第30話 天才作曲家は(加速する)才能(デモン)と(迫り来る)決戦(ライブ)に備え始める
土曜日、夜。俺はスタジオ(本物)の椅子に座り、目の前のPC(大学用・偽装済み)の画面を凝視していた。メールソフトにはついさっき春日さんから届いたばかりの添付ファイル。『Kasuga_DEMO_Ver02.logicx』。マウスカーソルがファイルを開くアイコンの上で震えている。
(聴くのか。本当に)
昨日の午後、俺が投げつけたかなり高度なダメ出しの数々。ベロシティ、クオンタイズ、ボイシング、グルーヴ。普通の音大生でも一晩で修正できるレベルじゃない。ましてやDAWソフトに触れてまだ数日の初心者が。きっと中途半端な修正か、あるいは何もできずに「やっぱり無理でした」という内容だろう。そう高を括っていた。だが、さっき玄関先で会った彼女の、あの自信に満ちた目は何だ?
俺は意を決してファイルを開いた。Logic体験版が起動する。画面に表示されたのは昨日見たデモ(Ver.1)とは明らかに違う洗練されたプロジェクトデータだった。 ストリングスやドラムのノート(音符)が、細かく調整されている。ピアノのアルペジオには、微妙な揺らぎが加えられている。
(まさか)
ヘッドホン(本物)を装着し、再生ボタンを押す。
――ポロロロロン…♪…キラリーン…☆
俺(過去)のメロディ。彼女(春日さん)が見つけた光(オルゴール)。
そして8小節目の終わりからの展開。E7 → Am への転調。昨日も聴いたフレーズだ。だが、その響きが、昨日とは全く違う。
(!)
ストリングスのベロシティ(強弱)。ただ強弱をつけるだけでなく、アタック(立ち上がり)を遅らせリリース(余韻)を長く取ることでまるで本物のオーケストラのような滑らかなクレッシェンド(だんだん強く)が表現されている。
(嘘だろ。どうやってこれを一晩で?)
ドラムのリズム。昨日指摘したハイハットのズレは完璧に修正され、さらにスネアドラムのタイミングがほんのわずかにジャストより「後ろ」にズラされている(レイドバック)。それによって機械的な正確さではなく人間的な「グルーヴ(ノリ)」が生まれている。
(『グルーヴを意識しろ』と言ったのは俺だがまさか『レイドバック』まで辿り着くとは!)
そして転調部分のボイシング(和音構成)。昨日までぶつかっていた音が整理され低音から高音まで滑らかで美しい響きが流れていく。まるで俺(Kanata)が手を入れたかのような洗練されたコードワーク。
(ありえない。これは高度な和声学の知識がなければ……!)
彼女が昨日「魂」と呼んだAマイナー部分のオリジナルメロディ。それが修正された伴奏に乗ることでさらに輝きを増している。切なくて、暖かくて、そして、どこまでも強い。
曲が終わる。俺はヘッドホンを外し呆然としていた。
(なんだ、これは。Ver.1からVer.2への進化の幅が異常だ。まるで、……プロの仕事じゃないか)
俺は、USBメモリに入っていたVer.1のデータをもう一度聴き直した。……やはり違う。Ver.1はアイデアこそ光っていたが技術的には稚拙(ちせつ)だった。だが、
今聴いたVer.2はその稚拙さが完全に消え去っている。
(まさか)
俺の中に、一つの疑念が生まれた。
(こいつ、……誰かに手伝ってもらったのか?)
(大学の他の作曲科のヤツとかあるいは、……まさか、『本物の』プロに?)
いや、それはない。彼女が頼れるのは隣人の『師匠(俺)』だけのはずだ。だとすればこれは本当に彼女一人の力で?たった一晩で?
(……化け物(モンスター)だ)
俺は、改めて隣に住む「弟子(仮)」の、底知れない才能に戦慄した。同時に新たな、そしてより厄介な「課題」が見えてきた。
(こいつはもう、『打ち込み(データ作成)』の段階は卒業した。次に、教えるべきは『作曲(アイデア)』そのものとそして、……『歌(ボーカル)』だ)
俺(Kanata)が柊さんに宣言したこと。
『彼女は歌えます。俺が歌わせてみせます』
そのための「レッスン」を俺(彼方)としてどうやって行う?しかも、レコーディング(水曜日)まであと三日しかない。
俺はスマホ(彼方用)を取り出し智也に電話をかけた。
◇
日曜日、昼下がり。大学近くのカフェ。
「……というわけだ」
俺は智也に春日さんのデモVer.2の衝撃と柊さんからの無理難題(レコーディング日程)を掻い摘んで説明した。
「はぁー」
智也は、アイスコーヒーのストローを噛みながら、深いため息をついた。
「お前、本当にとんでもない爆弾抱えちまったな」
「他人事みたいに言うな。お前も共犯者だろ」
「違いない。で?どうするんだよ。あと三日で春日さんを『Anima』歌えるレベルに仕上げるんだろ?しかも、お前(彼方)として」
「……ああ」
「無理だろ、普通に考えて」
「……分かってる」
「『Anima』、聴かせてもらったぞ。お前(Kanata)から柊さんに送ったやつ、こっそり転送してもらった」
「(おい)」
「あれは、ヤバい。お前の最高傑作だ。だが、同時に最低最悪の『ボーカル殺し』の曲だ。音域も、リズムも、感情の起伏も、『アストロラーベ』以上じゃないか?」
「かもしれない」
「それを今の春日さんに歌えと?」
「歌わせる」
俺は断言した。
「昨日のあいつのデモ(Ver.2)を聴いて確信した。あいつなら『道』さえ示せば必ず辿り着く」
「……お前、いつの間にそんな『師匠』みたいな目するようになったんだよ」
智也が面白そうに俺の顔を覗き込む。
「うるさい。それより問題は『どうやって』だ」
「だよな。『Kanata』としてならスタジオ借りて直接指導すりゃいい話だが」
「『彼方』だからな」
俺たちの間に、沈黙が流れる。
「なあ、彼方」
しばらくして智也が口を開いた。
「もう、……バレてもいいんじゃないか?」
「は?」
「いや、だからさ。お前が『Kanata』だって春日さんに明かしちまえば全部解決するだろ。レッスンも堂々とできる。アンチの件も、……もしかしたら二人で乗り越えられるかもしれない」
「……」
「お前だって本当は気づいてんだろ?春日さんただの『隣人』や『弟子(仮)』じゃない。お前にとって特別な存在になり始めてるってことに」
智也の真剣な眼差し。俺は目を逸らした。
(……特別な、存在?……あいつ(春日さん)が?……面倒くさい騒音源で手のかかる弟子(モンスター)で、俺の秘密を脅かす爆弾で……それだけのはずだ)
「……無理だ」
俺は絞り出すように言った。
「俺は、『Kanata』だ。『天音彼方』じゃない」
「……彼方」
「俺の『魂(過去)』を知ったらあいつもアンチ(あいつら)と同じように俺から離れていく」
「そんなこと……!」
「とにかく秘密は守る」
俺は智也の言葉を遮った。
「その上であいつを育てる。方法は考える」
「そうか」
智也は、それ以上何も言わなかった。ただ心配そうに俺を見ていた。
◇
日曜日の夜。俺は自室(スタジオ)に戻り一つの「計画」を立てていた。レコーディング(水曜日)まで、あと三日。月曜、火曜。使える時間は二日間しかない。俺(彼方)として、春日さんに直接指導できる時間は大学の放課後、数時間程度。それだけでは足りない。
(やるしかないか)
俺はPC(Kanata用)に向かい、DAWソフトを起動した。『Anima』のプロジェクトファイルを開く。そして、ボーカルパートを抜き出しそれを徹底的に「分解」し始めた。
音程(ピッチ)の動き。リズムのキメ。ブレス(息継ぎ)の位置。発声のニュアンス(ウィスパー、ファルセット、シャウト)。俺(Kanata)がこの曲に込めた「要求(すべて)」をパートごとに数小節単位で細かく切り分けていく。
そして、それぞれの「パーツ」に対して俺自身の声(ボイチェン・Kanataボイス)で「模範テイク」と「練習用ガイドメロディ」を録音していく。
(『Kanata』からの極秘の「練習メニュー」だ)
さらに、それぞれの「練習メニュー」に対して「なぜ、ここで、この音程なのか」
「なぜ、このリズムで、歌うべきなのか」という「理論的な解説」をテキストファイルで作成していく。
(これは『彼方師匠』からの「補足レッスン資料」だ)
徹夜で作業を進めた。月曜日の朝。俺は二つの「教材」を完成させた。一つは、『Kanata』名義で、柊さん・霧島さん経由で、今日中に『白亜凛音』に届けられる、「公式練習データ」。もう一つ『天音彼方』名義で今から俺が直接隣の部屋の春日さんに手渡す「非公式補足資料(USBメモリ)」
(これでどうだ。俺は『Kanata』としても、『彼方』としても二重(ダブル)であいつを追い込む(育てる)……ついてこれるか? 春日さん)
俺は二つのデータが入ったUSBメモリを握りしめ隣の部屋(502号室)のドアをノックした。俺たちの最後の「共同作業(レッスン)」が……始まる。
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