心薫りづく喫茶店

藤谷葵

第一章

【前書き】

物語はフィクションです。

アロマは医療行為ではありません。

アロマは必ずしも効果が出るとは限りません。


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【本文】

 あたしは重い足取りで残業から帰る途中、こじゃれた喫茶店を見かける。明かりがまだ灯っていて、あたしはふらりとお店に引き寄せられる。



「いらっしゃいませ。そろそろラストオーダーになりますが、よろしいですか?」



 あたしは「はい」と答える。明日も自分が犯した計算ミスの修正をしなければならない。明日に備えて息抜き気分で店内へと入った。


 店内はカウンター席とテーブル席がある。その境界線に、木製の間仕切りがあり、上部はガラス張りになっている。



(分煙かな……)



 あたしはそう思ったが、どちらが禁煙エリアとかの注意書きは書いていない。仕事で疲労した脳を明日に備えてリフレッシュさせたくて、吸い込まれるようにカウンター席に座った。


 カウンター席も隣の席の人と空間を分けるように、木製の仕切りがある。疲労していて、今のあたしは他のお客さんが横にいると落ち着かないので、この仕切りはありがたい。まあ、今はもう閉店間際で他のお客さんはいないけど。


 メニューを探すが、手元にはない。ふと、カウンター内の壁を見たときに、『火元責任者:香園紗耶香』と書いてある白いプレートが見えた。



(今、あたしを接客している人がお店のマスターの香園紗耶香さんかな? それともバイトさんかな?)



 そんなことを動かなくなりつつある脳で考えていると、声をかけられる。



「ご注文はお決まりですか?」



 そう言われて、店員さんの顔を見上げる。その際に、ネームプレートが視界に入った。確かに『香園』と書いてあった。


 この若さで喫茶店のマスターとは、自分と違い凄いなと思ってしまう。あたしみたいに立て続けに計算ミスをしてしまっていては、喫茶店なんて経営できないであろう。



「えっと……メニューがないみたいなんですけど……」



 香園さんは、にこりと微笑む。



「普通の喫茶店にあるようなものなら取り揃えてあります。レモンティーがお勧めです」

「あ、えっと、じゃあそれで」



 メニューがないという不思議な喫茶店。お高い喫茶店だったのではないかと、不安がよぎる。


 すると、ふわりと香りが漂ってきた。

 これはレモンティーの香りではない。なんだろう? と鼻をひくひくとさせてみる。花の香りのような気がする。


 そんなあたしの様子で気づいたのか、香園さんが説明をする。



「これはスイートオレンジとローズマリーのアロマをブレンドして、焚いたのですよ。計算ミスが減ったり、精神的疲労を回復して、作業効率を高めたりします」



 そう答えながら、香園さんは指先でアロマポットをトントンと優しく叩く。

 あたしはそれを眺める。



 『計算ミスが減る』



 今のあたしに打ってつけである。そう思っていると、レモンティーも出てきた。

 あたしはレモンティーのカップを口につける。レモンと紅茶の風味が、口いっぱいに広がり、頭がすっきりしてくる。



「レモンティーにはビタミンCが含まれているので、血流が改善して頭がすっきりしますよ」



 そう説明を聞いて感心しながら、もう一口啜る。確かに頭がすっきりしたかもしれない。先ほどの『分煙かも』と思っていた考えが、間違いだったということに今更ながらに気づく。


 『分煙』ではなく、カウンター席はアロマ専用ということなのであろう。

 先ほどまで重い気分が軽くなったような気がする。ローズマリーのアロマや、レモンティーの効果かどうかは分からないけど、『明日は計算ミスを減らせる!』と想いを馳せる。



「香園さんって、このお店のマスターをしているんですか?」



 気分を変えたいので、気になっていたことを興味本位に聞いてみた。

 すると、香園さんは小さな長方形の紙を、あたしに手渡してきた。


 あたしが手渡された紙は名刺。あたしは名刺をまじまじと見つめる。その中央には『芳香喫茶』『香園紗耶香』と書いてある。

 あたしはそれを読み上げる。



「ほうこうきっさ? こうぞのさやかさんって名前なんですね」



 紗耶香さんは「そうよ」とだけ口にして、後は笑顔で肯定をした。

 あたしは受け取った名刺を鞄にしまうと、あたしも自分の名刺を慌てて取り出して、手渡す。



「あ、あの、あたしは若宮凪沙と言います」



 そこまで行い、自分のうっかりに気づく。ここは会社ではない。名刺交換の必要性はないことに。


 自分のうっかりミスを誤魔化すように、紗耶香さんに話しかけた。



「『芳香喫茶』って書いてありましたけど、それでアロマを焚いているんですね。なんでそういう喫茶店をやろうって思いついたんですか?」



 仕事で疲労していたはずのあたしの頭が覚醒したので、気になる点を聞いてみた。

 紗耶香さんは、頬を右手の人差し指でポリポリ掻きながら、恥ずかしそうに答えた。



「アロマとかが好きだからですね。まあ趣味の延長上、この喫茶店をやろうって決めました」



 その言葉を聞き、あたしは再度、店内を見渡す。

 普通の喫茶店と少し違ったつくり。だが、アロマオイルの性質上、癒しの空間が作りこまれている。



「だから、仕切りが多いんですね」



 この喫茶店のコンセプトを知り、店の作りが変わっていることに納得すると、あたしはまたレモンティーを一口啜る。そして、カップを両手で包み込む。じんわりと温もりがあたしの手から伝わってくる。



「気に入っていただけました?」



 あたしがレモンティーを口にした直後なので、その質問の意味が、レモンティーを気に入ったのか、お店を気に入ったのか、どちらの意味で言っているのかは、わからない。だが、アロマ漂うお店にも、レモンティーにも疲れた心と重い頭をすっきりさせてもらい、どちらもあたしは気に入ったので、肯定一択。



「はい、とても気に入りました」

「そうですか。それはよかった」



 紗耶香さんの笑顔に釣られたかのように、あたしも笑顔になる。

 そして、ふと現実時間を思い出す。



「あ、そう言えば閉店間際でしたね。そろそろお暇します。また来ますね」

「はい、またのご来店をお待ちしております」



 紗耶香さんは笑顔でお辞儀をした。あたしはお会計を済ませて、お店、『芳香喫茶』から出た。


 あたしは夜空を見上げる。星空とは言えないが、一等星とかの明るい星は見えている。右手のこぶしを真っすぐに上にかざし、その星に誓う。



「よし! 明日も頑張るぞ!」



 道行く車の音よりも大きな声で、気合を入れた。


***


 翌朝。ベッドから上体を起こし、大きく伸びをする。


 久しぶりにすっきりとした目覚め。近頃は毎朝起きると疲労感を抱えていたので、こんな良い目覚めをしたのはいつぶりだろうと思いながら、洗面所に顔を洗いに行く。


 ばしゃりと冷たい水を顔にかける。更に覚醒度が増す。

 ふわふわのタオルで顔をポンポンと拭きながら、鏡を覗き込む。


 そこには今までの隈ができてどんよりとしたようなあたしではなく、爽やかな笑顔をしている。


 そこで昨日の夜の出来事を思い出す。



(昨日の喫茶店……芳香喫茶だっけ。なんか不思議な体験をした感じだな~)



 ぼんやりとそんなことを思い出しつつ、朝食の支度をする。

 普段はシンプルに、ジャムトーストとコーヒーである。

 昨日のことが頭から離れず、紅茶のティーパックを探す。



(あった!)



 食器棚の下から、買ってまだ開けていないティーパック。それを開けるとふわりと紅茶の香りがした。


 昨日のアロマもよかったけど、この紅茶の香りもいい匂いである。



(えっと……レモンあったかな……)



 あたしはおしゃれに輪切りのレモンを浮かべることを想像した。だが、冷蔵庫にあったものは、レモン自体ではなく、小さなボトルに入ったレモン汁。



(……まあ、これでもいいか)



 あたしはお湯を沸かす。その短い時間で、ひとまずパジャマから部屋着に着替える。


 少しすると、あたしを呼ぶように、やかんがピーっと音を立てる。あたしは慌ててその子を宥めるために、ガスコンロのスイッチを切る。


 そして、マグカップにティーパックをセットして、お湯を静かに注ぐ。

 ティーパックから、琥珀色の液体が滲み出てきた。ティーパックのヒモを上下させて、琥珀色をもっと出すように急かした。


 そして、マグカップは琥珀色一色になった。ティーパックを引き上げて、レモン汁を数滴垂らす。すると紅茶の香りと柑橘系の香りが混ざった香りが、あたしの花をくすぐる。


 あたしは待ちきれずに、マグカップを口にした。



「あちっ!」



 猫舌のあたしは、ベロを火傷しそうになった。思わず昨日の紅茶と比較をしてしまう。昨日の紅茶はすぐに飲めるような適温だった。熱すぎず、かといって冷めているわけでもなく。


 息をフーフー吹きかけて、冷めたと思われる上澄みの所を、ちょびっと啜る。そして、いつも通りのトースターを準備する。


 ルーティン化されているその作業は、トースターがチンと音を立てると、カリカリのきつね色に着替えたトーストが現れる。


 そこへ冷蔵庫から取り出しておいたジャムを取り出す。いつもならいちごジャムだが、レモンティーの柑橘系の匂いにかどわかされて、マーマレードジャムにした。

 きつね色に着替えをしたトーストに、更に色を重ねる……と言っても、似たような色だけど。



「頂きます!」



 ファッションショーを終えたトーストの端からあたしはかぶりつく。サクッとした歯ごたえと音が、更に美味しさを彩る。

 優雅な朝食を終えると、現実に戻される。



「やばっ! もうこんな時間!」



 あたしは着替えて、鞄を手に取り家を出た。


***


 満員電車に揺られて、会社へと辿り着く。


 小さな卸売会社。主に雑貨を扱っている。

 自分のデスクに座り、鞄を足元に置く。



(雑貨の数や種類が多いから、計算を間違えたりするんだよね……)



 心軽くなっていたのに、また岩を持たされているような重さが心に圧し掛かる。


 あたしの担当は、主に買掛金管理である。仕入れた商品の帳簿上の個数や金額の計算。


 今日こそミスをしないようにと、始業開始のチャイムが鳴る前から、仕事を始める。


 まずは、昨日の時点で見つけた計算ミスを直していく。

 その後は、今日の仕入れ処理分の計算を始める。

 カタカタと、キーボードを叩く。そんな時にふと気づく。



(あれ? 昨日よりも計算ミスがないような……)



 昨日のアロマや紅茶が影響しているのだろうか? いや、そんなはずはない。アロマオイルというのは、『医療行為』にはあたらないと聞いたことがある。要するに『自己暗示』のようなものにかかっているのかもしれない。


 『自己暗示』だと効果のある人とない人がいそうである。ともあれ、『医療行為』でなかろうが、『自己暗示』であろうが、なんにせよ、問題が解決するのはありがたい。



「昨日のミスは大丈夫?」



 背後から女性の声がして、パソコンのモニターから目を外し、あたしは振り向いた。そこには、経理部の先輩である、眉間にしわを寄せている如月さんの姿があった。



「あ、は、はい! 昨日の計算ミスは、ほぼ直し終えました。今は今日処理するべきの仕入れ分をやっています」



 あたしがそう答えると、如月さんの眉間のしわは消えて、笑顔になった。



「そっか。よかったよかった」



 頷いて、如月さんは自分の作業に戻って行く。あたしはその背中を見届ける。



(あたしも如月さんみたいに、仕事ができるようになるぞ!)



 その気合で、今日の仕事を順調に終わらせた。


***


 残業はしたものの、昨日よりは帰りが早い。その足取りの軽さのまま、昨日訪れた喫茶店、『芳香喫茶』に足を向けた。


 店内に入ると、カランとチャイムが出迎えてくれる。昨日は鳴った記憶はない。心に余裕がなくて、聞き逃したのだろうか。


 足が迷いなく、吸い込まれるようにカウンター席に座る。



「いらっしゃいませ。今日は早いですね。お仕事が順調だったのかな?」



 そんな言葉にドキッとする。紗耶香さんは、いつもあたしの心情を見抜いているような気がする。


 まあ、隠すようなことではなく、寧ろ良いことなので報告をしたくて口を開いた。



「ええまあ、そうなんですよ! 本当に計算ミスが減るって凄いですね! まるで魔法みたいです!」



 紗耶香さんは、ほほ笑む。



「ふふふ、魔法か。それは面白いですね」



 そして、一呼吸おいてから、「今日は何にします?」と注文を尋ねてきた。



「あ、それじゃあ、昨日と同じで、レモンティーをお願いします」

「はい、かしこまりました」



 紗耶香さんはそう言うと、食器を取り出して紅茶を入れる準備を始めた。

 その姿を目で追っていたら、昨日と同じ香りがふわりと漂ってきた。



(あ、この香り。確かスイートオレンジとローズマリーのブレンドって言ってたやつだ!)



 あたしはアロマポットに目をやる。真っ白で、所々に花柄の穴が空いている。そして、中でアロマを焚くためのランプが光り輝いている。


 夢中で眺めていると、紗耶香さんから声がかかる。



「お待たせしました。レモンティーです」



 カップに入ったレモンティーが、あたしの前に置かれる。その際、「いらっしゃい。僕を飲んで」と主張するかのように、カップはカチャリと音を立てた。



「どうぞごゆっくり」



 紗耶香さんは、笑顔で頭を軽く下げると、自分の仕事に戻って行った。

 あたしはレモンティーのカップを手に取り、一口飲む。やはり、自分が淹れるよりも適温である。


 カップをティーソーサーに置いて、あたしは店内を見渡す。


 ガラス仕切りの向こう側のテーブル席に、何人かのお客さんはいる。だが、背中をのけ反らして、他のカウンター席を遠慮気味に覗き込むものの、カウンター席のお客さんは誰一人いなく、あたしだけである。


 この空間がまるで『自分は特別』という感じにしてくれる。


 あたしはレモンティーの味と、アロマの香りを楽しんでからお店を出た。


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【後書き】

読んで頂きありがとうございます。


この作品は『キャラブン!』というコンテストに出そうと思っていました。

ですが、文字数が足らず、無理やり伸ばすと駄作になり、勿体ないと感じて、『読者さんが楽しんでくれればいいか』と考え、ウェブ小説サイトに投稿するだけとしました。


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