その次の日であった。結局、その日のうちにかくしごとを取っ払おうと思ってみたけど、実行に移せなかった日である。私が家に帰って自分のベッドの上でくつろいでいると、突然阿久津君がやって来た。半袖半ズボンの服装で、不思議なくらいに身軽でやってきた。もうすぐ夏だから、その先取りというやつなのかもしれない。こうやって家に来るときはいつも大きいバッグを背負ってくるというのに、今日はとっても身軽なのだ。

「あのさ、見せたいものがあるんだ。まだ、具体的に何を見せたいのかは教えられないけど、一緒に公園に来てくれないか。もういろいろな準備は終わってるんだ」

 阿久津君は必至そうに額に汗を浮かべていた。息もあがっていて、走ってきたことがすぐにでも分かる感じだった。

そういう姿があんまりにも素敵だったものだから、私はすぐにうなずいた。そうすると、阿久津君は私の腕を掴んで、強引に連れて行くように引っ張っていった。そういう阿久津君を私は知らなかったから、驚きだったけれど、不快感はなかった。どちらかといえば、心が高鳴るような気分に近かった。

 公園に行くまでの間は一言もしゃべりはしなかった。阿久津君の足取りは軽かった。ヒュンヒュンみたいなイメージ。でも、そんなに早くはなかった。とにかく急いでいるような雰囲気だけが私たちの間をムウンと漂った。その途中、公園へ行くには、それなりに段数の多い階段を上らなくてはならなかった。

「……ねぇ、今から何をするの?」

 私はそう聞いた。私たちの背中には、陽の重さが限界までのしかかっていた。太陽は雲に隠れることはなく、空は紅で満たされていた。こういうことは聞いては駄目だよ、と頭の中の誰かが、その影がずっと言ってきたけどれも、どうしても聞きたくなってしまったのだ。

「僕はロマンチストだと、君に伝えただろう。あれは、ほんの少しは本当だけれど、実はあの時の言説は全くもって嘘なんだ。いや、そういうわけでもないな。嘘というよりも、本当であっても、真意ではないってことなんだ。ちょっと難しいけど、僕の思いとか意識とかは少しだけ複雑だから、言葉にしようと思っても、ぴったりと収まるようなものにならないんだ。ごめんね」

 阿久津君は、自分の眼鏡を片手でクイと上げながら、口元を手で押さえた。

「それでもね、言葉にしたい。えっと、つまりはね、僕の中でロマンチストというのは、人に何かをあげられるような人間であると思うんだ。そして、それを絶対に教えないっていうのが、ロマンに当たると考えてるんだ」

「私に何かサプライズを用意しているみたいな言い方だね」

 何気なく、私からすれば鼻歌のような一言だったと思う。けれども、阿久津君は突然として掴んでいた手を離してきて、私たちは階段の中段あたりで立ち止まった。不思議に思っていると、阿久津君は体を思いっきり曲げて、こちらを振り返り、

「そんなんじゃないよ。そんなんじゃない」

 阿久津君は戸惑ったように、早口でそれだけ口にしてきて、すぐに前を向きなおして、そのまま階段を駆け上がっていってしまった。

なんだか、頭は良いのに、そういう所だけは私と同じなんだと思えて、頬が崩れるような感覚を覚える。どんどんと遠くなる阿久津君の背中が少しばかり滑稽に見えた。

 私がゆっくりと階段を上がっていくと、すでに阿久津君はいろいろと準備を進めていたようで、名前も分からない細長い機械を地面に置いて、それを目を大きく開きながら見ている。

「虹って知っているだろう?」

「うん、知ってるよ」

 私が、阿久津君のところに近づこうと歩いて行くと、二歩目を踏み出した瞬間に、こちらの方に手を伸ばして、

「まだ、そこで見ていてくれ」

 と、言いながら、近くの水飲み場に繋がれたホースを手に持った。一瞬だけ私の方へ向けたが、すぐに方向を変えて、蛇口をひねった。私の目の前に、放物線を描くように水しぶきの流れができている。

「すごいね。虹ができてる」

 驚いたことに、水しぶきには微かに虹が映っていた。阿久津君の魔術は、誰でも持っているようなホースから漏れ出ていた。しかも、阿久津君の魔法はただの虹を作るだけではなくって、その虹の上に逆さまの虹も作っていたのだ。

「阿久津君って、魔法使いなの?」

 私がそう尋ねると、阿久津君は微笑を浮かべ、すぐに真面目な顔をして、眼鏡をクイと上げた。

「簡単なことさ。まず、太陽光は白い光単体で構成されているんじゃなくて、様々な色の光、つまるところ波長が異なっているわけだけど、そういうものが重なってできた一つの集合体なんだ」

 阿久津君はホースを手に持ちながら、虹が写っている水の飛沫を指差して、

「水、ただの水ではなくて滴と言った方が正しいのかもしれないけど、それらがプリズムの働きをしていて、太陽光を分光しているんだ。さっきの説明と合わせると……」

 と、嬉しそうに語っていた。それから彼はとても楽しそうに語り続けた。やっぱり、何を言ってるのかは理解できなかったけれど、彼の見たことないような興奮の素振りを知れただけでも満足できるほどだった。

「でもね、僕はただの副虹を見せたいわけじゃないんだ。副虹で君を満足させる自信はなかったからね。だから、これを用意したんだ」

 阿久津君は、そう言いながら、地面に置いた機械のスイッチを入れた。目の前に水のカーテンがかかる。

「白く光ってる?」

 霧のように細かな水の躍動に映るのは、今まで見たことのない、白い虹だった。

「そうさ、これは白虹。実は雨粒の大きさも、虹の条件に関わる。粒が小さければ小さいほど、こういう神秘的なものが出来上がるのさ」

 かすかに残る虹の残り香は、儚く咲いている花のようにその場に漂っていた。それが例え人工であっても、ひたすらに美しかった。

「でも、阿久津君は何度も見たことがあるんでしょ?」

 私はいじわるな質問だと知りながら、阿久津君に聞いた。阿久津君は照れくさく笑うと、

「君とは見たことがない。昔、君がシャボン玉が素敵だと言っていただろう。あれを僕は思い出してね。それならば、君にもっと美しいものがあることを教えたかった」

 そんなことを考えていたんだな、と私は素朴に思っていた。

「でも、ただ教えるのはつまらない。言葉にしてしまうと、大体は伝わるけど、本当に大事な情緒とか心情とか、そういうのは伝わらない。そんなことを君にしたくない。だから、こういうふうにして君にあげたかったんだ」

 と、小さく呟いた。なんだか、私もそれっぽいことをつい先日、思い出していたから、人間というのは同じ生き物なんだと、単純に思ってしまうのだった。それから、しばらく一緒に眺めた後、私は水飲み場まで近づいて、ホースを手に取った。

「どうしたんだい?」

 阿久津君が不思議そうに尋ねるので、私はホースの口を彼に向けて、笑みを返した。

「ねぇ、まだ暑いんだから、水遊びしよ。今着てるのって、濡れてもいい服?」

 阿久津君は少しの間、立ち止まっていた。

「そうだね。濡れてもいいよ」

 私は、蛇口をひねった。空には再び虹が架かる。白虹ほど美しくはなかったけれど、一番鮮明に記憶に残るような、そんな虹だった。

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白虹 @kodohura

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