第44話 天才作曲家は(過去からの)刺客と(隣人の)覚醒に挟撃される

「……分かりました。……やってみます」


 その言葉には、もう以前のような迷いはなかった。彼女は自分のノートPCに向き直り、Logic体験版を開いた。俺が見守る中、彼女は無心にマウスをクリックし、キーボードを叩き始めた。それはもう、俺の黒歴史(Cマイナー)の「続き」ではない。彼女自身の「魂」を音にするための苦闘の始まりだった。


 俺はその姿から少し目を離し、ポケットからスマホ(Kanata用)を取り出した。柊さんから送られてきた、あの忌々しいMVのリンクを再び開く。インディーズバンド『Croix Noire(クロワ・ノワール)』。曲名は『偽りの鏡(フェイクミラー)』。再生すると激しいギターリフと叩きつけるようなドラム。そして、あの声。


(間違いない。こいつだ)


 囁くようなAメロから、感情を爆発させるサビへ。その歌唱スタイル、声質、そして何より、歌詞に込められた、歪んだ自己愛と他者への攻撃性。高校時代、俺が最も忌み嫌い、そして同時に、その才能だけは認めざるを得なかった男。俺の音楽を「綺麗事だ」と嘲笑い、コンクールで俺を蹴落としたあのバンドのボーカル。なぜ今になってこんな形で?しかも『偽りの鏡』という明らかに俺(Kanata)の「鏡理論」を揶揄するかのようなタイトルで。


(橘龍生(たちばな りゅうせい)か?)  


 先週、俺の部屋に現れたPhoenix Recordsの社長。彼がこのバンドを焚きつけ、俺への当てつけとしてデビューさせた?ありえない話ではない。奴ならやりかねない。俺を『天音彼方』として引き抜くための、揺さぶりか?


「……師匠?」  


 不意に声をかけられ、俺はハッと我に返った。春日さんが心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。


「あ、いや……悪い。続けてくれ」


「……はい」


 彼女は再びPCに向き直った。その横顔は真剣そのものだ。画面には今まで彼女が使ったことのない、不協和音すれすれの鋭いコードが打ち込まれていた。


(始まっている)


 彼女の中の、「綺麗事」ではない、もっと生々しい感情が音になり始めている。俺が焚きつけた結果とはいえ、その変化の速度、俺は改めて戦慄した。


 ピコーン♪  


 PCから、短い、間の抜けた効果音が鳴った。春日さんが何か操作を誤ったらしい。


「あ!」  


 彼女は慌ててキーボードを叩くが、どうやら致命的なエラーを起こしたわけではないようだ。ホッと息をつき作業に戻る。そのほんの一瞬見せたドジな素顔。それは紛れもなく、俺が知っている「隣人」の春日さんだった。だが、PCに向き直った瞬間のあの真剣な眼差しは、もう「白亜凛音」でも「弟子(仮)」でもない。一人の「作曲家」の顔だ。


(お前は、一体誰なんだ)  


 俺は隣にいる少女のその多面性に改めて戸惑いを覚えていた。


 しばらくして彼女は手を止め、おそるおそる俺を見た。


「……あの、師匠。……ちょっとだけ、聴いてもらえませんか?」


「ああ」  


 彼女は再生ボタンを押した。流れ出したのはまだ数小節の短いフレーズだった。  激しいピアノのアルペジオ。不穏なストリングスの響き。そして一瞬だけ鳴る、悲鳴のような甲高いシンセの音。それは美しいとは言えなかった。荒削りでバランスも悪い。だが、そこには確かに、「怒り」や「悲しみ」といった剥き出しの感情(タマシイ)が宿っていた。


「ど、どう、でしょうか…?」  


 彼女は自分の生み出した音に怯えるかのように、俺の反応を待っている。


 俺はどう答えるべきか迷った。技術的なアドバイスはいくらでもできる。ここのコードはこうした方がいい、リズムはこう変えろ、と。だがそれは正しいことなのか? 俺(Kanata)の色で、彼女の生まれたばかりの「魂」を塗りつぶしてしまうことにならないか?


「……これは」


 俺はゆっくりと言葉を選んだ。


「お前の音だ」


「え?」


「俺が口を出すことじゃない」


「で、でも……!まだ全然、ぐちゃぐちゃで……!」


「それでいい」


 俺は言った。


「今は、それでいい。……最後までお前の力で形にしてみろ」


「師匠……」  


 彼女は戸惑いながらも、俺の言葉の真意を探るようにじっと俺の目を見た。


「……はい!」


 やがて、彼女は強く頷いた。


「やってみます!私だけの音(答え)を!」  


 彼女の目に、迷いはもうなかった。


       ◇


 帰り道。旧音楽棟から駅へと向かう薄暗い道を俺たちは無言で歩いていた。さっきまでの教室での熱気とは対照的な冷たい夜風が頬を撫でる。先に沈黙を破ったのは春日さんだった。


「あの、師匠」


「……彼方くんでいい」


 俺は訂正した。


「もう、『師匠』じゃないだろ」


「え……?あ、は、はい……。彼方くん」


 彼女は少し照れたように言い直した。


「あの、……さっき見てた動画……」


「!」


 俺はドキリとした。


「……何か、あったんですか?すごく怖い顔してましたけど」  


(見られていたか)  


 俺はため息をついた。隠しても仕方ない。


「昔の、知り合いだ。……あまり思い出したくない相手が音楽をやっていた」


「昔の知り合い……」


「ああ。……気にしないでくれ」


「……でも」


 彼女は立ち止まった。


「もし、彼方くんが、……その人のことで苦しんでるなら、……私……」


「お前には関係ない」


 俺は彼女の言葉を遮った。


「これは俺の問題だ」


「!」  


 彼女は傷ついたような顔で俯いた。  


(……まずい。突き放しすぎたか)


 だが彼女はすぐに顔を上げた。その目には怒りでも悲しみでもなく静かな決意が宿っていた。


「分かりました。……彼方くんの問題なんですね」


「ああ」


「でも、もし、……音楽(音)で何かできることがあったら言ってください」


「……」


「私、彼方くんにたくさん助けてもらったから。……今度は私が彼方くんの力になりたいです」  


 彼女はそう言って先に歩き出した。


 俺は、その小さな背中をただ見送ることしかできなかった。  


(力になりたい?俺(Kanata)にではなく、……俺(天音彼方)に?)


 俺はスマホ(彼方用)を取り出し智也に短いメッセージを送った。


『Croix Noire。調べてくれ。……ボーカル、多分黒崎(くろさき)だ』  


 すぐに返信が来た。


『黒崎!?マジかよ。あいつまだ音楽やってたのか……。了解。探ってみる』


 自室(501号室)に戻る。左の壁(502号室)からは静かだが力強いピアノの音が聞こえてくる。春日さんが俺の言葉を受けて自分の「魂」と向き合っている音だ。


(俺も、逃げてはいられない)


 橘からの誘い。黒崎(過去)の亡霊。そして春日さん(未来)の才能。全てが俺に「選択」を迫っている。俺は『Kanata』としてどう生きるのか。そして『天音彼方』としてどう彼女と向き合うのか。


 俺はメインPC(Kanata用)に向かい、空のプロジェクトファイルを開いた。  『Anima』の次へ。俺自身の、「次」の音を探すために。


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