第3話 滲むインク
2024年10月17日――朝の市役所は、雨の匂いがした。
四階のエレベーターを降りると、冷房の風が額に張り付いた前髪を揺らす。私は左手で押さえ、右手で書類束を抱えたままデスクへ向かった。
パソコンの電源が入るまでに、コーヒー一杯分の時間がある。私はその隙に、昨日の議事録を開く。
「30分単位利用ルール、運用開始に向けた最終調整」
文字は並んでいるが、肝心の“中身”が抜けている。誰の生活にも、誰の息遣いにも触れていない。
内線が鳴る。副市長室からだ。
「佐久間課長、今すぐ電話会議だ」
石黒副市長の声は、聴筒を通しても棘がある。
「30分単位の最低利用時間、なぜ‘1回最低1時間’とプリントに載っている? 市長の指示は30分だ」
私は舌打ちを噛み殺した。
「校正版を回したはずです。配布ミスですぐに――」
「即刻回収しろ。1時間ではなく、30分だ。数字を間違えると、親は計算できなくなる」
電話が切れる。受話器を置くと、私は赤いペンを取り、誤記のある資料をめくった。
「1回最低1時間」
その文字に線を引く――瞬間、インクが滲み、紙が裂けた。
小さな音が、デスクの上の銀杏の葉を震わせる。誰が開けた窓からか、皇居外苑の葉が一枚、舞い込んできていた。
私は裂け目を見つめた。数字の隙間から、冷たい風が吹いている気がした。
――午後、窓口へ。
青木美咲は、パソコン画面を向いたまま私を手招いた。
「課長、実例が出ました。主婦Aさん、30分だけ預けたつもりが、給食代500円で請求されて‘実質1時間より高くなった’と怒ってらっしゃいます」
画面にはこうある。
・利用時間 10:00~10:30(30分)
・保育料 150円(1時間300円の半額)
・給食代 500円(定額)
・合計 650円
「1時間利用なら、保育料300円+給食代500円=800円。30分だけで650円は、確かに割高です」
青木の声が低くなる。
「Aさん、‘30分預ける意味、なかった’とおっしゃって……」
私は、メモを取りながら指が震えるのを感じた。
「給食代の定額設定は、保健所の衛生指導で変更できない。30分利用者には、軽食を別途準備するか……」
言いながら、自分が“別途”という言葉に逃げていることに気づく。
青木は、静かに尋ねた。
「課長、私たちは数字を守ってるけど、生活を守れてますか?」
私は答えられず、背を向けた。廊下の冷房が、首すじを撫でる。
――六階会議室。
高梨勇課長が、法務省の通達を広げていた。
「令和6年度妊娠世帯の申請期限、3月30日は厳格です。出生日ではなく‘妊娠届出日’で判断すべき」
「高梨君、それでは切り捨てすぎる。予定日が6年度でも、届出が遅れれば対象外になる」
「法律の文言どおりが安全策です。市長も‘漏れなく’とおっしゃってます」
私は、朝裂いた資料の破片をポケットから取り出し、テーブルに置いた。
「この紙には‘1時間’と誤記されていた。でも、生活には誤記なんてない。今日、30分で650円請求された母親がいる」
高梨は眉を動かさない。
「給食代は別会計。法律の隙間を埋めるのが、政策課の役目でしょう」
「隙間を埋めるのではなく、生活を埋めるのが役目だ」
言ってしまってから、私は自分の声の大きさに驚いた。
会議室の時計が、16:30を指す。秒針の音だけが、残された。
――夕方、町会集会所。
畳の匂いと、コタツの温もりが、雨上がりの冷気を吸っている。
本田義郎自治会長は、昭和48年の写真を広げた。
「当時は‘1時間単位’だった。給食は炊飯器一個で済ませた。30分刻みなんて、誰も幸せにしない」
写真には、木造の保育所と、白いエプロンの母親たち。
「今は高層マンションだ。でも、給食の温もりは同じはずだ。それを数字で測れるかね」
私は、メモを取ろうとした。
本田が私の手を押さえ、メモ用紙を破いた。
「書くんじゃない。感じろ」
紙が二つに裂ける音が、コタツを震わせる。
私は、裂け目から漏れる夕陽を見た。赤い光が、私の手の平に落ちる。
まるで、朝の滲んだインクの色だ。
――夜、自宅書斎。
デスクライトだけが、部屋を円く照らす。
申請書の山――誤字を赤で訂正する。
インクが滲み、紙が波打つ。
私はペンを置き、額を押さえた。
「私は法律の文字を守る官僚なのか、人間の生活を守る者なのか」
窓の外、銀杏の木が風に揺れる。
一枚の葉が、窓を叩き、中に落ちる。
葉の先が、赤いインクに染まっている。
私は、それを手に取り、破れた資料の上に置いた。
「完璧な条例など、存在しない」
言葉が、部屋に吸い込まれる。
でも、その不完全さを次の世代に託すのが、私の役目だ。
私は、滲んだインクの上に、もう一度ペンを走らせた。
“30分利用者には、軽食オプションを検討”
文字は歪んでいる。でも、それでいい。
銀杏の葉が、赤く染まったまま、静かに息をしている。
2024年10月17日――一日が終わる。
明日、また数字と生活の間で、ペンを走らせればいい。
私は、灯りを消し、滲んだ葉を胸に押し当てた。
温もりが、少しだけ伝わってきた。
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