハミングだった。それは彼女が作っている曲のメロディではない。全く違う、……もっとシンプルで、……子守唄のような優しい旋律。どこかで聴いたことがあるようなないような。


(なんだ、このメロディは……)


 それは、俺が心の奥底でずっと求めていた響きに似ていた。激しさでも、美しさでもない。ただ、そこにあるだけで心を静かに満たしてくれるような温かい音。


 俺はそのハミングに導かれるように無意識に鍵盤で和音(コード)を探っていた。  Fメジャーセブンス……?Gメジャー……?Aマイナーセブンス……?  


(違う。もっと、……シンプルな……)


 そして、俺の指は一つの響きに辿り着いた。Cメジャー。ただの、ドミソ。すべての始まりの、……そして、すべての終着点でもあるような、……完璧な調和(ハーモニー)。


 俺はそのCメジャーの和音を静かに鳴らした。壁の向こうの春日さんのハミングがその和音に、ぴったりと寄り添うように響いた。


(……ああ)


 俺は目を閉じた。黒崎への怒りも、橘への警戒心も、春日さんの才能への畏怖も、今はどこか遠くに感じられた。ただ、この静かな音の共鳴だけがそこにあった。


 これが、俺の「次」の音の始まりなのかもしれない。まだ分からない。だが、俺はようやく、……再び鍵盤に向き合うことができそうだった。


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