環境危機期

■ 概要


「環境危機期」とは、SF社会史における第6段階であり、地球が人間の外部ではなく、倫理的主体として登場する時代を指す。


1980年代後半から2010年代にかけて、気候変動・生態系崩壊・遺伝子改変・環境汚染といった現象が、人間社会の内部問題として意識化された。


本期は哲学的には「生態的転回(ecological turn)」と呼ばれる思想潮流と対応する。


ティモシー・モートンの「ハイパーオブジェクト(人間の理解を超える巨大な存在)」、ブルーノ・ラトゥールの「ガイア理論」、ジェーン・ベネットの「生きている物質(vibrant matter)」、そしてダナ・ハラウェイの「共生的存在論(sympoiesis:共に生成する存在の仕組み)」は、いずれも人間中心主義の限界を超え、地球を相互依存的な生命圏として捉える試みである。


SFはこれらの思想を物語として可視化し、「地球が語り返す文学」として展開した。


代表作としては、ジェームズ・キャメロン監督『アバター』(2009)、パオロ・バチガルピ『ねじまき少女』(2009)、マーガレット・アトウッド『オリックスとクレイク』(2003)、劉慈欣『三体』(2008)が挙げられる。さらに、伊藤計劃『ハーモニー』(2008)は「倫理による監視社会」という逆説的ユートピアを主題とした。


これらの作品は、異なる地域的文脈から倫理の地球化という共通主題を提示している。


科学哲学においても、地球システム科学や複雑系理論が台頭し、自然は単なる観察対象ではなく、自己調整的プロセス(オートポイエーシス的存在)として理解されるようになった。


SFにおける「地球を思考する知性」「惑星意識」「生態系の意志」は、こうした科学的世界像と深く共振している。


この時代のSFは、人間の理性ではなく、生態系の知性を中心に据える。理性は支配の原理ではなく、生命と非生命が共に生成し、調和するための倫理的関係性として描かれる。


環境危機期は、人間が「地球の外」に立って語る視点を放棄し、「地球の声を聴く文学」へと変わった時代である。



■ 1. 技術 ― 生命工学と地球修復のパラドクス


環境危機期の技術は、科学的合理主義期の「支配する理性」と、冷戦啓示期の「破壊する理性」の双方を経て、ここで「修復する理性」として再登場する。


気候工学(ジオエンジニアリング)、遺伝子編集(CRISPR-Cas9)、ナノテクノロジー、人工生態系再生など、技術は地球の環境を操作・回復する手段として開発される。だがその過程で、人間は「修復」と「支配」の境界を見失う。


マーガレット・アトウッド『オリックスとクレイク』(2003)では、遺伝子操作による新生命種の創造が、倫理的破滅を招く。人間は神のように創造しながら、責任の所在を見失い、「生命の管理者」から「生命の破壊者」へと転化する。この二重性こそ、環境危機期の技術の根源的テーマである。


パオロ・バチガルピ『ねじまき少女』(2009)は、バイオ技術による食料支配と遺伝的崩壊を描き、技術が「自然の再生」ではなく「再生の独占」と化す様を告発する。


同時に、技術は「倫理を試す実験」として機能する。人間は再び自然に介入しながら、その行為の意味を問い直す。


一方で、劉慈欣『三体』(2008)では、宇宙的スケールでの環境認識が提示される。人類は初めて、自らが宇宙の脆弱な生態圏の一部であることを自覚し、科学の全能幻想が「生存の謙虚さ」へと転換する。 科学が倫理の対象となる時代――それが環境危機期の根幹である。


SFにおける技術は、もはや進歩の象徴ではなく、「地球が人間を再教育するための装置」となる。その象徴が「修復」と「贖罪」という語であり、人間は技術を通じて自らの罪を理解する。


技術がこのように倫理的装置と化したとき、次に問われるのは「人間の自由」の意味である。自由とはもはや「自然を支配する能力」ではなく、「自然と共に変化する能力」へと変わる。



■ 2. 自由 ― 共生する主体の再構築


環境危機期における自由は、近代的自律の理念を超えて、「共生の中の自由」として再定義される。


それは自然との関係性を断ち切ることで成立する自由ではなく、他者や環境と関係を結び直すことによって生まれる自由である。


伊藤計劃『ハーモニー』(2008)では、人間の健康が社会倫理として制度化され、自由は「他者を害さないこと」として限定される。


ここで自由は、善意と制御が一体化した「管理された共生」として描かれ、個人の自律は「全体の安定のための部分的自由」に変わる。これは倫理的幸福と個的自由の緊張を象徴する構図である。


ジェームズ・キャメロン『アバター』(2009)では、自由は自然との融合=ナヴィ族の生命連鎖的共同体意識として描かれる。ここで自由とは、分離ではなく「一体化による選択」であり、人間の意識が他者の生命の中に拡張していく過程で獲得される。SFはこのように、自由を「関係の強度」として再定義する。


この概念は哲学的には、フェミニスト環境思想家ヴァンダナ・シヴァの「相互依存的自由(interdependent freedom)」と響き合う。


彼女が指摘するように、自由は独立の名のもとで他者を搾取する権利ではなく、共に生きるための倫理的能力である。


環境危機期における自由は、「選択」ではなく「応答」である。人間は環境に対して応答し、共に変化する責任を負う。この「応答としての自由」は、次に論じる「正義=地球的関係の回復」へとつながる。



■ 3. 正義 ― 地球的関係の回復


環境危機期における正義は、もはや人間社会の法秩序を超え、地球全体のバランスを回復する倫理として定義される。


ここで正義は「人間にとっての善」ではなく、「生命圏にとっての調和」であり、存在の総体がいかに共存し得るかが中心的問いとなる。


マーガレット・アトウッド『マッドアダム三部作』(2003–2013)では、人間が生み出した遺伝子生命体「クラッカー」が、旧人類の倫理を乗り越えた新たな秩序を形成する。


そこでは、人間が失った正義――すなわち「生命の多様性を維持する力」――が、非人間的存在によって回復される。この視点の転換こそが、環境危機期の正義の本質である。


SFが描く地球的正義は、単なる道徳的善ではなく、「破壊された関係を修復する実践」である。


アーシュラ・K・ル=グウィンの晩年作『赦しへの四つの道』(1995)では、破壊された惑星の再生が「赦し」の行為として語られる。正義とは、罰や裁きではなく、「再びつながること」そのものである。


この「修復の倫理」は、科学哲学における複雑系理論とも共鳴している。地球を自己調整的システムとみなす地球システム科学は、環境変動を「調和を回復する動態」として理解する。


SFはこの科学的視点を倫理へと拡張し、「人間を含むシステム全体が再生を志向する」未来像を描く。


ティモシー・モートンの「ハイパーオブジェクト」概念――気候変動のように人間のスケールを超える存在――も、SFの表現と親和性が高い。


『インターステラー』(2014)では、地球が人間を拒絶するように環境崩壊が進行し、「正義とは誰が救われるか」ではなく、「どの関係が持続しうるか」へと倫理的焦点が移行する。


この時代のSFは、正義を「時間と空間を越えて他者と結ぶ責任」として描く。それは冷戦啓示期の「他者への応答倫理」が、惑星的規模に拡張された形である。


この地球的倫理は、次に論じる「支配=環境の名による統治」という新たな矛盾を生む。



■ 4. 支配 ― 環境の名による統治と倫理的暴力


環境危機期における支配は、暴力ではなく善意と保護の名のもとに行使される倫理的支配である。人間は「地球を守る」という正義を掲げながら、その行為によって他者の生を制御し始める。


伊藤計劃『ハーモニー』(2008)では、「健康」と「倫理」が国家の基盤となり、人々は幸福を強制される。ここでは倫理が支配の言語となり、善が暴力へと転化する。人間の身体はもはや個人の所有ではなく、社会の秩序を維持するための公共的資源となる。


この「環境的支配」は、冷戦啓示期の情報管理社会の延長上にある。かつてはデータが支配したが、この時代には「環境と生命」が支配の根拠となる。管理社会が「倫理社会」へと変化し、監視の道徳化が進行する。


同時に、気候変動への対策や資源の分配をめぐって、「誰が地球を代表するか」という政治的問題も生じる。環境保全の名のもとで、先進国が発展途上国に制限を課す構造は、新しい植民地主義(エコロジカル・コロニアリズム)として批判されている。


SFはこの矛盾を「惑星管理社会」として描く。たとえばキム・スタンリー・ロビンスン『火星三部作』(1992–1996)では、テラフォーミング=惑星改造が「生態系の自由と人間の支配」の対立構図を象徴する。


科学哲学の文脈では、ブルーノ・ラトゥールの「ガイア理論」がこの問題を照射する。ラトゥールにとって地球は単なる自然ではなく、人間行為に反応する政治的存在(アクター)である。


SFが描く地球は、もはや舞台ではなく登場人物であり、倫理と支配の間で人間と対等な主体として振る舞う。


この時期、支配の形は「理性による制御」から「倫理による調整」へと変化した。その結果、SFは「倫理の暴力」を描く文学となる。正義が暴走するその先に、どのような人間性が残るのか――それが次節の核心である。



■ 5. 人間性 ― 共生する知性と非人間的倫理


環境危機期における人間性は、もはや「理性」や「自律」ではなく、共生する知性として再定義される。人間は自然の中心ではなく、無数の生命・物質・情報の関係網の中に編み込まれた一つのノードにすぎない。


この「共生的主体(sympoietic subject)」は、情報意識期のネットワーク的自己の拡張形であり、倫理を他者だけでなく環境・物質・非生物へと広げる。


ジェフ・ヴァンダミア『全滅領域』(2014)では、人間が自然に侵食され、境界が失われていくなかで「自己とは何か」という問いが生態的視点から再構築される。人間は環境の一部として再吸収され、個体的意識は「環境的意識」へと変化する。


ここで描かれるのは、人間が自然に支配されるのでも、融合するのでもなく、自然とともに生成しつづける知の形式である。


この「共生する知性」は、科学哲学における自己組織化理論やオートポイエーシスの延長線上にある。生命や社会は閉じたシステムではなく、環境とのやり取りによって自らを生成し続ける存在である。SFはこれを感覚・倫理・物語の次元で描き、科学が提示した構造的世界像を倫理的比喩に転換した。


さらに、ダナ・ハラウェイの提唱する「共生的存在論(sympoiesis)」は、人間と非人間、技術と自然が協働的に未来を生成する思想であり、環境危機期のSFが展開する「共生の物語」と同調する。倫理はもはや人間の良心ではなく、世界の生成過程そのものに内在する性質として描かれる。


また、ティモシー・モートンが唱える「ダーク・エコロジー」――人間の感情や倫理の根源に自然の不気味さ(the uncanny)が潜むという概念――は、環境SFにおける不安と崇高さの感覚を理論的に裏付ける。自然はもはや善でも悪でもなく、倫理を触発する他者そのものなのである。


環境危機期のSFは、こうした「非人間的倫理」を描く。人間性は他者との共感ではなく、「他者に含まれる自分」を自覚することによって成立する。


倫理とは、分離を超えて「つながりを意識する能力」であり、その意識の地平が次のポストヒューマン期へと連続していく。



■ 締め


環境危機期は、SF社会史における「倫理の地球化」の時代である。


科学的合理主義が到達した支配の極点に対し、この時代は「共存と修復の知」を提示した。人間は地球の外部ではなく、地球の自己理解の一部であるという思想がここで確立する。


この時代のSFは、地球を倫理的主体として描くことによって、科学・哲学・文学の境界を越える「惑星的叙事詩」を形成した。


それは啓蒙の終焉後に訪れた、新しい理性の物語であり、人間が自然を理解する物語ではなく、自然が人間を理解する物語である。


科学哲学史の観点から見ると、この時期は「複雑系」「自己組織化」「地球システム科学」の発展と並行し、自然観の根本的転換が進行した時代である。


知はもはや観察の手段ではなく、世界に参与するプロセスとして再定義され、SFはその思考を文学的かたちで体現した。


環境危機期の思想は、次のポストヒューマン期への橋をかける。すなわち、倫理の地球化がさらに拡張し、生命と人工知性が共に思考する時代へと進む。


ここで問われるのは、人間が中心であった倫理ではなく、「どのような存在が世界と共に生きうるのか」という惑星的倫理である。


したがって、環境危機期はSF社会史における転回点であり、「人間の倫理」から「生命の倫理」への移行を描いた思想的極点である。SFはこの時代、技術でも理性でもなく、地球そのものが語る声に耳を傾ける文学となった。


ここに至り、SF社会史の理性は、ついに自らの外部――自然・環境・惑星――を思想として受け入れる。


この受容の動態こそが、次の時代「ポストヒューマン期」への出発点である。

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