第6話 五円玉の記憶

2024年10月20日――朝の神田川は、紅葉を一枚の舟のように浮かべて流れていた。


私は、その水面を見下ろしながら、ゆっくりと歩く。今日も風が冷たい。74歳の膝を刺すような冷たさだ。


本田義郎、自治会長。肩書きよりも、むしろ「この町の古い樹」のようなものだと自分では思っている。


町会集会所の扉を開けると、小さな子どもの声がした。


地域型保育所の代表、小林智子(38)が、資料の束を抱えて立っていた。


「本田さん、本格実施後も在籍者は‘利用不可’なんです。矛盾です」


彼女が開いた条例プリントには、こうある。


《こども誰でも通園制度対象外:小規模保育所等の在籍者》


私は、老眼鏡をかけて読む。文字が小さい。あるいは、私の目が大きくなりすぎたのかもしれない。


「つまり、うちの子は新制度の恩恵を受けられない?」


「そうです。逆に、地域型保育所は採算が取れず廃園の危機です」


私は、プリントを握りしめた。紙が、昔の建設請願のように、私の手の中で破けた。


「わかった。今日中に、市へ掛け合う」


小林さんの目が、ちょっとだけ安心した色を帯びる。


――午後、神田川沿いを島田俊介と歩く。


元自治会長、67歳。昭和48年、私たちはトラックで石炭を運び、住民から五円玉を集めて保育所を建てた。


「当時は1時間単位で預かっても、給食は無料だった」


島田は、川面に映る紅葉を指差す。


「なのに今は、30分で500円だ。時代は下がったのか、上がったのか」


私は、ポケットから今朝の破れたプリントを出し、風に揺らす。


「下がったんじゃない。‘単位’が細かくなっただけだ」


島田は、苦笑いして歩き出す。


「細かくすればするほど、人の心は‘切り売り’になるものだ」


その直後、地域保育所の裏口から、山田はるみさんが顔を出した。


「本田さん、孫のことで……。30分預けると、給食代500円なんですって」


私は、頷く。


「定額です。残念ながら」


山田さんは、手の平を広げた。シワの間から、孫の小さな指が昨日触れたという温もりが、まだ消えない。


「10分だけでも、顔が見たい。でも、500円は私の一日の食費です」


私は、答えがない。代わりに、川のせせらぎを聞く。


――夕方、集会所の掲示板。


私は、手書きの張り紙をピンで止めた。


《保育所の「地域貢献」が消える


 30分=500円の給食代で、孫の笑い声が遠くなる


 意見ある人は、明晩7時、集会所へ》


冷たい風が、紙の端をめくる。まるで、誰かが「反論したい」と言っているようだ。


すると、通りかかった若い母親二人が、立ち止まった。


「自治会長、うちもです。30分単位で預けたいけど、給食代で3分の1の給料が飛ぶんです」


「旦那のボーナスが削減されて……。保育所代が家賃より高くなりそう」


私は、張り紙の上に、もう一枚、付箋を足す。


《明晩、一緒に声を上げませんか》


母親たちは、顔を見合わせて、小さく頷いた。


――夜、自宅。


古いアルバムを開く。


昭和48年11月10日――地域保育所竣工式。


写真の中央で、私は三十代。周りは、今は亡きおばあちゃんたち。


手にしているのは、木のスプーン。給食の試食だ。


「無料ですよ、召し上がれ」


その声が、蘇る。


私は、写真を胸に抱えた。


「この条例は地域の絆を壊す。明日、市役所に陳情に行く。


 おばあちゃんの手の温もりを、次の世代に伝えるのが私の役目だ」


時計は11時を回る。


冷蔵庫の上には、孫からの手紙が貼ってある。


『おじいちゃん、ありがとう』


文字はぶきっちょだが、温もりだけは本物だ。


私は、手紙を握りしめ、窓を開けた。


神田川の向こう、市役所の灯りが、小さくともっている。


風が、また張り紙をめくる音がした。


今度は、私の心が、一緒にめくれた。

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