いつく
七乃はふと
いつく
その日は雨が降っていた。
窓を叩く強さから、傘が必要なほどの勢い。
地下室の扉の上で座り込んでいた僕の耳が、雨以外の音を捉える。
バシャバシャと水溜まりを踏みつける音が小屋の扉の前で止まった。鍵の壊れた扉が開き、飛び込んできたのは赤いランドセルだった。
体当たりするような勢いで飛び込んで来たランドセルから人影が現れ、開けっ放しの扉を閉めた。
「突然入ってきてごめんなさい! 雨やどりさせてください!」
女の子は誰も見当たらないことに気づき、お気に入りのぬいぐるみを抱きしめるように、消毒用アルコールをぶら下げたランドセルを胸に抱く。傘も持たずにここまで来たのか、おさげの先端や服の裾から雨雲のように水滴を垂らしている。
眉を垂らした女の子は、扉と室内に視線を行ったり来たりしていたが、ランドセルに力を込め、奥に歩き出した。
室内は傷だらけの窓からの光しかなく、女の子にとっては薄暗い事この上ないだろう。
簡易なベッドを見つけて、手を伸ばしかけた女の子が手を止める。傍らの床に作られた扉を見つけてしまったようだ。
普段ならお目にかかることのないであろう、地下への入り口によって、不安が好奇心のペンキにに塗りつぶされたのか、扉に近づいていく。
最初はランドセルを抱えたまま取っ手を引っ張っていたが、無理と判断したのか、床に置いて両手で取ってを引っ張り始めてしまった。
重い扉は、小学生の彼女には持ち上げられないだろうし、ましてや外から掛け金がかかっているので開かない。
扉を引っ張る音が止み、室内が雨音で満たされた頃、不意に女の子の声を漏らした。
「これなに? 引っかかってる」
「触っちゃ駄目」
僕の声を聞き天井を見上げた女の子が悲鳴を上げて尻餅をつく。
まずい。姿を見せてしまった。
女の子は、唇を戦慄かせランドセルを拾い上げ、
「勝手に入ってごめんなさい」
僕の体をすり抜け、猛ダッシュで扉を開けた。待ってましたと言わんばかりに雨と風が入り込んでくる。
「早く閉めて」
扉を閉めてもらった時には、床の半分が水浸しになっていた。
その光景に堪えきれなくなってしまったのか、遂に女の子は泣き出してしまうのだった。
泣き止んだ女の子は今、毛布に包まりベッドに座っている。
本当なら、着替えやタオルなどを用意したかったのだが、粗末な小屋にそんな上等な物はなかった。
濡れ鼠の彼女は歯の根が合わないほど震えている。
少しでも寒さを紛らわせるために、こんなところにいる理由を聞いてみた。
「パパとママずっとケンカばかり。ある日こう聞かれたの『パパとママ、どっちと一緒にいたい』って」
「なんて答えたの」
「答えられなかった。だって二人とも好きだもん。三人一緒がいいもん! 絵本の王子様とお姫様は一緒になって幸せになるのに、なんでパパとママはバラバラになろうとするの!」
そばにあったランドセルを何度も何度も何度も叩いて、
「二人とも嫌い。りこんしないでって言ったら怒って叩いた。わたしはもういらない子なんだ。だから家出したの」
「ここまで一人で来たの」
「うん。パパとママに人がいなくなるこわい森だから入っちゃ行けないって言われたんだけど、入ったの……そしたら」
怒りに大きくなっていた声音がみるみるか細くなっていく。
「大きなワンちゃんがいて近づいたら、牙を見せて吠え出して。怖くなって逃げ出したら追いかけてきて。それでここを見つけて」
「逃げ込んだんだね」
「うん。ごめんなさい。おにいさんの家、勝手に入っちゃって」
「ここは僕の家じゃないんだ」
「じゃあ、おにいさんも家出?」
「そんなものかな」
「おにいさんのパパとママは探しに来ないの?」
「どうだろう。僕隠れるのだけは得意だから」
床にある地下への扉に目を向ける。
「おにいさん?」
女の子が閃光に驚いて悲鳴をあげる。
天気はいつの間にか雷雨に変わっていた。雷が窓の外にいる影を映し出す。
二つの耳がピンと立ったそのシルエットは、僕には忘れることのできない姿だった。
「あ、あれ、わたしを追いかけてきたワンちゃん」
女の子を見つけたのか、犬は唸りをあげ自慢するように牙を見せつけてくる。
「おにいさん。ずっとこっち見てる」
女の子は盾にするようにランドセルを胸の前で抱く。
雨に濡れるのも構わず犬が吠え出す。その音圧は傷だらけのガラスを砕いてしまいそうだ。
ランドセルから微かな振動音が聞こえてきた。
「この音は、もしかして携帯電話」
「う、うん。パパがくれたの。何かあったら電話しなさいって」
「電話、壊れてないんだね」
女の子がランドセルから取り出した携帯の画面には親子三人の写真と、父親からの着信。
「すぐ出るんだ」
「で、でも、家出したから怒られる」
外の犬が、以前と同じように前足の爪で窓を引っ掻き始めた。
「パパもママも怒らない。君が電話に出てたら喜んでくれる。だから早く助けを呼んで」
煮え切らない様子の女の子だったが、犬が窓に体当たりをする迫力に圧されるように、携帯を耳につけた。
これで一安心と言いたいところだったが、何度も強い衝撃を与えられたガラスが砕け、窓枠がひしゃげる。出来上がった小さな隙間に体が擦れるのも構わず、入り込んできた。
唸る犬の侵攻が止まる。体毛が壊れた窓枠に引っかかったようだ。
「おにいさん。すぐに助けが来るって」
この間に考えなければ、あの子を助けるには。
辺りを見まわし、ランドセルに目を止めた。
「聞いて。君に大変なお願いをしなければいけない」
「なに?」
犬がもがきながら室内に牛歩で進んでくる中、僕は撃退方法を教えた。
「わたしがやらないと駄目なの」
「君にしかできない。僕は触れることはできないんだ」
「怖いよ。パパとママが来るまで待ってた方が」
「あいつが入ってくる方が早い」
犬の後ろ足だけが引っかかっている状態で、いつ入ってきてもおかしくない。
「だから頼む。力を貸してくれ」
こう話している間にも犬の前足が床につく。
「おにいさん。応援しててね」
「まかせろ」
彼女は体の前に持ってきたランドセルで身を守りながら、ジリジリと近づいていく。
窓枠と格闘していた犬が気づいて吠え出した。
「きゃあっ」
威圧され、倒れ込んでしまう彼女。
「こわい、こわいよ。パパ、ママ、おにいちゃん」
「大丈夫だ。僕も一緒に立ち向かう」
手を彼女の手の甲に添えた。
「震えてるの?」
「今はあいつを追い払うことに集中」
彼女の手が動き、ランドセルにぶら下がっていたものを掴む。
窓枠が完全に破壊され、犬の全身が雨風と一緒に入ってきた。
大きく開いた顎門は、彼女の頭を簡単に噛み砕いてしまうだろう。
「あっちいけぇぇ!」
彼女が投げた物に反射的に噛み付く。意図も容易く容器が噛み砕かれ、中に詰まっていたアルコールが犬の口の中いっぱいに広がるのが、はっきりと見えた。
キャンキャンと子犬のように鳴きながら頭を振ると、アルコールでスースーするであろう舌をダランとさせながら、回れ右をして窓から出ていった。
「やった。わたしたち勝ったよ。おにいちゃん……おにいちゃん?」
野犬を追い払ったわたしは、駆けつけた救助隊と両親に助けられました。
その森では度々子供が迷い込み、行方不明になっていたそうです。
最初は信じてもらえなかったけど、おにいちゃんはすぐに見つかりました。
わたしが発見された小屋の地下室に一人寂しく息を引き取っていたそうです。
あれから毎年。おにいちゃんの墓に感謝を伝えにいっています。
今日は雨が降るなかのお墓参り。
悩みを打ち明けると、傘を叩いていた雨粒は静かになり、雲間には眩しいお日様が輝いていました。
―おしまい―
いつく 七乃はふと @hahuto
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