インセル
鍋谷葵
myself
六畳一間のアパートに大学生Aは住んでいる。
身長も、顔つきも、髪質も、すべてが普遍に属する彼は、薄暗い十四時に布団から抜け出た。すっかり綿の萎んだ敷布団は、半ば畳と変わらず、そのために体は凝り固まっていた。彼は合板の不自然な木目に向けて体を伸ばすと、大きな溜息を吐いた。彼は寝癖の着いたぼさぼさの髪のまま、再び布団に横になった。
枕元のスマホを手に取った彼は"X"を漁り始めた。フォロワー一四五人、フォロー数八七七人のアカウントに表示されるのは、バンドやアニメ、遠方の友人の近況であった。彼はそれをぼうっとしながら——思考は青白い光の中に放られていた——反射反応の如く指を動かし続けた。
三十分の無為を過ごした彼の思考は、徐々に意識へ回帰していった。青年の脳裏には「休日をまた無駄にしてしまった」という後悔が朧げに現れた。彼はそれから逃れようとスマホを布団に放って起き上がろうとした。
しかし、彼の本能は安逸な享楽に逃げ出した。
彼は再びスマホを取ると、"Youtube"を開いて動画を見始めた。能動的な行為に対し躊躇を常に覚える彼にとって、受動的な動画は時間と思考を放棄するにはうってつけであった。
矮小な自尊心は享楽の受容にさえ制限をもたらす。彼が見る動画は得てして政治系、歴史解説系、もしくはシニカル——最大限の賞賛の語である。これらのコンテンツを適切に評価するのならば、下手な諧謔で冷笑を誘う憐れむべき自嘲である——なインターネットカルチャーの動画ばかりであった。
享楽に制限を与える彼は動画に奇妙な笑みを浮かべた。主体的な感情の発露と客観的な観察に基づく演者の如き情、それらが混然一体となった表情が機械音声によって誘われたのだ。
彼はそうやって時間を潰しつつ、時折表示されるVtuberや声優のコンテンツに不快感を示した。眉間に皺を寄せながら、彼は胸中でそれらに侮蔑を注いだ。仮想空間において理想的な肉体を手にした者たちと理想的な肉体に声を当てる役割が、画面向こうの存在を意識的に騙している姿が彼にとって醜悪であった。
動く絵と声を当てる存在、彼ら彼女らを嫌悪しながらも彼はそれらのコンテンツを開いた。その上でこれに嘲笑を注ぎ、自らの虚無的な見栄を満たした。そのコメント欄やお便りへの侮蔑は彼の虚栄を築き上げた。脆く醜いそれは嬉々としてコンテンツを受容する者たちを見下す精神に昇華され、彼はそのうちに自らの安寧を見出していた。徹底的な消費者を見下ろす彼も、彼らを消費する一存在でしかなかった。
動画を見始めてから一時間後、彼が覆い隠そうとしていた不安の輪郭が明瞭になった。時間を無為に費やし、いよいよ休日を溝に捨てようとしている自分に対する嫌悪が渦巻き始めた。
不安というのは得てして生活の穴に現れる。したがって、これを埋めさえすれば多少は不安も紛れる。彼もそれを『試みよう』としたが、彼はその権利を手にしていなかった。
学部の同期や部活、サークル活動さえ自己愛撫に支えられた侮蔑によって拒絶した彼には、気軽に会える友人——もちろん、彼にも友人はいたが、それはいつでも遊び合えるような友人ではなく、心内の壁が表出してしまう相手であった——が一人もいなかった。彼は自分の力で無二の友人を作れなかった。その上、高校時代の生真面目な臆病さと持ち前の倦怠への志向が作用し、社会とのかかわりも拒絶していた。建前をそのまま綴れば、留年への危機感がアルバイトという行為を拒絶したのだ。本音と言えば、仕送りだけで生きていけるのだから働くだけ無駄という怠惰であった。
社会へのあらゆる拒絶がもたらした孤独は、一塊の不安となって彼を襲った。それは思考が『生に対する不信感』に向かっていく原動力となった。精神は生存の底に向けて圧縮された。徐々に一つの像が形成され、彼はそれを慄きながらも希求し、布団の上で体を丸めた。彼の脳髄にはいま、社会と自身に対する憎悪に満ち満ちていた。自らの選択の上に作り上げられた世界とその担い手の自己に、彼は強烈な拒絶を覚えた。もっとも、自己に関する拒絶は彼自身の愛撫(つまるところ、『彼は自らを嫌うことによって自らの存在に保証していたのだ』)であった。
拒絶は時間経過に従って深まり、ついに涙となって彼の乾いた双眸より溢れた。自らの世界を物理的に破壊する勇気もなく、そこからあらゆる手段をもって飛び立つ勇気もない彼にできるのは、静かに涙を流すことだけであった。臆病な選択によって形成された孤独は、勇敢なる自傷の選択を脳裏にちらつかせながらも、それを実行するだけの思いっ切りの良さを彼に与えなかった。
涙を流す彼はそこから脱しようと、再びスマホを手に取った。
彼は眠りたかった。この世界から自らの存在を消すためには、そうするほかないと彼の卑屈な脳髄が判断したのだ。
だが、彼は寝て起きてからまだ二時間と経っていない。眠気はなく、肉体は活動を欲していた。自然と社会の摂理に従えば、八時間の労働と数時間の運動がなければ彼の志向は不可能であった。
それでも彼の持つ機器は不可能を可能する。
彼は猥褻な漫画が違法アップロードされているサイトをほとんど反射的に開くと、長年の女性経験の不備ゆえの屈折した性欲を満たす漫画を開いた。画面に映される白黒の絵は、性消費の象徴であり、彼の陽物を瞬間的に屹立させた。彼はジャージのうちに怒張する孤独で醜悪な肉を淀んだ空気に晒した。彼はそれに手を伸ばし、陰惨なる行為に耽った。
掌に広がる遺伝子の死は生暖かった。彼はそれを傍らのティッシュでふき取り、ゴミ箱へ放った。そうして大きな溜息を吐くと、彼の肉体には不快な倦怠で満ちた。脳髄には靄が充満し、腐りきった胸中は一層強烈な孤独に満たされた。
性の充足は彼の狙い通り、意識の死をもたらした。自己愛撫による身勝手で、独善的で、あまりにも醜悪な死の希求はここに成就し、彼は不変の眠りについた。
大学生Aの生活はいまも変わらず、ただただ自然の摂理の一部として存在している。彼はたった一人、孤独のうちに自慰し、そこに満足を覚え、拒絶のない安寧の中で臆病にも死を願っているのである。
インセル 鍋谷葵 @dondon8989
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