30分の孤独
共創民主の会
第1話 30分の光
2024年10月15日――朝の市役所は、冷たい雨だった。
神田川沿いの銀杏が、まだ青いまま雨に打たれている。私は窓越しにそれを一瞥し、エレベーターのボタンを押した。三階へ。三階の会議室へ。そこに、私の政治の切り札と、孤独とが、すでに待っている。
扉を開けると、石黒副市長が腕組みし、佐久間課長が赤いペンで資料を線引きしていた。
「市長、朝から申し訳ありません」佐久間は頭を下げたが、その目は眠っていない。
「いえ、1月の試行実施に向けて、詰められるだけ詰めましょう」
私は椅子に腰を下ろし、まずコーヒーを一口。苦い。雨と同じ温度だ。
議題は一点――「利用時間の30分単位設定」である。
「保育所側は職員配置の都合で、せめて1時間単位にしてほしいと」石黒が眉間に縦皺を寄せる。
「しかし、わが党の公約は30分単位。フレックス勤務の親にとって、1時間は長すぎる」
私は資料のグラフを指でなぞった。数字は綺麗に出ている。0.5単位で需要が三分の一増える――試算どおりなら、次期選挙の得票効率は1.7%の上乗せ。数字は私を鼓舞し、同時に嘲る。
佐久間が赤いペンで滲ませたインクを見つめた。
「市長、利用料は300円に据え置きますか? 1時間なら500円に値上げして、運営コストを――」
「だが、本田さんの自治会は『500円なら預ける意味がない』と言っている」
私は苦笑いし、首を振った。
「300円でいく。30分単位でいく。1月の試行実施は、私の――いや、わが市の、次の一手だ」
石黒と佐久間が目配せした。雨音が窓を打つ。私はカップを置き、静かに言った。
「次、議会事務局だ」
――午後、議会事務局長室。
宮本剛局長は、いつも通りネクタイを締めすぎていて、声が裏返る。
「現金給付移行の経過措置、令和8年3月30日までに申請しなければ失効するとの周知、もう少し猶予は?」
「猶予は法律上、無理です」私は頭を下げた。「妊娠届が令和6年度中でも、出生が7年以降だと対象外。予定日が8年1月の方は、猶予が必要です」
「市長、それを個別にケアしたら、事務量が――」
「私が口を開く。議会で説明責任は私が果たす。だから、猶予の通知を出してほしい」
宮本はため息をついた。煙草の匂いがする。私は煙草をやめて十年になるが、その匂いだけは政治の匂いだと思う。
廊下を戻ると、窓口の青木美咲が走ってきた。
「市長、高齢者の窓口で苦情が続出してます。‘現金給付がいつになるかわからない’と……」
私は足を止めた。神田川側の窓から、皇居外苑の銀杏が見える。まだ青い。
「周知を増やせ。チラシを増刷して、地区センターに置いてくれ。私も現地へ行く」
青木は深く頭を下げた。彼女の手には、折り畳まれた赤いペンの資料――あの滲んだインクと同じ色だった。
――夕方、千代田区北の町会集会所。
雨は上がり、夕焼けが神田川に反射していた。
本田義郎自治会長は、74歳の肩でドアを開けた。昭和40年代、地域の保育所を建てるために、彼はトラックに石炭を積んで回ったという。
「市長、30分単位で保育を売るなんて、保育じゃない! 商売だ!」
「本田さん、待機児童は――」
「待機じゃない。我が地区はもう子どもが少ない。跡地にマンション建てて、保育所はどうなる? 歴史が消える!」
「だからこそ、地域型を残す。30分単位で需要が増えれば、定員割れも防げる」
「500円の給食代を取られたら、300円の意味がない!」
本田の杖が床を打った。夕焼けがその影を伸ばす。私は言葉を失った。
「昭和43年、わしらは寄付を集めた。五円玉、十円玉。それで建てた保育所を、数字で潰すつもりか」
私は目を伏せた。夕焼けが目に染みる。
「……市政とは、数字で測れないものも、測らねばならないのです」
「だったら、測る前に、耳を澄ませ」
本田は背を向けた。ドアが閉まる音が、神田川に響いた。
――夜、自宅書斎。
雨戸を半開きにすると、北風が這い寄る。
机には、2026年4月の選挙資料。支持率は42%。試行実施の成功で+1.7%。赤いペンで書き込んだ数字。インクが滲んでいる。私はペンを置き、窓を開けた。
向かいの保育所の屋上――そこには、今月初めに設置された仮設看板が揺れている。
「こども誰でも通園 30分単位で受入中」
LEDライトが点滅し、闇に浮かぶ。まるで、誰かの孤独を照らす灯台のよう。
私はコップの水を呷った。手が震えている。
「30分……」
その数字の裏に、フレックス勤務の母の顔、本田さんの杖、青木の疲れた瞳、宮本のため息、石黒の眉間の皺、佐久間の赤い滲んだインク――すべてが重なる。
数字で測れるのは需要だけ。測れないのは、預けられない親の絶望、500円の給食代にため息をつく祖父、昭和40年代の五円玉の重さ。
私は窓に額を押し当てた。冷たい。
市政とは、『30分』という数字で測れる人間の孤独を、どうにか光で照らすことだ。
看板のLEDがまた点滅する。雨上がりの星明りのように、弱く、しかし確かに。
私は胸の奥に、その光を刻んだ。
2024年10月15日――一日が終わる。
まだ青い銀杏の葉が、風に揺れ、やがて色づく。
私は書斎の明かりを消し、闇の中で呟いた。
「次の朝、まだ雨なら、傘を差して、保育所の屋上へ行こう。看板を直して、数字の下に、小さな手形シールでも貼ってやろう」
そうすれば、少しだけ、光が増えるかもしれない。
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