第35話 天才作曲家は(ついに)隣人(ひみつ)の仮面(ペルソナ)を剥がす時を迎える

本日2話投稿です。こちらは2話目です。

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  週末。俺は完全にスタジオ(本物)に引きこもり、『Anima』の最終的なオケ(伴奏)データの仕上げ(ミックスダウン)に没頭していた。柊さんとの約束、そして自分自身への挑戦。先日のレコーディングで春日さんが見せた魂の歌唱。あれを完璧な形で世に出すために、一音たりとも妥協は許されない。


(完璧だ。これ以上ないオケだ)


 だが、同時にプレッシャーも感じる。レコーディングでの彼女の歌唱は奇跡的だった。だが、あれをライブ(生)でも再現できるのか?最小限のエディットで、本当に世に出せるレベルに仕上がるのか?俺のミックス技術が試される。あれだけのプレッシャーの中で、奇跡を起こした彼女は今どうしているだろうか。


 コンコンコン!


 不意に左の壁(502号室)が今までになく激しく叩かれた。


(春日さんか?何かあったのか?)  


 俺はヘッドホンを外し、壁に耳を澄ます。


「師匠!師匠!大変です!開けてください!」  


 壁越しに聞こえる声は、明らかにパニックを起こしていた。いつものドジとは違う、本気の焦りが伝わってくる。


 俺は急いでスタジオを出て玄関のドアを開けた。


 そこにはジャージ姿のまま髪を振り乱し目に涙を浮かべた春日さんが立っていた。

手にはノートPCを抱えている。


「どうした、春日さん。落ち着け」


「落ち着いてられません! 大変なんです!データが!私が徹夜で作った『続き』のデータが!」


「データがどうしたんだ」


「なんか変な音になっちゃって!ぐちゃぐちゃで!昨日までちゃんと鳴ってたのに!」  


 彼女は半泣きになりながら、抱えたノートPCを俺に突きつけてきた。


「見てもらえませんか!?お願いします!私、これ、ちゃんと師匠に聴いてもらいたくて……!」


「分かった。入れ」  


 俺は彼女をリビングに招き入れた。ローテーブルにノートPCを置かせ、状況を確認する。  


 画面にはLogic体験版。彼女が作っていた『黒歴史(Cマイナー)』の続きのプロジェクトファイルが開かれている。


「再生してみろ」


「は、はい!」  


 彼女が再生ボタンを押す。  


 ――ピロロ……ガチャガチャ!…ブツッ!…ザー……  


(なんだ、これ)  


 ピアノの音に混じって明らかに異常なノイズ、音割れ、そして途中で再生が止まる。これは単なる打ち込みミスじゃない。


「いつからこうなった?」


「今朝からです!昨日までは普通だったのに、今日起きて開いたらこんな風に……!

私、何か変なボタン、押しちゃったんでしょうか……?」  


 俺はプロジェクトの設定や、個々のトラックのパラメータを素早くチェックしていく。  


(設定はおかしくない)  


(プラグインも標準のものしか使ってない)  


(となると……)


 俺は、PC本体のスペック表示を確認した。  


(……やっぱりか)  


 CPU、メモリ、ストレージ。すべてが最低限レベル。彼女が作っていたデモVer.2はトラック数も増えエフェクトも多少使い始めていた。このPCスペックでは、もう限界だったんだ。処理が追いつかずプロジェクトファイルが破損しかけている。


「春日さん。これはお前のせいじゃない」


「え?」


「PCのスペック不足だ。この曲(データ)はもう、このPCには重すぎる」


「そ、そんな……!じゃあもうこの曲は……?」  


 彼女の目に再び涙が浮かぶ。せっかく掴みかけた「答え」が、目の前で壊れていく。その絶望感は、俺にも痛いほど分かった。


(どうする)  


(俺のスタジオ(本物)に持って行けばデータは救えるかもしれない。だが、それは……)  


 それは、俺の秘密を完全に明かすことになる。


 俺が逡巡していると、春日さんは何かを決意したように顔を上げた。


「師匠」


「なんだ」


「……お願いがあります」


「……?」


「……私の本当の『仕事』のPCなら、……もっとスペックが高いんです」


「(! 『仕事』のPC……?『白亜凛音』用の、か!)」


「だから、そっちでこのデータ、……直してもらえませんか?」


(馬鹿か、お前は)  


(俺(彼方)が、お前(凛音)の『仕事』のPCに、触れるわけには……)  


 俺が断ろうとした、その時。春日さんはさらに衝撃的な言葉を続けた。


「……私、……本当は……」  


 彼女は深く息を吸い込み、そして俺の目をまっすぐ見て言った。


「私、……『白亜凛音』なんです」


「…………」  


 時が止まった。彼女は、今、……言った。俺がずっと知らないフリを続けてきたその名前を。


 俺はどう反応すべきか分からなかった。驚くフリ?いや、それはもう無理だ。彼女の目は本気だ。嘘や冗談じゃない。彼女は自分の「秘密」を俺(天音彼方)に託(たく)そうとしている。この壊れかけた「曲(データ)」を救うために。


 俺はゆっくりと口を開いた。驚きも、動揺も、できるだけ表に出さないように。


「……ああ」  


 俺はただそれだけ言った。


「知ってたよ」


「え……?」


 今度は春日さんが固まる番だった。彼女の顔から血の気が引いていくのが分かった。


「し、知ってた……? い、いつから……?」


「最初から」


「さ、最初って……!? 私が、引っ越してきた、あの……!?」


「ああ。壁越しにな」


「…………」  


 春日さんは言葉を失いその場にへたり込んだ。  


(だろうな。自分の最大の秘密が最初から隣人にバレていたなんて)


「な、なんで……! なんで言ってくれなかったんですか……!?」  


 彼女の目に涙が溢れ出す。それは安堵か怒りか、それとも。


「言う必要、ないだろ」


「え……?」


「……お前が、『春日美咲』だろうと、『白亜凛音』だろうと俺にとってはただの『うるさい隣人』で、……『手のかかる弟子(仮)』だ。……それだけだ」


「師匠……」


「立て。……行くぞ」


「え? ど、どこに……?」


「お前の、『仕事場(502号室)』だろ」  


 俺は、春日さんに手を差し伸べた。


「その、壊れかけた『魂(データ)』俺(かれ)が救ってやる」


 春日さんは俺の手を涙で濡れた目で見つめ、そしてゆっくりとその手を掴んだ。  俺たちの「秘密」の形が今、変わろうとしていた。  


(ただし、……俺(かれ)の、秘密(Kanata)はまだ隠したままだが)


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