八月のハーレー

裏桔梗

八月のハーレー(1)

 蝉の声が喧しい八月の日だった。

 息子は一人、家で携帯ゲームに興じていた。

 興じているというか正確には、クリスマスの時だけしかソフトを買ってもらえないため、もうやり飽きているやつを惰性でプレイしているわけだ。

 最高記録だあ、なんて叫んだところで、虚しいものである。

 息子は今年で小学三年生である。

 幼い頃からひどく病弱で、特に小児喘息の発作が激しく、月に一度は呼吸困難で死ぬ思いを味わい、また、風邪をひくとすぐにオーバーヒートし、四十度近い熱がぷうっと出る。当然、学校は休みがちである。

 今日も、お母さんと山の方へハイキングに行く予定だったのだが、朝、熱を測ったら三十八度近くあり、急遽予定はキャンセルされた。

 かといって、お母さんは息子の看病をするわけでもなく、仕事場の介護施設に電話をかけると、すたこら出かけてしまった。

 べつに薄情というわけではない。

 お母さんも心配なのはやまやまだ。

 でも母子家庭で、お父さんの仕送りという高尚なものもないのだから、お母さんは寸暇を惜しんで稼がねばならないのである。

 このお母さんとお父さんは、高校時代はいわゆる落ちこぼれであって、あまつさえ二年生の夏に息子を孕ませてしまい、なので学校を退学して結婚するに至った。

 お父さんも始めの頃は真面目に働いたらしいが、一攫千金いっかくせんきんを狙う山師的メンタリティーの持ち主だったため、定職は長続きせず、代わりに怪しげな事業を次々と起こし、そのたびに敗北と借金苦を味わった。残念ながら、メンタリティーと才能は別物である。お父さんは挫折の人だった。しかも、駄目人間のわりには不思議と女に好かれ、だらしのない浮気を幾度となく繰り返した結果、息子が小学校に入学した年、とうとうお母さんから離婚を申し渡された。

 離婚後、そんなお父さんも最初の一年は週に一回、息子との面会日に会いにきてくれていたのだが、それがだんだん月に一回、三ケ月に一回となり、あまつさえ、二年目以降はすっぽかすようになった。

 一度ならばまだしも二度三度と、約束の時間に待ち合わせ場所へ現れないお父さんに対し、お母さんは怒り心頭で、せっかく息子が楽しみにしているのに何たる父親かと、頭から湯気をぽっぽとさせた結果、遂に息子へ「お父さんはもう死んだ」通告を出した。

 でも、息子はお父さんが大好きだった。

――きっと、お父さんは、また何かを企んでいるに違いないのだ。それで大金持ちになって僕たちを迎えにきてくれるはずなのだ。お母さんは女だから、お父さんの凄さをいまいち理解できないのである。

 などと息子は、あり得ないお父さんの成功を思い描き、それが幻想だという自覚も実は半ばあったが、受け入れる理性はまだ育っていなかった。

 そんな息子の健気にも拘らず、実際のお父さんは、確かに何かを企んでいたのは事実だが、またしても法に触れることを企んでいたのであり、しかもずさんな計画のために仕事は当初の段階で早くも破綻をきたし、現在、逃亡中の身だった。

 相手が警察だけならばまだしも、裏の世界の人にも狙われていた。

 しかし、息子がそのことを知る術は、超能力者でない限り、ない。


 息子は、ゲームをするのに疲れ、コントローラを放り出し、仰向けに寝転がる。

 今日は子供にとっては夏休みだが、大人にとっては平日なので、薄い壁ごしからの隣室の物音はしない。さらに、クーラーの室温を保つために窓は閉めてあるので、みんみんとうるさい蝉の声も、なんだか別世界からの呻き声のようだ。

 急に、静寂が怖いみたいな心持ちになった。

 息子は、タオルケットを頭まで被り、目を閉じてさらに耳まで塞ぐ。

 すると、ざく、ざく、ざく、と、自分の心臓の鼓動が、まるで軍隊の行進していくような音に聞こえた。今、軍隊は自分の家の前を行進している。地獄の亡霊軍隊だ。子供の魂を狙っているのである。ひい、どうか、僕の家の前で止まらないで。などと、息子はそのうち本気になって祈るのである。

 もっとも、地獄の亡霊軍隊の行進が止むのは、すなわち息子の命が潰えた時であり、それこそ魂をさらわれる事態に相成るのだが。

 と、その時なのである。

 窓をコツコツと叩く音が聞こえた。

 ような気がした。

 ハッとして息子は耳から手を離す。

 コツコツ。

 確かにリアルな振動として窓を叩く音がする。

 ひいい地獄の亡霊軍隊だあ!

 息子はショックで死にそうになった。

 というのも、ここは市営団地の二階なのであり、いくら息子をからかいにきた近所の悪戯っ子でも、そこまではしないからだ。

「ていうか泥棒だ」

 息子は現実的に判断をくだし、ホフク前身で電話の所まで這って、お母さんの携帯の番号をダイアルしようとしたのだが、窓ガラス越しに聞こえた「息子よ」という声は、聞き覚えのある懐かしいものだった。

「お父さん?」

 息子は、電話の受話器を戻し、窓枠の傍へおそるそおそる近づく。

 お父さんが雨どいを伝って、窓から顔を覗かせており、息子にニンマリしながら手を振った拍子に、もう片方の手を滑らせ、どすんと地面に叩きつけられた。

 しかし、お父さんは、頭はスペシャル級のボケナスなのだが、体だけは無駄に頑健に作られていた。

「さあ、飛び降りて来い!」

 お父さんは、落ちた場所でそのままひょいと立ちあがると、息子に向かって大きく手を広げた。

 息子は、玄関から出て、階段を使って階下に降り立つ。

 思惑の外れたお父さんは、ちょっと拗ねて、口をタコのようにさせた。

「どうしたの、お父さん?」

「どうしたもこうしたもあるか。こんなに良い天気なのだぞ。家にいる奴があるか。海へでも行こうじゃないか」

 言いながら、お父さんは白い歯をきらりとさせた。

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