第39話 天才作曲家は(才能への)畏怖(フィアー)と(未来への)選択(チョイス)に直面する

 週が明け、火曜日になった。俺は大学の講義室の定位置(最後列の隅)で、ノートPC(偽装済み)に向かい退屈な「現代音楽論」の講義をやり過ごしていた。実際には講義など全く耳に入っていない。頭の中は今週金曜日にリリースされる『Anima』のことと、隣の部屋の住人である春日さんのことで一杯だった。


 彼女が送ってきたデモ(Ver.3)の衝撃はまだ俺の中で生々しく残っている。俺の黒歴史(Cマイナー)に、俺の最新作(Anima)のエッセンスを加え、さらに彼女自身のオリジナリティで昇華させたあの音。あれはもう「宿題」のレベルを超えていた。


(俺は、怪物を育ててしまった)


 それは恐怖に近い感情だった。俺(Kanata)の領域に、土足で踏み込んでくるような、それでいて憎めない純粋な才能。俺はこれからどう彼女と向き合えばいい? 『師匠(彼方)』として?それとも『ライバル(Kanata)』として?


「師匠!」  


 講義が終わるや否や、春日さんが目を輝かせながら駆け寄ってきた。手にはスマホとメモ帳。


「あの! 昨日送ったVer.3のことで、どうしても聞きたい箇所があるんですけど!」


「なんだ?」


「ここのサビからアウトロへの繋ぎなんですけど、もっと滑らかにするにはどんなコードを使えば…」  


 彼女はメモ帳に書かれたコード進行を指差しながら、専門的な質問を投げかけてくる。その内容は数週間前の彼女からは想像もできないほど高度なものだった。


 俺は一瞬、言葉に詰まった。  


(教えるべきか?ここで俺(Kanata)の知識(テクニック)を明かせば、彼女はさらに加速する。だが、教えなければ?彼女は自分で答えを見つけ出すだろう。俺とは違うやり方で)


「自分で考えろ」  


 俺は冷たく突き放すように言った。


「え……?」  


 春日さんの顔が、戸惑いに曇る。


「俺が教えられるのは基礎(ルール)だけだ。その先(答え)は、お前自身で見つけるしかない」


「で、でも……!」


「俺は忙しい。じゃあな」  


 俺は逃げるようにノートPCを閉じ席を立った。背中に彼女の戸惑ったような視線が突き刺さるのを感じたが振り返らなかった。


(これでいい)  


(俺は師匠(ガイド)じゃない。ただの隣人だ。あいつの才能(モンスター)から距離を置かなければ)  


 自分の心に言い聞かせるように早足で廊下を歩く。


「おい、彼方」  


 後ろから声をかけてきたのは、智也だった。彼は俺の隣に並び、呆れたような顔で言った。


「お前、何やってんだよ。あんな突き放し方ないだろ」


「……うるさい」


「なあ彼方。お前、春日さんの才能にビビってるんだろ」


「!」  


 俺は足を止めた。智也の言葉が、核心を突いていたからだ。


「違うか?」


 智也は俺の目を見て言った。


「あの子がお前(Kanata)の領域に近づいてくるのが怖いんだろ?」


「……」


 俺は反論できなかった。


「気持ちは分かるぜ。お前にとって音楽は聖域(サンクチュアリ)みたいなもんだからな。そこにあんな無邪気な才能(モンスター)が飛び込んできたら戸惑うのも無理はない」


「……俺は、ただ……」


「ただ?」


「分からないんだ」


 俺は正直な気持ちを吐露した。


「あいつをどう扱えばいいのか。弟子として育てるべきなのか、それともライバルとして警戒すべきなのか」


「どっちでもあるんじゃないか?」


「は?」


「弟子であり、ライバルであり、……そして、お前にとってかけがえのないパートナー(共犯者)に、なるかもしれねえだろ」


「共犯者…」


「お前一人で抱え込みすぎなんだよ」


 智也は俺の肩を叩いた。


「もっとあの子を信じてみろよ。そしてお前自身の気持ち(才能)にも正直になれよ」


「俺の、気持ち……」


「じゃあな。俺は次の講義あるから」  


 智也はそう言って俺を残して去っていった。


 (俺の、気持ち……)  


 智也の言葉が頭の中で反響する。俺は春日さんの才能を恐れているだけなのか? それとも…。


       ◇


 その夜。俺は自室(スタジオ)で、柊さんから送られてきた『Anima』リリースに関するプロモーション計画書に目を通していた。雑誌の匿名インタビュー、ラジオでの楽曲紹介、人気音楽レビュアーへの音源提供。『Kanata』としての仕事が、本格的に動き出そうとしている。特に匿名書面インタビューの質問項目はかなり踏み込んだ内容だった。「鏡理論からの変化は?」「Animaに込めた魂とは?」「最近のKanataアンチの声についてどう思うか?」。


 (魂、か……)  


 俺はペンを置き目を閉じた。俺の魂とは何だ?過去のトラウマか?Kanataという仮面か?それとも、春日さんの才能に触れて再び燃え始めたこの創作意欲か?答えは簡単には出なかった。


 コン……コン……。


 壁越しに音が聞こえる。春日さんの部屋からだ。Logicのピアノの音。彼女はまだ格闘している。俺が突き放したあの「続き」と。メロディは迷っているように聞こえる。何度も同じフレーズを繰り返し、違うコードを試し、そして、ため息をつくような長い休符。


 (苦しんでるな)  


 俺は立ち上がり本棚に向かった。そこには、俺が学生時代に使っていた和声学や対位法の専門書が並んでいる。その中の一冊、「実践ポピュラー和声学(応用編)」を手に取った。俺自身、作曲に行き詰まった時に何度も助けられた本だ。


 俺は迷った。これを彼女に渡すべきか?それはまた彼女の才能を加速させることになる。俺(彼方)の役割を超えたお節介かもしれない。だが壁の向こうで苦しんでいる音を聴いていると放っておけなかった。


 俺はその本を持って静かに玄関に向かった。隣の部屋のドアポストに、そっと差し込む。インターホンは鳴らさない。メモも残さない。ただ彼女がこれを見つけ何かのヒントにしてくれればそれでいい。俺(天音彼方)としてできるこれがギリギリのサポートだ。


 自室に戻り再びPCに向かう。インタビュー記事の回答を書き始めなければならない。  


『Kanataの魂とは何か?』


 俺は、キーボードに指を置いた


 ―――


 翌朝。俺がスタジオで仮眠から目を覚ますと、ドアポストに何か小さな紙が差し込まれているのに気づいた。取り出してみると、それは一枚の付箋だった。春日さんの丸っこい字でこう書かれていた。


『師匠、ありがとうございます。ヒント、確かに受け取りました』


『師匠の音、やっぱりすごいです。追いつきたいです』


『でも、見つけます。私だけの音(答え)を』


 その短いメッセージに彼女の決意が滲んでいた。俺はその付箋を手に取りそしてPCに向き直った。インタビュー記事の回答。


 『魂は鏡じゃない。それぞれの色で輝くものだ。俺は、その輝きを音にするだけだ』


 それはアンチへの反論でも過去への決別でもなかった。ただ、今俺が感じている、正直な気持ち。隣で輝き始めた、新しい才能(光)への静かなエールだった


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