【NTR→ざまぁ】天才物理学者の俺、ゲス配信者に恋人を寝取られ社会的に抹殺されるも、スパコンでデータを解析し、世界同時中継で公開処刑します。

ネムノキ

第1話

 深夜零時をとうに過ぎた大学の研究棟は、深海のような静寂に満たされていた。


 音という概念すら忘れさせるコンクリートの回廊で、天野律樹の研究室だけが、文明の最後の灯台のように白々とした光を漏らしている。


 部屋の主である律樹は、壁一面を占める巨大なホワイトボードの前で腕を組んでいた。

 身長は高いが、よれた白衣と履き古したジーンズが、その学究的な雰囲気を生活感のベールで覆い隠している。整ってはいるが手入れを放棄された無造作な髪が、彼の意識が今この場所――三次元空間――にないことを雄弁に物語っていた。


 彼の精神は、時空の最小単位を記述するという、人類の知性が挑む最も深遠な海に潜っていた。


 ホワイトボードを埋め尽くすのは、常人には呪文か暗号にしか見えない複雑怪奇な数式。

 だが律樹にとってそれらは、宇宙の真理を綴る最も美しい詩だった。


 空間は滑らかなカンバスではない。これ以上分割不可能な最小単位の「量子」が織りなす布地なのだ。

 その仮説の先に、物理学の二つの巨大な大陸、一般相対性理論と量子力学を繋ぐ橋が架かるはずだった。


「……違う。この項では、理論の根幹を成す対称性が、完璧に保たれていない……」


 独り言が、静寂に小さな波紋を立てる。


 机の隅では、飲み干されたインスタントコーヒーの紙コップが小さな塔を築いていた。食事も睡眠も、宇宙の構造という大問題の前では些末なノイズに過ぎない。


 その時だった。


 彼の思考の海を切り裂くように、ラップトップから軽快な電子音が鳴り響いた。

 世界でただ一人、彼の聖域へのアクセスを許可された人物からのコールサイン。


 律樹は一瞬、現実世界に引き戻されたことに戸惑いながらも、ゆっくりとデスクに向かった。

 モニターに表示された名前――『佐久間 夕寝』――を見ると、彼の口元に、自分でも気づかないほどの微かな笑みが浮かんだ。


 通話ボタンをクリックすると、画面いっぱいに、律樹の世界とは正反対の色彩と熱気が溢れ出した。


「りーつきっ! やっほー、起きてる?」


 画面の向こう側、一万キロメートル近く離れた東南アジアの安宿の一室から、太陽そのものみたいな笑顔が弾けた。


 恋人である佐久間夕寝は、日に焼けた健康的な肌をタンクトップからのぞかせ、大きな瞳をキラキラと輝かせている。背景には、使い古されたバックパックと、異国の言葉が書かれた菓子の袋が散らかっていた。


「ああ、起きてるよ。そっちは……昼過ぎか?」


「うん! 今ね、市場でめちゃくちゃ美味しい麺料理見つけちゃって! 見てこれ!」


 夕寝は興奮した様子で、湯気の立つ器をカメラに近づける。香辛料の複雑な匂いが画面越しに漂ってくるような錯覚さえ覚えた。


 律樹の世界が、静的で、抽象的で、モノクロームであるならば、夕寝の世界は、動的で、具体的で、極彩色だった。

 バックパッカーとして世界を旅し、その様子を『Yune's Earth Walk』というチャンネルで配信する彼女は、まさに自由の象徴のようだった。


「すごいな。美味しそうだ」


 律樹はそう答えるのが精一杯だった。


「でしょ!? このスパイスの配合、絶対に物理学の法則じゃ説明できないくらい複雑で美味しいんだから! 律樹にも食べさせてあげたいなあ」


 屈託なく笑う夕寝に、律樹の心は和らぐ。

 だが、彼女の言葉は、二人の間に横たわる途方もない距離を、残酷なまでに明確にした。


 彼は、彼女に「美味しいね」と微笑みかけることも、危険な目に遭いそうな時に、その手を掴んでやることもできない。

 自分の愛情は、いつだって抽象的で、未来にしか向けられていない。彼女が今、この瞬間に欲しているであろう温もりとは、あまりにかけ離れていた。


 律樹にできるのは、ただ一つ。

 研究者として成功し、揺るぎない安定を手に入れること。いつか彼女が旅を終えて帰ってきた時に、安心して羽を休められる場所を用意すること。

 それが、口下手な彼が信じる、唯一の誠実な愛の形だった。


「……最近、チャンネルの調子はどうなんだ?」


「それがね、すごく良いの! この国の特集を始めてから、登録者数も一気に増えて。『Yuneのおかげで旅に出たくなった』とか、コメント欄がすごい盛り上がってて、毎日チェックするのが楽しくて!」


 夕寝は嬉しそうに報告する。

 再生回数やコメントは単なる数字ではない。それは彼女の生き方が、世界から承認されている証だった。

 律樹はそれを知っていた。そして、その承認欲求が、時に彼女を脆くさせることも、うっすらと感じてはいた。


「そうか。良かったじゃないか」


「うん! ……でもね」


 夕寝の声が、ほんの少しだけ陰る。


「たまに、『今どこにいるの?』ってしつこく聞いてくる人とかいて……。そういうの見ると、やっぱり一人だし、ちょっとだけ、背筋が寒くなるかな」


 画面の中の彼女は、いつも明るく、誰よりも強いように見える。だが、辺境の地で見知らぬ文化の中に身を置く孤独と不安は、律樹の想像を超えるものがあるだろう。


「……君の個人情報が、過去の動画から漏洩していないか、僕の方でアルゴリズムを組んで検証してみようか? デジタル上の痕跡なら、消せるかもしれない」


 絞り出した言葉は、いかにも彼らしい、不器用で直接的ではない優しさだった。

 今すぐその隣に駆けつけ、抱きしめてやることもできない物理学者の、精一杯の提案だった。


「ううん、大丈夫! ありがとう。律樹がそう言ってくれるだけで、すごく心強いよ」


 夕寝はすぐにいつもの笑顔を取り戻した。

 彼女はいつもそうだ。律樹に心配をかけまいと、決して弱さを見せようとはしない。その健気さが、律樹の胸を締め付けた。


「律樹こそ、研究は順調? もうすぐ、すっごく大事な学会があるんでしょ?」


「ああ……。来月の国際学会だ。ここで成果を発表できれば、僕らの未来も、少しは安定すると思う」


 律樹はホワイトボードに目をやった。

 あの数式の迷宮の先に、夕寝との未来が繋がっている。そう信じることで、彼はこの孤独な研究に耐えていた。


「そっか。頑張ってね! 世界で一番応援してるから!」


「ありがとう」


 純粋なエールが、乾いた心に染み渡る。

 二人の会話はいつもこんな風だ。互いの世界を尊重し、応援し合う。だが、その二つの世界が交わるのは、この小さな液晶画面の中だけだった。


「……あ、そうだ」


 夕寝が何かを思い出したように、声を上げた。


「最近ね、こっちで知り合った日本人の人が、撮影とか色々手伝ってくれてるんだ。すっごく旅に慣れてる人で、本当に助かっちゃって」


「日本人? そうなのか」


 律樹は相槌を打ちながら、胸のどこかで微かな警報が鳴るのを感じていた。


「うん。中村次郎さんっていう人。彼もトラベル系のインフルエンサーで、機材とかにも詳しいから、アドバイス貰ったりして」


「中村、次郎……」


 律樹は無意識にその名前を反芻した。


「うん! 次郎さんがいてくれると、夜道を歩く時とかも安心だし。おかげで、今まで行けなかったような場所にも撮影に行けるようになったんだ。律樹にはできない、なんて言うか……即物的な安心感? すごく頼りになるの」


 その悪気のない言葉が、律樹の心臓を冷たい針で刺した。

 嫉妬というよりも、自分の不甲斐なさに対する痛みだった。彼女が本当に不安な時に、隣にいて守ってやれるのは自分ではない。見ず知らずの、別の男なのだ。自分が提供できない「即物的な安心感」を、その男は与えている。


「……そうか。それは、良かった」


 本心とは全く違う言葉が、口から滑り出た。

 夕寝の仕事が順調なら、それでいい。彼女が安全なら、それでいい。そう自分に何度も言い聞かせた。


 その後も二人は、他愛のない話をした。律樹が次の論文のテーマについて熱く語り始め、夕寝が少し眠そうな顔で相槌を打ったところで、通話は終わりを告げた。


「じゃあ、そろそろ寝るね。律樹も、あんまり無理しちゃダメだよ?」


「ああ。おやすみ、夕寝」


「うん、おやすみ」


 夕寝が名残惜しそうに手を振る。

 彼女が画面の通話終了ボタンに指を伸ばした、まさにその瞬間だった。


 律樹との会話が終わることに安堵するような、それでいて、これから始まる何かを予感するような、複雑な光が彼女の瞳をよぎったのを、律樹は見逃さなかった。


 ガタリ、と。


 彼女の背後で、安宿の簡素なドアが開く音がした。


 そして、一人の男が、部屋を横切るように姿を現した。

 三十歳くらいだろうか。日に焼けた肌に、爽やかな笑顔。アウトドアブランドのTシャツをさりげなく着こなし、鍛えられているのが分かる体躯をしている。

 夕寝が口にした、中村次郎という男だろう。


 彼は律樹の存在には気づいていないかのように、この部屋の主であるかのような自然な動作で、部屋の奥へと通り過ぎていく。


 夕寝はまだ、彼の出現に気づいていない。

 律樹も、ただ呆然と画面を見つめていた。息が止まる。こんな時間に、なぜ他の男が彼女の部屋に?


 疑問が脳を焼くよりも早く、事態は動いた。


 部屋を通り過ぎる、ほんの一瞬。

 その男――中村次郎は、夕寝の肩に軽く手を置いた。そして親指で、彼女の鎖骨の窪みを、所有物を確認するかのように、ごく自然に、しかしねっとりと辿った。


 その瞬間、次郎は律樹にだけ見える完璧な角度で、ちらりとカメラに視線を向けた。


 そして。


 その口元に、笑みを浮かべた。


 それは、夕寝に見せるような人当たりの良い笑顔ではなかった。

 もっと原始的で、捕食者のそれに近かった。

 すべてを見透かし、すべてを計算し、これから始まる遊戯を心の底から愉しんでいるかのような、挑戦的で、侮蔑に満ちた笑み。


 その視線は、モニターを貫通し、一万キロの距離を超えて、律樹の心臓を直接抉るようだった。

 『お前の信じる理論や未来など、この生身の女の前では何の価値もない』。

 声には出さず、その瞳がはっきりとそう告げていた。

 律樹の知性も、彼の築き上げてきた世界も、その全てを嘲笑っていた。


「え……」


 律樹が声を漏らす間もなく、夕寝の指が、まるで何かから逃れるように慌ててボタンに触れ、通話はぷつりと途切れた。


 画面は、漆黒に変わった。

 そこに映るのは、血の気を失い、呆然とした表情の、自分自身の顔だけ。

 机の隅に置かれた、夕寝と二人で笑う写真立てが、まるで過去の遺物のように見えた。


 研究室に、再び深海のような静寂が戻ってくる。

 だが、その静寂は、先程までのものとは全く異質だった。


 ホワイトボードの数式は、ただの意味のない記号の羅列に変わってしまった。

 宇宙の真理も、時空の構造も、今となってはどうでもよかった。

 人類の知性の結晶であるはずのそれらは、たった一人の男が浮かべた悪意の笑みの前で、無残なガラクタと化した。


 胃の奥からせり上がってきたのは、単なる吐き気ではなかった。

 それは、完璧な論理体系に紛れ込んだ「バグ」を発見した時の、あの冷徹な興奮。


 あの男の笑みは、解明すべき異常現象。

 あの女の瞳に宿った光は、検証すべき仮説。


 宇宙の真理を探究するはずだった律樹の知性が、今、初めて人間という最も不可解な現象に、その矛先を向けようとしていた。


 欺瞞を暴き、真実を証明するために。


 彼の構築してきた完璧な論理の世界に打ち込まれた、最初の、そして最も悪質な癌細胞。

 それはこれから始まる悪夢の、静かな、しかし確かな序曲だった。

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