第3話 天才作曲家は基礎練に(遠回しに)付き合う

 地獄というのはどうやら更新されるものらしい。


 あの日、俺の隣人が『白亜凛音』であり、かつ絶望的なオンチであると判明してから三日が経過した。俺の生活は、劇的に悪化していた。


 原因はもちろん左の壁だ。


「♪――(アストロラーベのサビ、音程マイナス30セント)」


 夜九時。俺が『Kanata』として次のコンペ曲のミキシング作業に集中しようとすると必ずそれは始まる。春日美咲による、『アストロラーベ』の公開処刑練習会だ。


「(ダメだ……。音程が低すぎて、こっちのミックスの基準ピッチまで狂いそうだ……!)」


 俺はヘッドホンで耳をガッチリと塞ぐ。だがこの防音マンションの壁は楽器の「音」はだいたい防いでも、床や壁を伝わる「振動」までは殺しきれない。このマンション、防音とはいえ“歌声”は別だ。低音よりも声帯の振動が伝わる。春日さんの腹の底から出ている(であろう)声楽科仕込みの(ただし音程がズレている)声量は、微細な振動となって俺のスタジオを侵食してくる。


 キィィィ……と、俺の頭の中で不協和音が鳴り響く。これはもう騒音公害だ。


「……っ! 集中できない!」


 俺はヘッドホンをデスクに叩きつけた。この三日間、俺の睡眠時間は平均三時間。目の下のクマは、智也に「お前、とうとうゴス系のメイク始めたのか?」と真顔で心配されるレベルにまで成長していた。


 大学での被害も甚大だ。


「あ、天音くーん! おはよー!」


 大学のラウンジで課題のレポートを終わらせようとPCを開いていると背後から無邪気な声がかかる。春日さんだ。手には昨日俺が「うるさい」と苦情を言いに行ったお詫び(三回目)だという、某有名洋菓子店のマドレーヌが握られている。


「……ああ」


「あのね! 私、昨日も『アストロラーベ』練習したんだ! ちょっとだけ、コツ掴めてきたかも!」  


 春日さんは、屈託のない笑顔でそう言った。


 (どの口が言うんだ……!)


 俺は全力で叫びたかった。お前の掴んだ「コツ」とやらのせいで俺は昨夜、曲のAメロとBメロを繋ぐ大事なコード進行を丸ごと一つ間違えて保存しかけたんだぞ、と。お前の歌は「コツ」以前の問題でもはや「呪い」に近いんだ、と。


「……そうか。頑張れよ」


 だが、俺の口から出るのはそんな当たり障りのない死んだ魚の目をした返事だけだ。俺は『Kanata』だ。作曲家だ。だが、今はただの隣人『天音彼方』。「お前の歌は絶望的にオンチだから今すぐやめろ」とは言えない。


「うん! あ、そうだ。これ、よかったら食べて! いつも(うるさくして)ごめんねのお詫び!」


「……どうも」


 マドレーヌを受け取る。その時、俺たちの横を高木が通りかかった。


「おー! やってんねぇ、彼方に春日さん!」  


ニヤニヤしながら、高木が俺の肩をバシバシ叩く。


「何をだよ」


「何って、『隣人さんからのおすそ分け』イベントだろ! うわ、マドレーヌじゃん! 高いやつ! 彼方、お前、春日さんに何貢がせてんだよ!」


「貢がせてない。これは俺が受け取るべき、正当な対価だ」


「え? 対価?」


「なんでもない」


「ひゃっ!? た、高木くん! ち、違うの! これは私がお詫びで……!」  

 

春日さんが慌てて否定する。その姿は、大学での「清楚系・春日美咲」そのものだ。


(……こいつ、自分が『白亜凛音』だってこと、大学じゃ隠してるんだよな)  


(そりゃそうか。俺だって『Kanata』だって一応隠してる)


 俺たちは、お互いに「仮面」を被ったまま、お調子者の陽キャに茶化されている。  地獄か?


「まぁまぁ、春日さん。そんな慌てなくても。俺は二人の恋、応援するって決めてっから!」


「こ、恋!? 違いますってば!」


「じゃあな、二人とも! お邪魔しましたー!」  


高木は、またも嵐のように去っていった。


「……まったく」


「……あ、あの、天音くん。変な噂になっちゃって、ごめんね……」


「別に。アイツが勝手に言ってるだけだ。……それより、春日さん」


「は、はい!」


「その練習、いつまで続くんだ」


「え?」


「『アストロラーベ』の練習。いつ、本番なんだ?」


 俺は核心を突いた。早く本番とやらを終わらせて、俺に静かな夜を返してほしい。


「あ、えっとね! 今週末に、初めての『歌ってみた』動画として投稿しようと思ってるんだ!」


「……今週末」


 あと、四日。あと四日間、俺はこの拷問(アストロラーベ地獄MIX)に耐えなければならないのか。


「(……無理だ)」  


 俺が死ぬ。いや、俺の曲が死ぬ。あんなおぞましい音程の『アストロラーベ』が、俺の『Kanata』名義の曲として世に出る。しかも、歌うのは超大型新人の『白亜凛音』。


 冗談じゃない。俺のブランドに傷がつく。


 (……こうなったらやるしかない)


 俺は、マドレーヌの包み紙を無駄に強く握りしめた。

 

         ◇


 その日の夜。俺はスタジオで、柊さんから送られてきた『白亜凛音』の公式資料に目を通していた。


『ボイスサンプルA(喜怒哀楽)』


『ボイスサンプルB(システムボイス風)』


『ボイスサンプルC(アカペラ / きらきら星)』


「……なるほどな」  


 俺は、PCの再生ボタンを押しながら唸った。


 歌じゃない、ただの「セリフ読み」や単純な童謡。そこから聴こえる「声」は、文句なしの一級品だった。


 倍音(声の響き)が豊かで、特に高音域にシルクのような艶がある。息遣いも繊細で、感情表現の幅も広い。こいつは間違いなく「ダイヤの原石」だ。


 ただ致命的なまでに「音感」と「リズム感」が欠落しているだけで。『きらきら星』ですら、サビの「きーらーきーらーひーかーるー」の「かーるー」の部分が微妙に半音の四分の一ほどズレている。普通、気づかないレベルのズレだが、俺の耳には雑音にしか聞こえない。


「(素材は最高。調理法が最悪。……いや、そもそも本人が食材の扱い方を知らないのか)」


 声楽科なのになぜ?おそらくクラシックの発声(大きなホールで声を響かせる技術)は学んでも、マイクに乗せるポップスの歌い方や、正確なピッチ(音程)をコントロールする訓練を疎かにしてきたんだろう。


 ……どうする?  『Kanata』として、柊さん経由で「基礎練からやり直せ」と伝えるか? いや、プライドを傷つけてデビュー前に潰してしまうかもしれない。


 (……やはり『隣人・天音彼方』として、遠回しに矯正するしか)


 俺がそう決意した時、左の壁から例の「練習」が始まった。


「♪――(アストロラーベ、Aメロ、音程マイナス40セント)」


 来た。


 俺は深呼吸を一つ。そして自分のスタジオのマスターキーボード(ピアノ)の電源を入れた。


 ボリュームをあえて少し上げる。この防音室から隣に「音が聞こえる」ギリギリのラインまで。


 そして、春日さんが歌っている『アストロラーベ』のメロディラインに合わせて、俺は「正しい音程」のピアノを弾き始めた。


 ジャーン……。


 俺が弾く正しい『アストロラーベ』。壁の向こうから聞こえるズレた『アストロラーベ』。


 二つの音が混ざり合い、この世のものとは思えない不協和音を生み出す。


「(うぐっ……! 俺が、俺の耳が……!)」


 自分で仕掛けたトラップなのに、ダメージを受けているのは俺だけだ。


 ピタッ。


 壁の向こうの歌声が止まった。


 (……よし。気づいたか? お前の音程がズレてることに)


 俺は演奏を止めて壁に耳を澄ます。隣から聞こえてきたのは予想外の反応だった。


「(小声)……あれ? お隣さん、今、ピアノ弾いてた? ……もしかして練習中だったのかな?」


 ガタッ、と椅子から立つ音。


「ひゃっ! も、もしかして、私の歌うるさかった!? うわー! またやっちゃった!」


 (違う、そうじゃない)


「ど、どうしよう! お隣さんも音大生だもんね! 作曲科って言ってた! 私の歌で、お隣さんの『神聖な作曲』を邪魔しちゃったんだ! うわーん、私、なんてことを……!」


 (作曲は邪魔されたが神聖とかじゃないし、今のはお前のためのガイドメロだ!)


 シン……。


 次の瞬間、隣の部屋は完全に静まり返った。どうやら俺の「壁ピアノ」作戦は、「隣人に迷惑をかけた」と勘違いされ、春日さんが練習を自粛するという最悪の結末を迎えたらしい。


「…………」


 俺はスタジオの床に大の字になって倒れた。ダメだ。こいつドジなだけじゃなくて致命的に「察し」が悪い。遠回しな作戦は全部裏目に出る。


          ◇


 翌日。金曜の「ソルフェージュ基礎」の講義。俺は作戦を変更した。  


(遠回しがダメなら、直接だ)


 俺は大講義室の後方、自分の定位置ではなくあえて前方……春日さんがいつも座っている席の真後ろに陣取った。


「あ、天音くん! おはよ! 珍しいね、前の席なんて」  


 振り返った春日さんがきょとんとしている。


「……ああ。たまには」


「そっか。あ、あの! 昨日は本当にごめんね! 私、またうるさくしちゃって……!」


「……いや、別に。気にするな」


「ううん! 気にする! 天音くんの作曲の邪魔しちゃったんだもん! だから私、決めたんだ!」


「……何を?」


「今週末の『歌ってみた』まで、家で歌うのやめる!」


 (……はぁ!?)


 俺は耳を疑った。なんだと?あの地獄の音程のまま練習もせずにいきなり本番を迎えるだと?それは、ただの「放送事故」だ。俺の曲を使った、盛大な。


「(……待て。落ち着け、俺)」  


 今、ここで「いや、練習しろ」とは言えない。言ったら、「え? なんで? 昨日、迷惑そうにピアノ弾いてたじゃん」と矛盾を突かれる。


「……そ、そうか。わかった」


 俺は引きつる頬を抑えながら、それだけ答えるしかなかった。  


(万事休すだ……)


 そんな俺の絶望を知ってか知らずか講義が始まった。今日のテーマは「聴音」。  教授がピアノで弾いたメロディや和音を五線譜に書き起こしていく音感のテストだ。


「はい、では第一問。単旋律です。よく聴いて」  


教授がピアノで8小節ほどのメロディを弾いた。  


(……簡単なCメジャーの旋律だな)  


 俺は数秒でそれを五線譜に書き写す。


 ちらりと前の席の春日さんのノートを見る。……必死に何かを書いている。だが音符の半分くらいが間違っている。リズムは合ってるが音程が。


「では、第二問。和音です。三和音、四和音、混ざりますよ」  


 教授が和音を四つ立て続けに弾いた。  


『ジャーン、ジャーン、ジャーン、ジャーン』


 (Cメジャー、Gセブンス、Fメジャー、Cメジャー……。基本中の基本、カデンツだな)


 俺が書き終えて顔を上げると前の春日さんがシャーペンを握りしめたまま、完全に固まっていた。ノートは真っ白。


 (……こいつ、マジか)  


 声楽科なのに和音が聞き取れない?いや、だからか。自分の歌うメロディラインと伴奏(オケ)の和音が頭の中で結びついていない。だから自分の音程がズレていることに気づかないんだ。


 教授が三問目、四問目と、問題を続けていく。春日さんのノートは白紙のままかあるいは自信なさげに書かれた音符がことごとく間違っていた。


「はい、そこまで。隣の人と交換して、採点してください」  


 非情な教授の指示。


「あ、あわわ……」  


 春日さんが真っ白なノートを抱えて、絶望的な顔をしている。


「……春日さん」  


 俺はボソッと声をかけた。


「ひゃ、はい!」


「……ノート、見せろ」


「え? あ、で、でも、私、全然……」


「いいから」


 俺は春日さんのノートを半ばひったくるように受け取り、自分の(完璧に書かれた)ノートを彼女に突き出した。


「え? え? 天音くん、これ……全部合ってる! すごい!」


「……うるさい。採点しろ」


 俺は春日さんの白紙の答案(?)に赤ペンで「0点」と書くわけにもいかず、ため息をついた。


「……春日さん」


「は、はい!」


「お前、なんで声楽科入れたんだ」


「うっ……」


 俺のあまりに素直な疑問に、春日さんは顔を真っ赤にして俯いた。


「そ、それは……『声』だけは昔から褒められてたから……。実技(歌唱)は満点だったんだけど、筆記とソルフェージュが壊滅的で補欠合格だったの……」


「……だろうな」


 やはり、素材(声)だけの一発屋か。だがその素材は、俺(Kanata)が惚れ込むほどのものだ。


「……貸せ」  


 俺は春日さんのノートの白紙のページに、さっき教授が弾いた第二問の和音(C, G7, F, C)を書き込んだ。


「……天音くん?」


「お前、和音が聞き取れないから自分の歌の音程も外すんだ」


「え……?」


「歌はメロディだけじゃない。後ろで鳴ってる和音(コード)に対して正しい音程で歌わないと、全部不協和音になる」


 俺はつい作曲家『Kanata』としての口調で説明してしまっていた。ハッとして口をつぐむ。


「……な、なんで天音くんが、それを……?」  


 春日さんが、不思議そうな顔で俺を見ている。


「……いや」


 マズい。ボロが出るところだった。


「お前の歌、壁越しに聞こえてくるから」


「えっ!?」


「『アストロラーベ』。全部、音がフラットしてる。特にサビ」


「!!!!」


 春日さんは、今度こそ耳まで真っ赤になって固まった。  


(あ、ヤバい。言いすぎたか? 泣くか?)


「……う、うう……」  


 春日さんは、うつむいたまま肩を震わせている。  


(あー……。やっちまった。女子、泣かせた。面倒くさい……)


「……天音くん」  


 数秒後。顔を上げた美咲は、泣いてはいなかった。その代わり、悔しさと、そして、わずかな「希望」が混じったような、真剣な目で俺を睨みつけていた。


「……教えて、ください!」


「……は?」


「私、どうしたら上手く歌えるようになりますか!?」


 なんで俺が。俺はただ静かに作曲がしたいだけだったはずだ。


 だが、目の前の「ダイヤの原石(傷だらけ)」は、今、俺(隣人の音大生)に助けを求めている。


 その夜。俺のスマホが震えた。差出人は『柊 詩織』。


『Kanata先生。白亜凛音さんのデビュー曲ですが、コンセプトは「彼女の声を最大限に生かす、シンプルなバラード」でいかがでしょう』


 俺は大学での春日さんの真剣な目を思い出しながら、返信を打った。


『却下します。あいつには、まず「音楽の基礎」を叩き込む必要がある。曲は俺が考えます。……ただし、納期は少し、待ってください』


 『Kanata』としての、そして「隣人・天音彼方」としての、奇妙な二重生活(レッスン)が、始まろうとしていた。


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