第5話 天才作曲家は二重(ダブル)のアドバイスに(胃を)キリキリさせる
土曜、早朝五時。俺、天音彼方は自室のスタジオで死んでいた。いや、正確には二つの全く異なる音楽データに挟み撃ちにされ精神が瀕死だった。
右手側、モニターA。ここに表示されているのは今しがた完成したばかりの新人Vtuber『白亜凛音』のための本物のデビュー曲(デモバージョン)だ。柊さんから送られてきたボイスサンプル(『きらきら星(音程ズレVer.)』)を千回くらい聴き込み、彼女の「声の魅力」……あのシルクのような高音域の倍音……だけを最大限に引き出すために設計した壮大なバラード。転調や複雑なリズムは一切なし。だが、俺(Kanata)の持てる和声学(コードワーク)のすべてを注ぎ込み、シンプルながらも聴く者の感情を揺さぶる「神曲」に仕上げた(と、自分では思っている)。タイトルは、『Luminous(ルミナス)』。
左手側、モニターB。ここに表示されているのは大学の練習室で俺(天音彼方)が春日さんのために五分で書き殴ったあの『アストロラーベ(魔改造・初心者向けVer.)』のピアノ伴奏データだ。
(……なんだ、この落差は)
俺は二つのデータを交互に再生しながら頭を抱えていた。モニターAからは、俺の才能のすべてが詰まった繊細で美しいピアノの旋律が流れる。モニターBからは「ドミソ」「ソシレ」「ファラド」……大学一年の課題でももう少しまともなアレンジをするだろう、というレベルの単調なピアノ伴奏が流れる。
そして、この二つの曲は皮肉なことにどちらも同じ人物(春日美咲=白亜凛音)のために作られている。
「何の罰ゲームだ、これは」
俺はモニターBの「魔改造版アストロラーベ」のデータをMP3に書き出し、大学用のフリーメールアドレスから、春日さんのスマホに送信した。件名は『ピアノ伴奏』。本文は『これで練習しろ。原曲オケは聞くな』。……我ながら隣人の音大生(天音彼方)として、あまりにも愛想がなさすぎる。
送信ボタンを押した、まさにその瞬間だった。
シン……としていた左の壁(502号室)から物音が聞こえた。ゴソゴソ……。 どうやら、起きていたらしい。
ピコン。壁越しに、微かにスマホの通知音が聞こえた。
(……俺が今、送ったメールか)
数秒の沈黙。そして。
「(小声)……うわあああ! き、来た! 彼方くんからピアノ来た……!」
壁に耳を当てなくても聞こえる春日さんの歓喜(?)の声。
「(小声)……すごい! すごい! 昨日、練習室で弾いてくれたのと全く同じ! 当たり前だけど! うわー! 彼方くんやっぱり天才だよ……!」
(やめろ。その「天才」という言葉で、その「ダサい伴奏」を褒めるな)
(俺の本物の『天才』としてのプライドが今、粉々に砕け散っている……!)
俺はスタジオのデスクに突っ伏した。
すると壁の向こうから恐れていた「練習」が始まった。俺が送ったばかりの魔改造版アストロラーベの伴奏に合わせて春日さんが歌い出したのだ。
「♪――(Aメロ)」
……。
(……ん?)
俺は思わず顔を上げた。
「♪――(Bメロ)」
(合ってる)
(いや、まだ微妙にフラットしてる箇所はある。だが、あの地獄のような『原曲オケ練習』に比べたら格段に音程が合っている……!)
そうだ。理由は単純。原曲オケはドラムやベース、シンセサイザーなど様々な音(情報)が多すぎて、音感のない春日さんは「どの音に合わせて歌えばいいか」が分からなくなっていたんだ。だが俺が作ったこの「魔改造版」は、ピアノの和音(コード)とメロディラインしかない。これならさすがの春日さんでも自分が歌うべき「音の道筋」を見失わない。
「♪――(サビ)」
おお。歌えてるじゃないか。俺の耳が腐るほどの不協和音ではない。ちゃんと「音楽」になっている。
そして、音程が安定したことで今まで聴こえてこなかった「モノ」が、壁越しに聴こえてきた。
(……声だ)
春日美咲の、「声」そのものの魅力。あの柊さんを介してボイスサンプルで聴いたシルクのような透明感のある声。音程という「枷(かせ)」が外れたことで、彼女の持つ「原石」がようやく壁の向こうで輝き始めた。
「……ふふっ。ふふふ……!」
俺は思わず笑いがこぼれていた。安堵か、達成感か。
(……いや、違う)
(面白い)
『Kanata』として、俺は今、猛烈に興奮していた。この素材(春日さん)を俺の手で磨き上げたら一体どこまで行けるんだ?今、壁の向こうで歌っているのはまだ
「春日美咲」だ。こいつが『白亜凛音』として、俺の本物の「神曲(ルミナス)」を歌った時、一体、何が起こる……?
「……ああ、クソ。うるさい。寝不足なのに、目が冴えてきやがった」
俺はモニターAの『Luminous(ルミナス)』のデモデータを、柊さんのメールアドレスに添付した。件名は『白亜凛音・デビュー曲デモ』。本文は『これでいきます。異論は認めません』。
俺の天才作曲家『Kanata』とお節介な隣人『天音彼方』としての、奇妙な二重生活(プロデュース)が本格的に幕を開けた。
◇
その日の昼休み。大学のカフェテリア。俺は食堂の喧騒の中で昨日から溜まっていた「和声学」の課題を片付けていた。目の前にはカツカレー(大盛り)と夏目智也。
「……で? 結局、昨夜も徹夜か。クマ、また濃くなってるぞ、彼方」
「ほっとけ。仕事だ」
「『仕事』ねぇ……。隣人さんの『歌練習』のお世話も仕事のうち、か?」
智也がニヤニヤしながら俺の脇腹を突いてくる。こいつには昨日、高木が去った後、練習室で「魔改造譜面」を見られた時点ですべてバレている。
「あれは仕事じゃない。事故処理だ」
「よく言うぜ。で? どうだったんだよ、『アストロラーベ(シンプルVer.)』の使い心地は」
「……お前、その呼び方やめろ。思い出すだけで吐き気がする」
「ははっ! だってお前があの神曲をあそこまで『無』にするとは! いやー、愛だよ、愛」
「だから愛じゃない。俺の曲のブランドイメージを守るための防衛戦だ」
俺がカツカレーを口に運びながら、忌々しげに答えていると。
「彼方くーん!」
食堂中に響き渡るような、明るい声。
(……来たか)
春日さんがトレーに「女子力高めの野菜たっぷりランチプレート」を乗せて、満面の
笑みでこっちに駆けてくる。
「あ! 夏目くんも、お疲れ様!」
「お疲れー、春日さん。お、今日も彼方とランチ?」
「う、ううん! 今日は、お礼を言いに来ただけ!」
春日さんは俺の隣に立つと、持っていたスマホを俺の目の前に突き出した。
「彼方くん! 昨日の夜ありがとう! あのピアノ伴奏最高だよ!」
「……そうか」
「うん! すっごく歌いやすくて! なんか私、急に歌が上手くなったみたい!」
(それは錯覚だ。お前が上手くなったんじゃなくて俺が曲のレベルをお前のレベルまで引き下げただけだ)
「いやー、春日さん。彼方にそこまで言わせるとは大したもんだよ」
智也が意味深な笑顔で茶々を入れる。
「え?」
「いや、こいつ(彼方)、自分の音楽に関してはマジで頑固だからさ。そんなに『歌いやすい』アレンジ作るなんてよっぽど春日さんのこと……」
「よお! お前ら、やっぱりデキてたのか!」
最悪の乱入者、高木。手にはもちろんカツカレー(特盛り)。こいつ俺より食うな。
「高木くん! お疲れ様!」
「おう! つーか、春日さん、今なんて言った? 『昨日の夜、ありがとう』? 『最高だった』?」
高木が、下品な笑顔で俺たちを交互に見る。
「ひゃっ!? ち、違う! 違うよ高木くん! 昨日の夜っていうのは、彼方くんに作ってもらった、音楽データのことで……!」
「音楽データ? ははーん。さてはお前ら、ついに一緒に曲作り始めたのか!」
「……まぁ、そんなとこだ」
俺が面倒くさくなって適当に答えると、高木は「マジかよ!」と目を丸くした。
「おいおい、彼方! お前、春日さんみたいな逸材、独り占めかよ! しかも二人で
夜な夜なデータ送り合って……。それ、もうほぼ同棲だろ!」
「(発想が飛躍しすぎだろ……)」
「ち、同棲なんて! してません!」
春日さんが顔を真っ赤にして否定する。
「まぁまぁ、高木。落ち着けって」
智也が、高木の肩を叩く。
「彼方は、ただ『隣人』として、春日さんの『練習』に付き合ってるだけだよな? 彼方?」
「……ああ。そうだ(『隣人』としても、『Kanata』としてもな)」
「ふーん。まぁ、いいや! とにかく、春日さん! 週末の『歌ってみた』? 楽しみにしてるぜ!」
高木が、春日さんにウインクを飛ばす。
「え!? あ、うん! 頑張る!」
(……こいつ、どこでその情報を)
「智也から聞いた! なんか、『Kanata』の曲、歌うんだって? ハードル高いねー!」
「(智也、お前……!)」
俺が智也を睨むと、智也は「いや、つい」と肩をすくめた。
「うん! でも、彼方くんが『特別レッスン』してくれたから、きっと大丈夫!」
春日さんが、俺の腕を(無意識に)掴んで、ブンブンと振る。
「……おい、やめろ」
「あ、ご、ごめん!」
「……ほー。彼方が春日さんにマンツーマンで特別レッスンねぇ……」
高木の目が、獲物を見つけた肉食獣のように細められた。
(……マズい。完全に面白半分なゴシップのネタにされた)
俺はカツカレーの最後の一口を、ため息と共にかき込んだ。
(……早く、週末が終わってくれ)
◇
その日の夕方。俺はスタジオで柊さんからの緊急チャットを受けていた。通話相手は、柊詩織と、もう一人。
『――というわけでして! Kanata先生!』
電話の向こうから聞こえるやたらとハイテンションでよく通る女性の声。春日美咲のマネージャー、『霧島 玲奈(きりしま れいな)』だ。
『うちの凛音が、もう、先生のデモ曲(ルミナス)に大・感・激! でして! 是非ともデビュー前に一度、先生と直接お話がしたい、と!』
「……霧島さん。以前からお伝えしている通り、Kanataは一切の顔出し、素性の公開をNGとしています」
俺の代わりに柊さんが氷点下の声で釘を刺す。
『存じております、柊さん! ですから、顔出しじゃなくて結構です! この、ボイスチャット(VC)で! 声だけでいいんです!』
「……(声だけ、だと?)」
俺は思わずマイクをミュートにした。
(……どうする?『Kanata』として、あいつ(春日さん)と、直接話す?)
『Kanata先生、いかがでしょう』
柊さんが俺に(チャット越しに)振ってくる。
『霧島さんのお話では白亜凛音さんご本人、デビューを前にかなり精神的にナーバスになっているご様子。ここでKanata先生から直接、激励の言葉をいただけると、ご本人のモチベーションにも繋がるかと』
(……ナーバス? あいつが?)
壁越しに聞こえる「うおおお!」という絶叫や、大学での「きゃはは!」という笑い声からは想像もつかない。だが第三話で俺が音程を指摘した時、本気で落ち込んでいた。……確かに、『白亜凛音』と『春日美咲』の間で、プレッシャーを感じているのかもしれない。
……よし。どうせいつかは話さなければならない。それにこっちも「プロ」として、彼女の「本気度」を確かめておきたい。
俺はマイクのミュートを解除しある「準備」を始めた。デスクの引き出しから数年前に遊びで買ったボイスチェンジャー(ハードウェア)を取り出す。
電源を入れ設定を調整する。俺の、やや高めの(天音彼方の)声を、低く、深く、威厳のある「天才作曲家」風の声に。
「……あー、あー。テス、テス。……これで、どうだ」
ヘッドホンから返ってくる自分の声は完全に「別人」だった。これならさすがの春日さんも隣人の『天音彼方』だとは気づかないだろう。
俺は、咳払いを一つ。そして、『Kanata』モードでマイクに向かって告げた。
「……構わん。VCを、繋いでくれ」
『! ありがとうございます、Kanata先生!』
霧島さんの弾んだ声が聞こえる。
『では、凛音ちゃん、入ってきてくださーい!』
数秒の沈黙。
『……こ、こんりおーん……。は、はじめまして……! わ、わたくし、白亜凛音と、申します……!』
……。
(誰だ、お前は)
ヘッドホンから聞こえてきたのは、壁越しに聞こえる「地声(春日さん)」でもなく配信での「ハイテンションな天使(凛音)」でもない。ガチガチに緊張し、裏返りそうになりながら必死に「清楚なお嬢様」を演じている第三の人格だった。
「……ああ。Kanataだ」
俺は、ボイチェン越しの「威厳ボイス」で応じる。
(変な感じだ。壁の向こうにいるヤツと、ネットを介してお互い別人格を演じながら話してる)
『か、Kanata先生……! わ、私、先生の曲の、大ファンで……! あの、デモ曲、拝聴いたしました! す、素晴らしい、というか、神々しいというか……! 私なんかが、こんな曲を歌う資格、あるんでしょうか……!』
「……」
来た。 柊さんが言っていた、「ナーバス」な部分だ。
『ちょっと、凛音ちゃん! 緊張しすぎ!』
霧島さんが、慌ててフォローする。
『す、すみません! でも、私、本当に歌に自信がなくて……。声だけは昔から褒めてもらえるんですけど、すぐに音程を外しちゃうし、リズムも走っちゃうし……』
(知ってる。壁越しに、毎日聞かされてるからな)
『こんな私に、Kanata先生は、どうしてあんな素晴らしい曲を……?』
春日さん(美咲)の声が、本気で震えている。
今だ。今、俺は『Kanata』として、こいつに「プロ」としての言葉を叩き込む。
「……白亜凛音くん」
『は、はいっ!』
「君のボイスサンプルは、聴かせてもらった。……『きらきら星』、だったか」
『! あ、あんな、恥ずかしいものを……!』
「あれを聴いて、確信した」
俺は一度言葉を切る。 壁の向こうで春日さんが息を呑む気配が(なんとなく)伝わってくる。
「君の声は、ダイヤモンドの原石だ。……ただし、泥だらけで傷だらけのな」
『……っ』
「磨き方を知らない。道具(声)の使い方が絶望的に間違っている」
『あ……』
凛音(春日さん)が、息を呑んだ。このセリフ。昨日、俺が『天音彼方』として大学の練習室で彼女に言った言葉とほぼ同じだ。
「いいか。歌は、メロディだけじゃない。後ろで鳴っている『和音(コード)』を聴け。自分の声が、その和音とどう響き合っているか、『聴く』んだ」
『……和音、を聴く……』
「そうだ。君は自分の声を『出す』ことばかりに集中して、『聴く』ことを怠っている。……違うか?」
『……そ、その通り、です……』
凛音(春日さん)の声は完全に気圧されていた。
『私、昨日……あ、いえ、最近、やっとそのことに気づいて……』
(だろうな。俺(彼方)が昨日、大学で教えたからな)
「デビュー曲(ルミナス)は、その『聴く』訓練のために極限までシンプルにした。……だが、シンプルだからこそ誤魔化しは効かん。君の『声』そのものが試される」
『……はい!』
「デビューまでに死ぬ気で基礎練をしろ。……以上だ」
俺は、それだけ告げて、マイクをミュートにした。
(……言った。言いたいことは、全部言った)
『……あ、ありがとうございました! Kanata先生! 私、目が覚めました! 死ぬ気でやります!』
凛音(春日さん)の声は、さっきまでの「お嬢様」モードから一転、壁越しに聞こえる
「うおおお!」に近い、本気の「覚悟」がこもった声に変わっていた。
『いやー、ありがとうございます、先生! 助かります!』
霧島さんも、満足そうだ。
『では、柊さん、またスケジュール、よろしくお願いします!』
『ええ。こちらこそ』
VCが切れる。俺はボイスチェンジャーの電源を切りヘッドホンを外した。スタジオに、静寂が戻る。
「……はぁぁぁぁぁぁ」
どっと疲れた。一人の人間に二つの人格(彼方とKanata)で、ほぼ同じ説教をする羽目になるとは。
俺は椅子に深くもたれかかり目を閉じた。
(とにかく、これであいつも『聴く』ことの重要性を理解しただろう)
(今週末の『アストロラーベ(魔改造版)』も、少しはマシになる……はずだ)
その時。左の壁から音が聞こえた。
(……ん?)
春日さんが、何か、歌っている。だが、『アストロラーベ』じゃない。
「♪――(ド、レ、ミ、ファ、ソ、ファ、ミ、レ、ド)」
(スケール(音階)練習?)
「♪――(ド、ミ、ソ、ミ、ド)」
(和音(アルペジオ)練習?)
壁越しに聞こえるのは彼女がピアノの(おそらくスマホの)アプリか何かで単音を鳴らし、それに必死に自分の声を合わせようとしている地道な「基礎練」の音だった。今までの感情任せの「練習(という名の騒音)」と明らかに違う。
「……ふん」
俺は思わず口元が緩むのを隠せなかった。
(うるさいのは変わらないが……まぁ、悪くはない)
俺はデスクに突っ伏した。今夜くらいはこの「うるさい基礎練」をBGMに眠れそうだ。
そして、運命の週末。『白亜凛音』のチャンネルに一本の動画がアップロードされた。
【歌ってみた】アストロラーベ / Kanata【白亜凛音(新人Vtuber)】
俺は胃を押さえながら再生ボタンをクリックした。
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