第4話 天才作曲家は(自分の)曲を(泣く泣く)魔改造する
俺は、人生で初めて「逃げたい」と思った。いや、正確には「この状況から逃げ出して、三日三晩スタジオに引きこもりたい」だ。
「えっと……本当に、いいの? 天音くん」
「……ああ。俺が言ったんだから」
「わ、わー! ありがとう! 天音先生!」
「……先生はやめろ」
放課後。大学の防音練習室。アップライトピアノの前に俺が座り、その横で春日さんが(なぜか)新品の五線譜ノートを胸に抱きしめ、キラキラした目で立っている。
昨日の講義で俺がうっかり(いや、故意に)彼女の音程のズレを指摘してしまった結果。なぜか俺は今週末に控えた彼女の『アストロラーベ』歌ってみた投稿に向けて、急遽「隣人の作曲科の学生」として、ボイストレーニング(もどき)をさせられる羽目になっていた。
(なんで、俺が……)
俺は『Kanata』だ。ミリオンセラーを連発する(らしい)天才作曲家だ。俺のレッスン料はそこらのスタジオミュージシャンよりよほど高い……はずだ。なのに今、俺は、壁越しの騒音公害を止めるためだけに、ボランティアでこの絶望的オンチ
(ただし素材は一級品)にピアノを教えている。
この状況、あまりにも不条理だ。
「じゃあ、えっと……何をすればいいですか! 師匠!」
「……だから、その呼び方をやめろ。春日さん」
「あ、は、はい! 天音……さん」
「……彼方でいい。天音だとなんか他人行儀でムカつく」
「(ムカついてるのは、この状況全般に、だ)」
「え!? か、彼方くん……!?」
春日さんが急に顔を真っ赤にしてモジモジし始めた。
(……あ、ヤバい。地雷踏んだか? ラブコメ的なアレか? 面倒くさい……)
「ち、違う。隣人なんだから呼び方くらい普通にしようってだけだ。深い意味はない」
「う、うん! わかった! よろしくね、彼方くん!」
(仕切り直しだ)
俺はため息を一つつき鍵盤に向き直った。目的は一つ。今週末、俺の『アストロラーベ』が、世界(主にネット)に向けて無残な姿を晒すのを、阻止すること。
「……まず、声を出す前に音を聴け」
「音を、聴く?」
「ああ。春日さんは、声は出てる。だが、鳴ってる音(オケ)と自分の声がどれだけズレてるか分かってない」
俺は、ピアノの「ド」の音を一つ、ポーン、と鳴らした。
「この音、わかるか」
「うん! 『ド』だよね!」
「じゃあ、これに合わせて『あー』って歌ってみろ」
「はーい! ……あー」
…………。
(……低い)
(『ド』じゃなくて、『シ』と『ド』の中間。絶妙に気持ち悪いピッチだ……!)
俺はこめかみがピクピクと痙攣するのを必死に抑えた。俺の耳は、『Kanata』の耳は絶対音感(パーフェクトピッチ)だ。この10セント(半音の十分の一)のズレすら雑音として認識してしまう。今、俺の耳の中では警報が鳴り響いている。
「ど、どうかな……? 合ってる?」
春日さんが不安そうに俺の顔を覗き込む。
「……(合ってるわけあるか!)」とは、言えない。俺は『隣人の天音彼方』だ。
「春日さん。もっとこう、リラックスして」
「リラックス?」
「そう。あとピアノの音をもっと『頭蓋骨に響かせる』イメージで聴いてみろ」
「ず、ずがいこつ……?」
「とにかく、もう一回だ」
ポーン(ドの音) 「……あー」 (……まだ低い!)
ポーン(ドの音) 「……あー」 (……今度は高すぎる! シャープしてる!)
ポーン(ドの音) 「……あー……?」 (……迷うな! 音程が揺れるな!)
「うう……。だめだ……。わかんない……」
十分後。たった一つの音程を合わせるだけで、春日さんはついに泣き出した。 俺も泣きたい。
「(だめだ、こりゃ)」
こいつの「音感」は、俺が思っていた以上に重症だ。これは一日二日でどうにかなるレベルじゃない。年単位の矯正が必要だ。
だが。タイムリミットは今週末。
「……彼方くん。私やっぱり……才能ないのかも」
春日さんが、俯いてポツリと呟いた。
「歌は、大好きなのに……。」
「(『白亜凛音』として、みんなに届けたい歌があるのに……っ)」
「……」
(あー……。シリアスモード入った。面倒くさい)
俺はガシガシと頭を掻いた。『Kanata』として彼女のデビュー曲を作る。そのために彼女の基礎練に付き合おうと決めた。だがそれはそれ。目の前の今にも折れそうな「春日美咲」を、どうするか。
「……才能がないヤツは」
俺は、ボソッと呟いた。
「え?」
「才能がないヤツは、音大の声楽科に補欠でも受からない」
「!」
「お前の声はいい。それは俺が保証する」
(『天音彼方』としても、何より『Kanata』として)
「ただ、絶望的に『道具(声)』の『使い方』を知らないだけだ」
「つ、使い方……」
「今週末の『アストロラーベ』。絶対に、あれを歌うのか」
「……うん。みんな、期待してくれてるから」
配信で「歌う」と宣言してしまった手前引くに引けないらしい。
(わかった。もう、腹を括るしかない)
「……わかった。じゃあ、作戦変更だ」
「作戦?」
「春日さんを『アストロラーベ』に合わせるんじゃない」
俺は鍵盤の上で指を鳴らした。
「『アストロラーベ』を春日さんに合わせる」
「……え?」
「(俺の、俺の血と汗と涙の結晶である『アストロラーベ』を……!)」
俺は内心で血の涙を流しながら、新品の五線譜を美咲からひったくった。
「彼方くん?」
「いいから、見てろ」
俺は持っていたシャーペンを握りしめ、五線譜に猛烈な勢いで音符を書き殴り始めた。
『アストロラーベ』
キーはGマイナー。転調、分数コード、テンションノートの嵐。俺の「やりたいこと」を全部詰め込んだ悪趣味な(だが、最高にクールな)曲。
(……だが、今のこいつにはただの拷問器具だ)
俺はまずキーを丸ごと下げた。Eマイナー。これならあの苦しそうな高音は出ない。
(サビの疾走感が死ぬがやむを得ない)
次に複雑なリズムと細かいメロディラインを片っ端から簡略化(オミット)する。
(Bメロのグルーヴが死ぬが知ったことか)
最後に俺が一番こだわったCメロの転調。
(カットだ。カット。こんなの今のこいつに歌えるわけがない)
カリカリカリカリ……!練習室に、俺のシャーペンが走る音だけが響く。
「……(ポカーン)」
隣で、春日さんが、何が起こっているか理解できない、という顔で固まっている。
五分後。
「……よし。できた」
そこには俺の『アストロラーベ』の面影を残しつつも、完全に牙を抜かれ骨抜きにされたシンプルなバラードが完成していた。タイトルをつけるなら、『アストロラーベ(初心者向け・魔改造バージョン)』だ。
「……あの、彼方くん。これ、なに……?」
「『アストロラーベ』だ。今週末、お前が歌うやつ」
「え? でも、全然違う曲みたい……」
「いいから歌ってみろ。俺が弾く。……絶対に俺が弾くピアノの音だけを聴け。原曲(オケ)は頭から追い出せ」
俺は魔改造した『アストロラーベ Ver. KANATA AMANE』を弾き始めた。ジャラーン……。
(……ダサい。ダサすぎる。この和声進行。俺が大学一年で捨てたヤツだ)
俺は自分のアレンジ能力(の、あまりの酷さ)に眩暈がしそうだった。
「……あ、あの。歌うよ?」
春日さんがおそるおそる、そのシンプルなメロディラインに合わせて歌い出した。
「♪――」
……。
(……歌えてる)
奇跡だ。いや、奇跡じゃない。難しい音程の跳躍を全部なくし、リズムも平坦にした。これならさすがの春日さんでも、メロディを追うことができる。
音程はまだ微妙にフラットしている。だが原曲のあの地獄のような不協和音に比べれば天国だ。少なくとも、「曲」としては成立している。
「♪――」
歌い終えた春日さんはキョトンとしていた。
「……あれ? 歌えた……? 私、最後まで歌えたよ……!」
「……ああ。まぁ、及第点だ」
「すごい! すごいよ彼方くん! なんで!? 私、今まであんなに苦労してたのに!」
「原曲がお前の今のレベルに合ってなかっただけだ」
「ていうか、彼方くん何者!?」
春日さんが興奮した様子で俺に詰め寄る。顔が近い。
「たった五分で、あの『Kanata』さんの曲を、こんな風にアレンジしちゃうなんて……! まるで、本物の『Kanata』さんみたい!」
「……っ!?」
(……ヤバい。やりすぎた)
俺はサッと春日さんから距離を取った。
「か、勘違いするな。これは、ただの『耳コピ』の応用だ。作曲科なら、これくらい……」
「「お邪魔しまーす!!」」
最悪のタイミングで、練習室のドアが、スパーン! と開いた。
「よお、彼方! やっぱり春日さんと密会か!」
「……高木」
「うわ、マジで二人きりじゃん。しかも、なんかピアノでイイ感じの曲、弾いてなかった?」
高木と、その後ろで、ニヤニヤしながらすべてを理解している智也が立っていた。
「ひゃっ!? た、高木くん! 夏目くん!」
春日さんは、慌てて俺から飛びのいた。
「いやー、アツいね! アツい! 防音室で二人きり、ピアノレッスン! ラブコメの王道キタコレ!」
高木が、スマホのカメラをこっちに向けようとする。
「やめろ馬鹿。消すぞ」
「ちぇー。ノリ悪いな、彼方は」
一方、智也は、俺がピアノの譜面台に置いた「魔改造譜面」を、目ざとく見つけていた。
「……ん? 彼方、これ……」
智也は譜面を一瞥し俺の顔を見て、そしてすべてを察した、という顔で腹を抱えて笑い出した。
「ひ、ひーっ! か、彼方、おま、お前……! 『アストロラーベ』を……! ぶはっ!」
「……うるさい。言うな」
「いや、これは! これは、本家(Kanata)が聞いたら卒倒するぞ! このアレンジ!
シンプルイズベストを超えてもはや『無』だろ!」
「(本家は今、目の前で死にそうな顔してるんだが)」
「え? え? 夏目くん、どういうこと?」
春日さんがきょとんとしている。
「いや、なんでもない! なんでもないよ春日さん! ただ、彼方の『愛』が重すぎて、俺、感動しちゃって!」
「あ、愛!?」
「よーし、お前ら! 邪魔したな! 俺たちカラオケ行くけどお前らも来るか? 『アストロラーベ』練習しに!」
高木が、最悪の誘いをしてくる。
「「行かない(/行けません)!!」」
俺と春日さんの声がハモった。
「だよな! ま、せいぜいイチャイチャしてろよ!」
「(だから愛とかイチャイチャとか言うな、智也!)」
嵐の二人は去っていった。練習室には気まずい沈黙が流れる。
「……あ、あの、彼方くん。その……」
「……春日さん」
「は、はい!」
「今週末、歌うんだろ。なら、この『ダサい譜面』でいい。これのピアノ伴奏のデータ、作ってやる」
「え!? ピアノ弾いてくれるの!?」
「ああ。原曲オケで歌うな。絶対にだ。あれは今のあんたには毒だ」
「う、うん……! わかった!」
俺は今、とんでもない約束をしてしまった。俺(Kanata)の曲を、俺(彼方)が「魔改造」し、俺(彼方)が「伴奏」を録音して、俺(Kanata)がプロデュースする予定のVtuber(春日さん)に、歌わせる。
(……情報量が、多すぎる)
俺は重い足取りで練習室を後にした。スタジオに帰って二つの作業をしなければならない。
一つは、『白亜凛音』のための最高のデビュー曲(本物)の制作。もう一つは、
『春日美咲』のための最低の『アストロラーベ』(偽物)の伴奏作り。
その時スマホが震えた。 『柊 詩織』から、チャットメッセージだ。
『Kanata先生。先ほど、白亜凛音さんの運営(霧島マネージャー)から連絡がありました』
『今週末、デビューに先駆けて、ご本人が趣味で「歌ってみた」を出すそうです』
『曲は、なんとKanataさんの「アストロラーベ」だとか』
『……フフ。奇遇ですね。彼女、よほどKanata先生がお好きと見えます』
俺はスマホの画面に向かって深々とため息をついた。
「……奇遇、ですか。そうですね……」
俺の胃はもう限界だった。
—――――――――――――――――――――――――—――――――――
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
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