第38話 天才作曲家は(変わる)距離感(ディスタンス)と(加速する)才能(アビリティ)に戸惑う

 あの日、俺のスタジオ(本物)に春日さんを招き入れ、『Anima』のファイル名を(おそらく)見られてから数日が経った。俺たちの間の空気は明らかに変わっていた。


 まず、壁越しの騒音が減った。いや、ゼロになったわけではない。Logic体験版のチープなピアノの音は夜な夜な聞こえてくる。だが、以前のような無秩序な絶叫や、闇雲な練習ではなくなった。そこには明確な「意志」と「試行錯誤」の音が響いている。俺が出した「宿題」……彼女自身の曲の完成に向けて、本気で格闘している音だ。


 次に大学での距離感。春日さんは、相変わらず俺の隣(あるいは近く)の席に座ってくる。だが、以前のような無邪気な「師匠!」という呼びかけや、物理的な距離の近さはなくなった。代わりにどこか遠慮がちな、それでいて探るような視線を感じることが増えた。彼女は、俺(天音彼方)が何者なのかあのスタジオの光景と、『Anima』というファイル名が何を意味するのか答えを出せないまま、混乱しているのだろう。


「おい、彼方」  


 昼休み。カフェテリアで俺が珍しく食欲もなくぼんやりしていると、智也が呆れた顔で声をかけてきた。


「なんだ」


「なんだ、じゃねえよ。お前ここ数日マジで幽霊みたいだぞ。ちゃんと寝てるのか?」


「寝てる」


「嘘つけ。顔色、最悪だ。……春日さんと、なんかあったのか?」  


 智也の目が、ゴシップを期待して光る。こいつは全てを知っている。


「別に。何も」


「嘘だな。あからさまにギクシャクしてるじゃねえか、お前ら。今日の講義も隣に座ってたのに一言も喋らなかったろ」


「……」


「ついに、バレたのか? お前がKanataだって」


「いや、それはない。……はずだ」  


 俺は先週末のスタジオでの出来事を智也に掻い摘んで話した。『Anima』のファイル名を見られたかもしれないこと、そして俺が彼女の正体を知っていたと告げたことを。


「はぁー!?」


 智也は盛大にため息をついた。


「お前、何やってんだよ! 核心(Kanata)は隠したまま中途半端に秘密(凛音の件)だけ明かすとか、一番厄介な状況じゃねえか!」


「うるさい。仕方なかったんだ」


「仕方ないって……。で?春日さんはどうだったんだよ。お前が最初から知ってたって聞いて」


「別に。……驚いてはいたが」  


 俺はあの時の彼女の涙と、「師匠を信じます」と言った言葉を思い出す。


「納得は、したみたいだ」


「納得ねぇ…」


智也は疑わしげに俺を見た。


「女心は複雑だぞ、彼方。お前が思ってるより根に持ってるかもしれねえ」


「……(面倒くさい)」


「まあ、いいや」


 智也は話題を変えた。


「それより、例の『Anima』、どうなったんだよ。柊さんからはOK出たのか?」


「ああ。一昨日正式にGOが出た。ミックスも完璧だ」


「マジか! で、リリースは!?」


「……来週の、金曜日」


「うおっ! 早っ!」


「ああ。柊さんの、いや、上の連中の『アンチを黙らせろ』っていう強い意志(プレッシャー)らしい」


「なるほどねぇ…」


 智也は腕を組んだ。


「で? 肝心の、歌姫(春日さん)は大丈夫なのか? いきなりあんな難曲リリースされて」


「分からん」


 俺は正直に答えた。


「だが、やるしかない」


 その時だった。


「師匠!」  


 噂をすれば、だ。春日さんが、息を切らしてカフェテリアに駆け込んできた。手には、大学の教科書を持っている。


「これ! 師匠のですよね! 昨日の図書館でのレッスンの後、机に置き忘れてましたよ!」


「……ああ。悪いな、助かる」  


 俺は平静を装って教科書を受け取った。


「い、いえ! それで、師匠! あの……!」  


 春日さんは、何かを言いかけて俺と智也の顔を交互に見てそして、言葉を飲み込んだ。


「……ううん。なんでもないです! また、後で!」  


 彼女はそう言って、足早に去っていった。


「……なんだよ、今の」


 智也が怪訝な顔で呟く。


「さあな」  


 だが、俺には分かっていた。彼女が言いかけたのは、おそらく「作曲の宿題」のことだろう。そして、智也(第三者)の前では、それを言い出せなかったのだ。俺たちの関係は、もう以前のような「何も知らない師弟(仮)」ではいられない。互いに、相手の「裏側」を知ってしまったからこその、新しい「距離感」が生まれ始めていた。


       ◇


 その日の深夜。俺はスタジオで、『Anima』のリリースに向けた最終確認作業…マスタリングエンジニアとのオンラインでのやり取りを進めていた。  


(…よし。これで音圧も完璧だ。後は世に出るのを待つだけ)


 ピコン。


 PC(大学用)にメールの受信通知。送信元は、『春日美咲』。  


 件名:『Ver.3 です! これが今の私の「魂」です!』


(来たか)  


 俺は少しだけ緊張しながらメールを開き添付ファイル(Kasuga_DEMO_Ver03.logicx)をダウンロードした。Logic体験版でプロジェクトを開く。


 画面に表示されたの、Ver.2とはまたしても別次元に進化した複雑なシーケンスデータだった。俺が昨日教えたわけでもない新しいコード(減七の和音)。独学で身につけた(であろう)、さらに洗練されたリズムパターンと楽器の打ち込み。そして、何よりもAマイナーから先の彼女自身の「オリジナル」部分がさらに大胆に長く展開されている。


 再生ボタンを押す。  


――ポロロロロン…♪…キラリーン…☆


(!)


 彼女は、俺(Kanata)の『Anima』の響きに明らかに影響を受けている。俺が使ったCmMaj7や、Daugの響きを自分なりに解釈し自分の曲(Cマイナー)の中に取り込もうとしている。だが、それは模倣(コピー)ではない。俺(過去)の黒歴史と、俺(Kanata)の最新作と、そして、彼女自身の「魂(叫び)」が奇妙に、そして美しく融合(ブレンド)された全く新しい「音(答え)」がそこにあった。


 曲の終盤。彼女が新たに付け加えたアウトロ(結び)の部分。そこには俺が今まで聴いたことのない、それでいて心の一番深い場所に響くような美しいピアノの旋律が奏でられていた。


(……なんだ、これは。このメロディは俺(かれ)の知らない春日美咲(かのじょ)の「本当の顔(心)」……?)


 俺は完全に打ちのめされていた。才能への嫉妬?違う。畏敬?それも少し違う。これはもっと純粋な、「感動」だ。


 俺は無意識に返信メールを打ち始めていた。  


 件名:『聴いた』  


 本文: 『春日さん。Ver.3、聴いた……参ったよ。……完敗だ。お前の「魂」ちゃんと受け取った。これはもう「宿題」じゃない。お前の「オリジナル」だ』


 送信ボタンを、押す。  


(……ああ。言ってしまった……俺はついに彼女を対等な「クリエイター」として認めてしまった)


 すぐに、返信が来た。  


 件名:『Re: 聴いた』  


 本文: 『……ありがとうございます、師匠。でもまだ全然足りません。師匠(あなた)の「魂」にはまだ追いつけません。もっと教えてください』


 俺は笑うしかなかった。俺たちの奇妙な「師弟関係」はまだ始まったばかりらしい。  


(ああ、クソ。面倒くさい。……だが最高に、……面白い)


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