第43話 天才作曲家は(変化する)関係(ステップ)と(蠢く)影(シャドウ)に歩を進める
金曜日の午前零時に『Anima』がリリースされてから数日が過ぎた。週明けの大学構内はどこか浮ついた空気に包まれていた。俺の耳にもすれ違う学生たちの会話から『白亜凛音』や『Anima』、『Kanata』といった単語が飛び込んでくることが増えた。白亜凛音のチャンネル登録者数は爆発的に伸び、各種音楽チャートでは『Anima』が依然としてトップを独走しているらしい。
(……成功、か)
その事実は素直に嬉しい。俺(Kanata)の音楽が、そして春日さんの歌声が世界に認められたのだから。だが、俺自身の心境は複雑だった。成功の裏で俺と彼女の関係性は、そして俺を取り巻く状況は確実に変化し始めていたからだ。
「おはよう、彼方くん」
月曜日の二限、「現代音楽論」の講義室。俺がいつもの席に着くと隣の席から静かな声がかかった。春日さんだ。彼女は既に座っていて熱心に音楽理論書を読み込んでいた。
「……ああ、おはよう」
以前のような「師匠!」という呼びかけはない。ただ「彼方くん」。その響きには以前の無邪気さとは違う、どこか探るような、それでいて親密さも感じさせる微妙なニュアンスが含まれている気がした。先週末、俺のスタジオで互いの「魂」に触れてしまったこと、そして俺が彼女の秘密を知っていたことが二人の間の距離感を強制的に変えてしまったのだ。
講義中、俺たちはほとんど言葉を交わさなかった。だが視線が合う回数は以前より明らかに増えていた。彼女が講義内容で分からない箇所があると俺の方をちらりと見る。俺がそれに気づいて小さく頷くと、彼女は安心したようにノートに視線を戻す。そんな言葉にならないコミュニケーションがそこにはあった。
昼休みのカフェテリア。俺がいつものペペロンチーノを食べていると、智也が隣に座った。
「よお、彼方。どうだ例の『共犯者』とは」
「……うるさい」
「まあまあ。……けど良かったじゃねえか『Anima』。マジで神曲だ。俺もリピート止まらん」
「そうか」
「アンチの声も今のところは静かみたいだしな。お前の『魂』、ちゃんと届いたんじゃねえの」
「だといいが」
俺がそう答えた時だった。
「おーい! 天才コンビ!」
能天気な声と共に、高木がトレー(カツカレー特盛り)を持ってやってきた。その後ろには苦笑いを浮かべた春日さんもいる。どうやら途中で捕まったらしい。
「よお!渉!相変わらずだな、お前は」
智也が軽口で返す。
「おうよ!それより聴いたか!?俺の言った通りだったろ!」
高木は興奮気味に、俺と春日さんを交互に指差した。
「『Anima』とあのピアノのやつ! 絶対なんか関係あるって!」
「(こいつ、まだその勘違いを引きずってるのか)」
俺はため息をついた。
「渉、お前のその『ピンときた』はだいたい外れてるぞ」
智也が呆れたように言う。
「いや、今回はマジだって!絶対、Kanataが『彼方師匠』のアレンジに影響されたんだよ!だって雰囲気そっくりだもん!」
「そ、そうかな…?」
春日さんが困ったように笑っている。彼女も高木の暴論にどう反応していいか分からないのだろう。
「まあ、どっちも良い曲だよな!」
高木はあっさり話を切り替え、カツカレーを頬張り始めた。
「つーか、春日さん!例の作曲のやつどうなったんだよ!彼方師匠の魂、超えられそうか!?」
「ひゃっ!?」
春日さんの肩が跳ねた。
「な、なんで高木くんがそれを……!」
「智也から聞いた!なんか彼方が春日さんに作曲の宿題出したんだって?」
「(智也! お前!)」
俺は親友を睨みつけた。
「(いや、つい口が滑って…)」
智也は悪びれもせず肩をすくめる。
「え、えっと…それは…」
春日さんは俺の顔をチラリと見た。
「……少しずつ、進んでるみたいだぞ」
俺は助け舟を出すように言った。
「おお! マジか!さすが彼方師匠の弟子!いつか聴かせてくれよな!」
「う、うん…!」
高木の嵐のような会話(主に勘違い)が一段落したところで、俺は春日さんに小声で尋ねた。
「例のやつ、進んだのか?」
「あ、はい!」
彼女は嬉しそうに頷いた。
「昨日、師匠……じゃなくて、彼方くんが教えてくれた『対位法』の考え方、試してみたらすごく面白くて!」
「ほう」
「それでアウトロの部分ちょっと変えてみたんです!今度、聴いてもらえませんか?」
「ああ。放課後、時間あるか?」
「はい!」
◇
放課後。俺たちは人目を避け大学の隅にある今は使われていない旧音楽棟の空き教室にいた。埃っぽいアップライトピアノが置かれただけの殺風景な部屋だ。
「ここでいいのか?」
「はい! ここなら、誰も来ませんから」
春日さんはノートPCを開きながら答えた。
彼女が再生したデモ(Ver.4と名付けられていた)は確かに進化していた。俺がヒントを与えた対位法的なアプローチが彼女なりに咀嚼され、アウトロのピアノとハミングにより複雑で美しい響きを与えている。だがまだ何かが足りない。曲全体としての「核」となる部分……彼女自身の「叫び」のようなものがまだ見えない。
「……悪くない」
俺は言った。
「だが、まだ『綺麗』すぎる」
「綺麗、ですか?」
「ああ。お前が本当に表現したいものは、もっと別の場所にあるんじゃないか?」
「私が、表現したいもの…?」
俺はピアノの前に座り鍵盤に指を置いた。
「お前は『Kanata』にムカついてるんだろ?『嘘つき』だって」
「!」
「なら、その感情を音にしてみろよ。……綺麗事じゃないお前の本当の『怒り』や『悲しみ』を」
「わ、私の怒り?」
「ああ。『鏡』じゃなくて『魂』で、……俺(Kanata)に反論してみせろ」
俺はあえて挑発するように言った。彼女の中に眠る「本物」を引き出すために。 春日さんは、しばらく黙って俯いていたが、やがて顔を上げ、強い意志を宿した目で俺を見た。
「……分かりました。……やってみます」
その時、俺のスマホ(Kanata用)が震えた。柊さんからの緊急連絡だ。
『Kanataさん。例のアンチの動きが活発化しています。彼らは新たな『神輿』を見つけたようです』
添付されていたリンクを開く。そこには、とあるインディーズバンドの、新曲のMVがあった。タイトルは『偽りの鏡(フェイクミラー)』。再生すると、……俺(Kanata)の『アストロラーベ』を意図的に模倣(ほうふつ)させたような、激しく、暗いサウンドが流れ出した。そしてボーカルの声。
(……この声、……どこかで……)
俺は、その声の主に嫌な記憶(トラウマ)が蘇るのを感じていた。俺の「過去」が再び俺の「現在」を脅かそうとしている。
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