第8話 天才作曲家は(ボイチェン越しに)本気の指導(ディレクション)をする
金曜日、午前十時。俺の城――501号室の防音スタジオは今、作戦司令室と化していた。
モニターAには、完璧に整えられたデビュー曲『Luminous(ルミナス)』のマスタープロジェクト。モニターBには、都内某所のレコーディングスタジオと接続されたVC(ボイスチャット)ソフトの待機画面。そして、俺の声を冷徹で威厳のある「天才作曲家」のものへと変える、ボイスチェンジャー。ヘッドホンを装着し、マイクのゲインを最終チェックする。
「あー、あー。テス、テス。……これでよし」
ボイチェン越しの自分の声は何度聞いても他人事のようだ。これなら壁一枚(どころか、今は数十キロ)向こうの春日美咲に、俺が『天音彼方』だとバレることはまずない。
デスクの隅に、今朝春日さんから押し付けられた「音楽上達」のお守りがやけに場違いな存在感を放っている。
(神様に頼る前に、まず俺(Kanata)の言うことを聞けよな)
俺は昨夜の壁越しに聞こえた『Luminous』のあの絶望的な練習風景を思い出し、早くも胃が痛くなってきた。
ピコン。VCソフトのチャット欄が光る。霧島玲奈さんからだ。
『Kanata先生! スタジオ側、準備万端です! 凛音ちゃんもブースに入られました!』
『ご本人、ガッチガチに緊張しておりますが(笑) よろしくお願いします!』
俺は深く息を吸いマイクのミュートを解除した。
「こちら(Kanata)、問題ない。始めよう」
VCが接続される。ヘッドホンからスタジオのプロ用のマイクが拾った、クリアな「サー」というホワイトノイズが聞こえてくる。
『か、Kanata先生! 本日は、よろしくお願いいたします!』
霧島さんのいつも通りのハイテンションな声。
『さあ、凛音ちゃん!ご挨拶!』
『こ、こんりおーん……! は、白亜、凛音です……!』
(出た。第三人格、『清楚なお嬢様(ガチガチ緊張Ver.)』)
ヘッドホン越しに聞こえるその声はあまりにも硬く上ずっている。
「……ああ。Kanataだ。よろしく」
俺はボイチェン越しの低い声で短く応じた。
「デモは聴いているな。今日はまず君の『声』を録らせてもらう。細かいピッチやリズムは後でこちらでどうとでもなる」
(……と、言いたいところだが、お前のズレは「どうとでもなる」レベルを超えているんだ、春日さん)
『は、はいっ! せ、精一杯、歌わせていただきます!』
「ああ。では、Aメロから一度通してみよう」
俺がスタジオのエンジニア(姿は見えないが、VCには同席している)に合図を送る。ヘッドホンから俺が作った『Luminous』の、繊細なピアノのイントロが流れ出した。
そして。凛音(春日さん)が歌い出す。
『♪――(Aメロ)』
…………。
俺は思わずデスクの下で拳を握りしめた。
(……低い)
(低い、低い、低い……!)
昨夜、壁越しに聴いていた時よりもさらに五セントほど低い。緊張で喉が締まっているんだ。声の「響き」も、あのシルクのような倍音が完全に死んでいる。
俺の完璧な絶対音感が、鼓膜に突き刺さる「ズレ」に対して猛烈な拒否反応を示していた。
『♪――(Aメロ、後半)』
(あ、今、Bメロのコードに合わせようとして、音程が、迷子になったぞ)
「ストップ」
俺は演奏を止めた。ヘッドホンの向こうで春日さんが「ビクッ」と息を呑む気配がした。
『ひゃっ!? す、すみません!』
(今、素が出たな。『ひゃっ』は、春日美咲だ)
『ど、どうでしたでしょうか……?』
恐る恐る、という感じで凛音(お嬢様Ver.)が尋ねてくる。
「……白亜凛音くん」
『は、はいっ!』
「君は今何を聴いて歌っていた?」
『え? あ、えっと……メロディ、です』
「……そうだろうな」
俺はため息を(ボイチェン越しに、深く)ついた。
「君が歌うべきはメロディ(単音)じゃない。後ろで鳴っている和音(コード)だ」
『わ、和音……ですか?』
(来たぞ、この会話。俺は、一週間前『天音彼方』として、大学の講義室でこいつに、全く同じことを言ったはずだ)
「そうだ。君は自分の声が伴奏の和音と、どう響き合っているかを全く『聴いて』いない」
『……っ!』
ヘッドホンの向こうで、凛音(春日さん)が息を呑んだのが分かった。
(……さすがに、気づいたか?この前、隣人に言われたことと全く同じだと)
『あ、あの……!それ、私も最近すごく大事だなって思って……!』
「なら、実行しろ」
俺は冷たく(あくまでKanataとして)言い放った。
『ちょ、ちょっと、凛音ちゃん!緊張しすぎ!ほら、深呼吸!』
霧島さんの慌てたフォローが飛んでくる。
「霧島さん」
『は、はい!』
「申し訳ないがディレクション中はブース(春日さん)との会話は、俺(Kanata)だけにさせてもらえないか。……集中したい」
『あ、も、申し訳ありません!承知しました!』
(これで、邪魔者はいなくなった)
俺と春日さん。作曲家と歌い手。一対一(サシ)だ。
「もう一度、Aメロからだ」
『は、はい!』
テイク2。
『♪――』
(……ダメだ。意識しすぎて、今度は全部シャープ(高く)してる)
「ストップ。高い」
『すみません!』
テイク3。
『♪――』
(……リズムが、走ってる。速い)
「ストップ。走るな。メトロノーム(リズム)を聴け」
『は、はい!』
テイク4。テイク5。テイク10。
「違う」
「聴け」
「……ストップ」
Aメロだけで、すでに一時間が経過していた。俺の胃は、もうキリキリという音を通り越して灼熱のマグマを抱えているかのようだった。
(こいつ、なんで本番でこんなにダメなんだ!?)
(壁越しに練習してた時の方がまだマシだったぞ!)
いや、分かっている。『Kanata』本人に聴かれているというプレッシャーだ。プレッシャーで、あいつは、俺(彼方)が大学で教えたことや、俺(Kanata)がVCで言ったこと、そのすべてが頭からスッポ抜けているんだ。
『あの、先生』
霧島さんがおそるおそるといった感じで、VCに割り込んできた。
『そろそろ、一度、休憩を……。凛音ちゃんもかなり疲労が……』
「ああ。そうだな」
俺も頭を冷やす必要があった。
「十分休憩。その間に頭を冷やせ白亜凛音」
『……はい。すみません……』
凛音(春日さん)の声は、もう泣き出す寸前だった。
VCが一時的にミュートになる。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
俺はヘッドホンをデスクに叩きつけボイチェンを切った。
「(ダメだ!ラチがあかん!)」
俺が求めているのは、あの『魔改造アストロラーベ』で聴かせたシンプルだが胸を打つあの「声」だ。だが、今、春日さんが出しているのは、緊張とプレッシャーに潰された「音程の合わない雑音」だ。
(どうする……このままじゃ日が暮れる。いや、日が暮れても終わらない)
俺はデスクの隅に置かれた「音楽上達」のお守りを睨みつけた。
(神様とやら。いるならメロディじゃなくてあいつに「音感」を降らせてやってくれ……!)
……いや。違う。神様じゃない。あいつが今、信じているのは、神様でも俺(Kanata)でもない。あいつが今、頼りにしているのは……。
(……『師匠(仮)』の、俺(天音彼方)か?)
俺は無意識に大学用のスマホ(Kanataの仕事用とは別)を手に取っていた。チャットアプリを開く。相手は、『春日美咲』。
(今、あいつは、スタジオの休憩室でスマホを見ているはずだ)
俺はメッセージを打ち込んだ。送信元は、『天音彼方』。
『今、大丈夫か?』
送信。……五秒。十秒。
ピコン。
『彼方くん!?どうしたの!?』
即レスだ。
『いや、今こっち(彼方)の仕事がちょっと煮詰まってて』
『お前(春日さん)は?「大事な用事」ってのうまくいってるのか?』
『……ううん。全然ダメ。私、今すっごく、落ち込んでる 。私、才能ないかも……。もうやめたい……』
(来た。本音だ)
(『Kanata』先生には言えない、弱音だ)
俺は息を吸い込み返信を打つ。これは、『Kanata』じゃない。『天音彼方』としての、アドバイスだ。
『馬鹿言え。お前に才能がないわけないだろ。お前の声は俺が(壁越しに)聴いて保証する』
『でも、全然上手く歌えないよ……!緊張して、頭が真っ白で……!』
『いいか、春日さん。緊張してる時は難しいこと考えるな。お前が一番得意なこと。一番好きなこと。それだけやれ』
『……得意なこと?』
『「声を、出す」ことだろ。音程とか、リズムとか、今は一旦全部捨てろ。お前のその「声」だけで殴りつけてやるくらいの気持ちで歌ってみろ。……多分、お前が今相手してる「クライアント」は、それを一番聴きたがってるはずだぞ』
(俺(Kanata)が、な)
『……!』
春日さんからの返信が、数秒、途絶えた。そして。
『うん。わかった。……ありがとう、彼方くん。私、もう一回頑張ってみる!』
「よし」
俺は大学用のスマホを置き、再びボイチェンとヘッドホンを装着した。
ピコン。霧島さんからVCチャット。
『先生、休憩、終わりました! 凛音ちゃん、戻りました!』
俺はマイクをオンにする。
「ああ。白亜凛音くん」
『はい』
ヘッドホン越しの、凛音(春日さん)の声。まだ緊張はしている。だが、さっきまでの「泣きそうな声」とは違う。腹が据わっている。
「……次で、決める」
『はい!』
「サビから行くぞ。感情全部ぶつけろ。音程は……俺が後で直す」
『(……え?)』
(そうだ。俺は、何にこだわっていたんだ)
(音程がズレる? 当たり前だ、こいつはオンチなんだから。だが、俺は『Kanata』だ。今の時代、録音(データ)さえあれば、ピッチ(音程)修正ソフトで、コンマ一セント単位まで、完璧に修正できる。俺が、今録るべきは「完璧な音程」じゃない。こいつにしか出せない、「完璧な感情(声)」だ)
「いくぞ。ミュージック、スタート」
イントロが流れ曲がサビに到達する。俺はヘッドホンのボリュームを最大に上げた。
『♪――(サビ)』
(来た!)
音程は、ズレている。
(知ったことか!)
リズムは、走っている。
(後で、全部直す!)
だが声が。マイクが割れる寸前まで張り上げられた彼女の「本気」の、剥き出しの
「声」が。俺の鼓膜を、直接、殴りつけてきた。
これだ。俺が壁越しに聴いたあの「声」。俺が『Kanata』として惚れ込んだダイヤの原石。
『♪――(ラスサビ)』
彼女は歌いきった。息が切れている。VCの向こうで春日さんが肩で息をしているのが分かる。
スタジオ側は静まり返っていた。霧島さんも、エンジニアも、何も言わない。俺が、判断するのを待っている。
俺はデスクの上の「音楽上達」のお守りをそっと握った。
「ああ」
俺はボイチェン越しの声で告げた。
「最高だ。……今のテイクで、OKだ」
『……え?』
凛音(春日さん)の、間の抜けた声が聞こえた。
『で、でも、今、私、音程めちゃくちゃで……!』
「言ったはずだ」
俺は、『Kanata』として、笑みを(声には出さず)浮かべた。
「ピッチ(音程)はこちらでどうとでもなる。君は最高の『声』を録音(ここ)に置いていった」
「白亜凛音くん。君のデビュー曲、期待しておけ」
『……!……あ、ありがとう、ございます……!ありがとうございました……!』
凛音(春日さん)の、本気で泣いている声が聞こえた。
俺は霧島さんに「後の処理は任せる」と告げ、一方的にVCを切断した。
「…………ふぅぅぅぅぅぅ」
俺はヘッドホンを外しスタジオの椅子に深く、深く、沈み込んだ。疲れた。ここ数年で一番疲れた。一曲のレコーディングでスマホ(彼方)とVC(Kanata)を、同時に駆使した作曲家など俺くらいだろう。
だが。
(悪くない……いや、最悪の気分だが最高の気分だ)
俺は手に入れた「最高の素材(美咲の歌声データ)」を、どう「調理(ミックス・修正)」してやろうか、と、作曲家としての血が沸騰するのを感じていた。
(今日はもう寝る。明日からが本番だ)
俺はスタジオの電源を落とし、リビングのベッドに倒れ込んだ。
……数時間後。夕方。俺が疲労困憊の眠りからうっすらと覚醒しかけた、その時。
ガチャン!
(隣の玄関ドア)
パタパタパタ……!
(廊下を走る音)
ドンッ!
(自分の部屋のドアを閉める音)
(……ん。帰ってきたか、春日さん)
俺は布団の中で身じろぎした。
(まぁ、今日はお疲れさん。あいつも疲れただろ。静かに……)
ドンッ! ドンッ! ドンッ!(壁を叩く音)
「うおおおおおおおおおおっっっ!!!!」
(……っるさい!)
「やったー! やったー! やったぞー! 『最高だ』って! Kanata先生が! あのKanata先生が! 私の歌を『最高だ』ってー!あ、あと、彼方くんにも、お礼言わなきゃ! 彼方くんのおかげだ!あのメッセージ、神だった!うおおおおお! 私、二人の『天才』に、助けられちゃったー!」
「(その二人、同一人物なんだよ……!)」
俺は枕を力一杯壁に投げつけた。
俺の平穏な生活は、今日も完璧に戻ってこなかった。
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