匿名メロディー
Tom Eny
匿名メロディー
匿名メロディー
序章:交差する孤独な音
ユウキの部屋は、いつも薄暗かった。ディスプレイの放つ青白い光だけが、彼の顔を静かに照らし出す。キーボードを叩く乾いた音、マウスを操作するカチカチという音、そしてエアコンのフィルターが詰まったような、一定の低い唸りが、夜の静寂に虚しく響くばかりだ。彼は、誰にも届かない場所で、ひそかに音楽を紡ぐ日々を送っていた。
大学三年生のユウキは、極度の人見知りだ。自分の魂から生まれた詞とメロディーが、生身の人間によって歌い上げられることを夢見ていたが、その夢はあまりにも遠い。自分の作品が「生身の自分」と結びつくことで、批評されるのを極度に恐れていた彼は、ボーカロイドに自作の楽曲を歌わせ、匿名アカウントで動画投稿サイトにアップする。しかし、再生数は伸び悩み、コメント欄は寂しいままだった。
「もうこの夢は、一生叶わないのかもしれない」と、半ば諦めにも似た思いが彼の心を覆っていた。彼の音楽は、誰にも届かない無名の音として、ただそこに存在していた。
同じ頃、駅前の雑踏の中、ミオは古びたアコースティックギターを抱え、必死に歌声を絞り出していた。短大一年生のミオは、天性の美声に恵まれていた。だが、その歌声を披露できるのは、騒がしい路上ライブが精一杯だ。
遠くの信号が変わる音、ビジネスマンの足音の規則正しいリズム、焼鳥の焦げた匂い。様々なノイズが渦巻く中で、ミオの歌声は、ガラスの破片のように一瞬鋭くノイズを切り裂く。毎日、駅の目立たない一角で弾き語る彼女の歌は、誰の心にも響かない。足元の投げ銭ケースには、わずかな小銭が虚しく転がっていた。
「私の歌は、本当に意味を持つのだろうか」。彼女が路上で歌い続けるのは、有名になりたい以上に、その答えを知りたいという渇望があった。彼女の路上ライブは、粗い画質のセルフ撮影動画として、ひっそりと動画サイトにアップされていた。長い髪が顔にかかり、その表情がはっきりと映ることはなく、動画の概要欄には、**「この歌声が、誰か一人の耳にでも残りますように」**という、孤独な心情を吐露するような一文が添えられていた。
ユウキとミオは、お互いの存在を全く知ることなく、それぞれの「無名」な日々を過ごしていた。
第二章:見えない糸で繋がれた旋律
ある夜、いつものように創作に行き詰まったユウキは、気分転換に動画投稿サイトを巡回していた。ふと、おすすめ動画のサムネイルに目が留まる。それは、駅前で歌うミオの路上ライブ動画だった。
映像は遠く、表情ははっきりとは見えない。だが、その瞬間、雑踏のノイズの中でも埋もれることのない透き通るような歌声が、ユウキの心を強く、強く震わせた。「ついに、この声に出会えた」。
彼は夢中になってミオの過去の動画を**すべて見漁った。**彼女の歌声は唯一無二だった。まるで、ずっと探し求めていた音の欠片が、ようやく見つかったかのような、強烈な衝撃だった。そして、概要欄の孤独な一文に、ユウキは自分と共鳴する「魂の孤独」を感じ取った。
ユウキは、これまで大切に温めてきた自身の詞とメロディーを、ミオのこの声で歌われるためだけに形にしたいという抑えきれない衝動に駆られた。ミオのわずかな息遣いや、歌詞に込められた感情の機微までを想像し、心を込めて楽曲へと落とし込む。彼はミオの声に寄り添うように細部にまでこだわり、初音ミクに歌わせたデモ音源を完成させた。
そして、勇気を振り絞り、自身の匿名アカウントからミオの動画にコメントを残した。「もしよろしければ、僕の作ったメロディーと詞を歌っていただけませんか?」
たったそれだけの言葉に、デモ音源のリンク、そして**「もし採用いただけたら、作詞作曲者は伏せて、あなたのオリジナル曲として発表してほしい」**という、匿名を貫くための絶対条件が添えられていた。
ミオは、自分のひっそりとした活動を見つけてくれたことに驚きを覚えた。そして、添えられたデモ音源を再生した瞬間、彼女は、イヤホンを耳に入れたまま、しばらく画面を見つめた。夜の静かな部屋に、ボーカロイドとは思えないほど感情豊かな歌声と、楽曲の完成度の高さが響き渡る。その瞬間、彼女の目から、一筋の涙が溢れた。
「自分の歌声を理解して作られたかのようなその曲」に深い感銘を受けたミオは、「もしかしたら、この曲が、私の歌声を、この思いを、誰かに届けてくれるかもしれない」という秘めたる期待を抱き、ユウキとのコラボを承諾した。
そこから、二人の水面下の共同作業が始まった。ユウキは、ミオの歌唱データに対し、「息遣い一つに至るまで」微調整を求める。顔を合わせることなく、オンライン上でのやり取りだけで制作は進んでいく。お互いの素性は全く知らないまま、音楽を通して深く共鳴していく日々だった。
第三章:影と光の交錯
数週間後、完成した楽曲は、ユウキの絶対条件通り、ミオ自身の動画投稿チャンネルで公開された。作詞作曲者欄は空欄とされた。
楽曲リリースから間もない静かな時期。ユウキはミオの歌声を直接聴きたいという衝動、そして自分の曲がどう歌われているのか肌で感じたいという創作への抑えきれない欲求に駆られた。
人目を避けるように、ミオが普段路上ライブをしている場所にこっそりと足を運んだ。まだ観客はまばらで、彼の作った曲をひたむきに歌う彼女の姿を、ユウキは遠巻きに見守った。歌っているミオの顔は、長い髪にかかり、その表情を伺い知ることはできなかった。
ユウキは、ポケットにあった小銭を投げ銭のケースに入れ、ミオが手売りしている自主制作CDの中から一枚を購入する。代金を支払おうとミオが顔を上げたその瞬間、ユウキは言葉を失った。
信号が青に変わる瞬間、一瞬だけ彼女の横顔にスポットライトが当たったように、透き通るような肌、吸い込まれそうな大きな瞳、そして風に揺れる豊かな黒髪。モニター越しでは決して伝わらなかった、息をのむような美しさがそこにあった。歌声に魅せられていたはずが、気づけば、彼の視線はその横顔から離れられなくなっていた。
ミオが「ありがとうございます」とお礼を言おうと口を開きかけたが、ユウキは何も言葉を発せず、会釈をするのが精一杯で、そそくさと足早にその場を立ち去った。
彼は人ごみの角を曲がった場所で、一瞬足を止めた。振り返りはしなかったが、自分の心が、初めて「匿名ではない、生身の誰か」に強く惹かれていることを自覚した。彼が今手にしているCDには、まだ微かに、彼女の手の熱が残っている気がした。
第四章:輝きと影の道
ユウキが路上ライブを訪れた直後、ミオが歌う楽曲は突如として瞬く間に注目を集めた。再生回数は急上昇し、「この歌声は誰だ!?」「素晴らしい歌声だけど、この曲、一体誰が作詞作曲したんだ!?」——作者を巡る話題で持ちきりになった。
楽曲のヒットにより、ミオの路上ライブには、瞬く間に大規模な人だかりが形成された。無数のスマホのライトが光る中、ミオはユウキの楽曲を歌い終え、マイクを通して語りかけた。「そして、私の歌を信じて、この素晴らしい曲を託してくれた、まだ見ぬあなたへ…いつか、感謝の気持ちを直接伝えたいです。」
ミオの言葉を聞きながら、ユウキは人ごみの影に身を潜めていた。人だかりの中心にいるミオに、極度の人見知りである自分が近づくことは、ますます困難に感じられた。
楽曲の爆発的な人気を受け、大手レコード会社がミオにコンタクトを取り、同時に、ユウキにも連絡が入る。しかし、ユウキはすべての打診を固辞する。
ミオの事務所を通じて、**「この楽曲の権利が曖昧なままでは、公式なプロモーションに組み込むことは難しい」という意向が伝えられた。ユウキは匿名でいることを選ぶ。彼は、自分の冴えない存在が、ミオの音楽的キャリアに影を落とすことを恐れ、純粋な音楽性だけを守りたいという「聖域化」**の意識が働いていた。
こうして、公には存在しない「謎の作者」としての立場が確定し、メジャーデビュー後のミオの活動に、ユウキが一切関与することはないと決まった。
ミオはメジャーデビューを果たす。**しかし、彼女のメジャーデビュー曲はユウキの楽曲ではなかった。**ユウキの名前が公になることはない。彼の作った楽曲はミオを有名にした一曲として確かに存在し、ブレイクのきっかけとして語られることはあっても、権利の都合上、公式な場で歌われることは一切なくなる。
それでも、ユウキはテレビやネットのニュースを通してミオの活躍を見守っていた。自分の楽曲が直接デビューに繋がらなくとも、彼の作ったメロディーがミオの夢を叶える大きな一歩となり、彼女の歌声がより多くの人々に届くようになった事実。そのことに、彼は深い満足を覚えていた。
ミオはメディアで作者について尋ねられた際には、「いつか、直接お礼が言いたいです」と答える。ユウキは彼女の言葉に胸を締め付けられながらも、そっとPCを閉じる。「これでいい。この距離が、この音楽を、ミオの歌声を、最も美しく保つ距離なのだから。」
終章:それでも響く匿名メロディー
ユウキとミオが直接会うことは、永遠になかった。
ユウキはこれからも匿名ボカロPとして、ミオはメジャーアーティストとして、それぞれの道を歩んでいく。互いの顔も知らないまま、しかし、音楽という名の見えない糸で強く結ばれた二人は、これからもそれぞれの道を歩んでいく。ユウキが作った楽曲は、ミオの輝かしいキャリアの始まりを告げた伝説の一曲として記憶される。
ユウキの部屋に、再びキーボードを叩く乾いた音、マウスを操作するカチカチという音が響く。それは、もう虚しい音ではない。
彼は新しい楽曲の制作に取り掛かっていた。ミオの成功という光に触れたことで、彼の内面から湧き出た、より強烈な「孤独なメロディー」だ。
彼の作った匿名メロディーは、これからも見えない場所で、ミオの歌声の陰で、誰かの心に響き続けるだろう。そして、そのメロディーが、彼らの**「届かなくても、最も深く繋がった真実」**を、静かに語り続けている。
匿名メロディー Tom Eny @tom_eny
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