2章 天才作曲家と共犯者の旋律 ―不協和音の夜明け―

第33話 天才作曲家は(過去からの)訪問者(ヴィジター)と(新たなる)疑念(シャドウ)に遭遇する

「……少し、『音楽』の話を聞かせてもらえないかな?」


 水曜日、午後一時過ぎ。レコーディングが無事(?)完了した直後の脱力感の中、俺は玄関のドアチェーン越しに見知らぬスーツ姿の中年男と対峙していた。男の目は鋭く、値踏みするように俺を見ている。その視線は俺が時折感じる業界特有のそれ……才能を探し、利用しようとする者の目に似ていた。


(誰だ、こいつは)


 柊さん経由の客なら事前に連絡があるはずだ。大学の関係者でもない。ましてやただのセールスにしては纏う空気が尋常ではない。


「どちら様ですか。アポなしの訪問はお断りしています」  


 俺は努めて冷静に低い声で返した。ドアチェーンはかけたまま、いつでも閉められるようにドアノブに手を添える。


「失礼。突然すまないね」


 男は少しも悪びれずに言った。


「私は、橘(たちばな)と名乗っておこうか。……君の『音』に少し興味があってね」


「俺の、音?」


「ああ。君……天音彼方くんの、ね」


(橘? 知らない名前だ。なぜ俺の名前を?しかも『天音彼方』として?)


 『Kanata』ではなく、『天音彼方』を知っている。それだけで尋常ではない相手だと分かる。大学関係者かあるいはもっと深く俺の個人情報を掴んでいるのか。


「何の御用でしょうか。俺はただの学生ですが」


「謙遜するなよ」


 橘と名乗る男は薄く笑った。


「君がただの学生でないことは『聴けば』分かるさ」


(聴いた? 俺の音を? いつ、どこで)  


 大学の課題か?それとも俺が『彼方』として春日さんに渡したあの『黒歴史』のデータか? まさか。


「……何の事か分かりません。お引き取りください」  


 俺はドアを閉めようとした。だが男はそれを予期していたかのように言葉を続けた。


「……君の隣人、春日美咲さん。彼女が最近アップした『アストロラーベ』のピアノアレンジ。あれは、君が弾いたんだろう?」


(!)  


 俺の動きが止まった。背筋に冷たい汗が流れる。  


(なぜ、それを)  


 あの動画のクレジットにはアレンジャーの名前など載せていないはずだ。春日さんが誰かに話した? いや彼女がそんな不用意なことをするとは思えない。


「……驚いた顔だね」


 橘は面白そうに目を細めた。


「簡単なことさ。あのレベルのアレンジと演奏ができる学生(アマチュア)は、そうはいない。特に原曲(Kanata)の意図をあれほど正確に汲み取り、かつ歌い手(白亜凛音)の声に合わせて最適化する技術。……プロの仕事だよ」


(こいつ、何者だ)  


 ただの音楽好きではない。業界の人間、それも相当な「耳」を持っている。


「君が彼女の『師匠』と呼ばれていることも少し調べさせてもらったよ」  


(大学の掲示板か!)  


 あの高木が広めたゴシップが、こんな形で外部の人間にまで。


「だから、何だと言うんですか」


「いや、素晴らしいと思ってね」


 橘は続けた。


「ダイヤの原石(白亜凛音)を見出し、その才能を開花させる手助けをする。まるで若い日の『誰かさん』を見ているようだ」  


(誰かさん?)


「君も昔そういう経験があったんじゃないか? 自分の才能を持て余し、周囲に理解されずそれでも音楽だけは捨てられなかった」


(!)  


 俺は息を呑んだ。  


(こいつ、……俺の『過去』を知っている?)  


 俺が『Kanata』になる前の、あのトラウマを。


「……何の、話ですか」


「とぼけなくてもいい」


 橘の声のトーンがわずかに鋭くなった。


「君が数年前にとある音楽コンクールで物議を醸した、あの『天才少年』だってことは分かっているんだよ」


(……最悪だ)


 忘れかけていた、……いや、心の奥底に封印していた「過去」の亡霊が今、目の前に現れた。高校時代。俺がまだ『天音彼方』として、剥き出しの才能(エゴ)で曲を書いていた頃。ある大きなコンクールで、俺の曲は審査員の間で賛否両論を巻き起こした。「革新的すぎる」「音楽への冒涜だ」と。結果、俺は落選しその一件がきっかけで俺は人間(音楽)不信に陥り、『Kanata』という仮面を被ることになった。そのことをこいつは知っている。


「……あなた、……いったい、誰なんですか」  


 俺は、もはや警戒心を隠さなかった。


「言っただろう。橘だ」


 男はそれ以上、身分を明かそうとはしなかった。


「少し立ち話もなんだ。……中に入れてもらえないかな?」


「断る」


「そう言うなよ。……君にとっても、悪い話じゃないはずだ」  


男は懐から一枚の名刺を取り出し、ドアの隙間に差し込んできた。


『橘 龍生(たちばな りゅうせい)』  『Phoenix Records 代表取締役』


(Phoenix Records……!)  


 業界最大手の、レコード会社の一つだ。俺が所属するレーベルとは、ライバル関係にある。その、代表取締役(トップ)が、なぜ、俺(天音彼方)の、マンションに?


「……何の、用件ですか」


「単刀直入に言おう」


 橘は言った。


「君の才能が欲しい」


「……俺は、今のレーベルと契約していますが」


「知っている。君が『Kanata』として、匿名で活動していることもね」  


(やはり、そこまで掴んでいたか)


「だが、君は『Kanata』の仮面に、窮屈さを感じているのではないか?」


「……」


「君の『魂』は、もっと自由を求めている。……違うかね?」  


 橘は俺が昨夜書き上げた『Anima』のことを知っているかのような口ぶりだった。


「Phoenix Recordsに来ないか、天音彼方くん」


「……は?」


「『Kanata』としてではない。『天音彼方』として、だ。我々が君の才能を、君自身の名前で世に問う手伝いをしよう」


「……顔を出せ、と?」


「そうだ。君ほどの才能が、匿名の仮面に隠れているのはあまりにも惜しい。我々なら君を……かつてのトラウマから解放し、本当の意味での『スター』にできる」


(スター……)  


 俺が最も嫌悪し避けてきた言葉だ。


「……興味ありません」


 俺は即答した。


「俺は、『Kanata』でいい」


「そうかね?」


 橘は少しも動じなかった。


「君の隣人はどうかな?」


「……春日さんが、どうかしたんですか」


「彼女……白亜凛音は、間違いなくスターになる。君(Kanata)の力でね。だが、君自身はどうだ? いつまでも彼女の『影』のままで満足できるのか?」


(影……)  


 その言葉が俺の胸に重く突き刺さった。


「君の才能は一人の歌姫(ディーヴァ)をプロデュースするだけで収まる器ではないはずだ」


「……」


「もう一度、考えてみてくれたまえ」


 橘は言った。


「我々は、いつでも君を歓迎する。連絡先は名刺に書いてある」  


 男はそれだけ言うとあっさりと背を向け、エレベーターホールへと歩き去っていった。


 俺はドアチェーンをかけたまま、その場に立ち尽くしていた。手には橘龍生の名刺が残されている。  


(……Phoenix Records……『天音彼方』としての、デビュー……)


(馬鹿な)  


 俺はそんなこと望んでいない。俺はただ静かに音楽を作りたいだけだ。『Kanata』の仮面は、そのための、盾だ。


 だが。橘の言葉が、脳裏から離れない。


『君は、Kanataの仮面に窮屈さを感じているのではないか?』  


『いつまでも、彼女の影のままで満足できるのか?』


(俺は、……どうしたいんだ?)


 ガチャン。エレベーターが、一階に到着する音がした。春日さんが、帰ってきたのだろう。レコーディングスタジオから。おそらく、霧島さんたちと軽い打ち上げでもしてきたのかもしれない。足音が近づいてくる。


 俺は慌ててドアを閉め鍵をかけた。  


(まずい。今の俺の顔はあいつに、見せられない)


 隣の502号室のドアが開く音。閉まる音。そして壁越しに微かに、だが確かに聞こえてきた。春日さんの鼻歌。


 それは、『Luminous』でも、『アストロラーベ』でもなかった


 俺(Kanata)が完成させたばかりの、『Anima』のメロディだった


(あいつ……もう歌い始めてる……俺の「魂(答え)」を)


 俺はスタジオに戻り壁に背中を預けた。 橘からの誘い。春日さんの圧倒的な才能。そして、俺自身のまだ見えない「未来」。


 俺の心はかつてないほど激しく、揺れ動いていた。



—――――――――――――――――――――――――—――――――――


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