夢想萌芽期
■ 概要
「夢想萌芽期」とは、SF社会史における最初の段階であり、科学的想像力が文学的形式を得て社会思想として萌芽した時代である。
19世紀初頭、啓蒙主義の遺産とロマン主義的感情が交錯し、人間が自然を理性によって制御できるという近代的信念が確立された。
この時代は、19世紀前半に形成されたオーギュスト・コントの実証主義に代表される「理性への信仰」が社会を支配し、その信仰を文学的想像によって可視化・批判したのがSFであった。
同時に、その力の行使がもたらす倫理的越境――生命創造・機械支配・自然の神秘の侵犯――への恐怖と魅惑が並立する。
この時期のSFは、科学的合理性と宗教的畏怖、進歩の理念と倫理的罪責の緊張のなかに成立する。
メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』(1818)に見られるように、「創造する理性」は人間の傲慢を映す鏡であり、ジュール・ヴェルヌ『海底二万里』(1870)や『地底旅行』(1864)においては「探究する知」が文明の拡張を象徴する。
また、エドガー・アラン・ポー『メロンタ・タウタ』(1849)は、科学的進歩への風刺を通して、近代理性の滑稽な自己模倣を描いた。
したがって夢想萌芽期は、「技術の祝祭」と「倫理の危機」が未分化に共存する原点であり、SF社会史の思想的地平を開く時代である。
ここに確立された「理性への信仰とその批判」という構造は、のちの科学浪漫期における理性の制度化を準備した。
■ 1. 技術 ― 理性の創造と畏怖の鏡
夢想萌芽期における技術は、人間理性の可視化であると同時に、自然への冒涜としての側面をもつ。
『フランケンシュタイン』において科学は生命創造の神的領域に踏み込み、創造主としての人間の傲慢と孤独を暴露する。
一方でジュール・ヴェルヌの科学冒険譚――『月世界旅行』『海底二万里』――は、技術を啓蒙の象徴とし、「未知を征服する理性の力」として描く。
ここに見られるのは、科学的理性の二重性である。それは進歩を駆動する原理であると同時に、倫理的制御を欠けば破壊へと転化する潜在力を孕む。
この時代、技術はまだ社会制度としての科学ではなく、「個人の探究」として描かれた。ゆえにそこでは、発明家・科学者・冒険者が神話的英雄のように登場し、理性の力と道徳的責任が個人の内面で衝突する。
技術の描写は、単なる機械的装置ではなく「人間精神の延長」としての意味を帯びる。電力・蒸気・機械は、理性の象徴であると同時に、「自然を制御しようとする欲望そのもの」の寓意でもあった。
ヴェルヌの後期作品『征服者ロビュール』(1886)では、飛行機械を用いる技術者が文明の秩序を脅かす存在として登場し、啓蒙の光の中にすでに支配の影が潜むことを示している。
また『神秘の島』(1874)では、理性による秩序再建が理想的に描かれ、啓蒙主義的統治の夢が最も明確な形で実現される。
したがって夢想萌芽期における技術は、啓蒙の理念とロマン主義的感情が交錯する象徴的言語として機能し、のちの科学倫理やAI問題の遠い原型を形づくる。
この技術の二重性こそが、次に「自由=越境」の理念を生む基盤となった。
■ 2. 自由 ― 探究と越境の衝動
夢想萌芽期における自由は、政治的権利よりもむしろ「探究の自由」「未知への越境の自由」として理解された。
産業革命による社会変動は、階級・職業・性別といった既存の制約を揺るがせ、個人が理性によって運命を切り拓く可能性を提示した。
この自由は制度的保障ではなく、冒険と創造を通じて獲得される精神的経験である。
ジュール・ヴェルヌ作品の主人公たちは国家や秩序の枠を超え、科学の力で世界の極地を探る。その行為は啓蒙的合理主義の実践であると同時に、「知ること」の危険を体現する。
『フランケンシュタイン』のヴィクターが示すように、知への自由は倫理的境界を侵犯する危険を孕み、「自由=越境」の理念が悲劇と不可分であることを示している。
この時代の自由は、未だ社会制度の中で保障される「権利」ではなく、自然や神的秩序との緊張の中で生成する存在論的自由であった。すなわち「存在論的自由」とは、外的制度ではなく主体の探究行為そのものに基づく自由である。
そこでは、個人の理性が秩序から離脱し、自らの探究によって新たな世界像を構築する――それゆえにこそ、自由は創造と破壊の両義的契機としてSF的想像力の中心に据えられる。
この自由の越境衝動は、次に「正義=創造の責任」という倫理的覚醒を呼び起こすことになる。
■ 3. 正義 ― 倫理と創造の境界
夢想萌芽期における正義は、科学の力に対する倫理的制御の問題として現れる。『フランケンシュタイン』では、創造主が自らの創造物に責任を負わないことが悲劇を招く。
ここで問われているのは、「人間が自然法則を操る権利をもつのか」という根源的倫理である。すなわち正義とは、法や制度による規範ではなく、創造に伴う責任意識の覚醒として描かれる。
一方でジュール・ヴェルヌの物語世界――『地底旅行』や『海底二万里』――では、科学は人類全体の進歩と幸福に奉仕するべきものであるという啓蒙主義的正義感が支配的である。
だがその背後には、文明化と征服の同一化という暗い影が潜む。探検は未知の開拓であると同時に、他者の領域への侵入でもある。
この矛盾は、のちのSFにおける「テクノロジーによる支配」と「倫理的救済」の対立を先取りしている。
夢想萌芽期の正義は、理性の力を善悪いずれにも転化し得るものとして捉える倫理的緊張の始点であった。科学は祝福であると同時に、罪の契機でもある――この両義性が、SF社会史全体に通底する道徳的問いの原型をなす。
この倫理の覚醒は、次に「支配=秩序の理性化」という近代的構造を導く。
■ 4. 支配 ― 科学と秩序の構造
夢想萌芽期の社会において、支配はまだテクノロジー的統制の制度ではなく、「秩序の理性化」という思想的態度として現れていた。
産業革命による工場制度、都市化、通信技術の発展は、人間生活を合理的機構へと再編し始める。SF的想像力は、こうした新しい秩序を「統治の夢」として描き出した。
ヴェルヌの科学者や発明家たちは、しばしば社会制度の外部に立ちながらも、知の力によって世界を設計し直す。彼らは一種の「理性的支配者」として、技術的世界の秩序を構想する。
しかし同時に、その秩序は人間の感情や自然の不確定性を排除する危険を孕む。ここに、のちの「科学的合理主義期」に展開される合理主義と支配の二重螺旋が萌芽する。
夢想萌芽期の支配概念は、単なる権力ではなく「理性による世界設計」の理念に結びついていた。
ゆえにそれは啓蒙的でありながら、無自覚に管理社会の原型を孕む――秩序の名のもとに自由を制限する可能性を、すでに内包していたのである。
この理性による秩序の夢が、次に「人間性=反省の鏡像」という思想的回帰を促す。
■ 5. 人間性 ― 創造主の影と機械の魂
すべての夢想萌芽期の物語は、最終的に「人間とは何か」という問いに回帰する。
『フランケンシュタイン』の怪物は、人間が創造した「もう一つの人間性」であり、その存在は倫理・感情・孤独を通じて創造主自身を映し返す鏡である。
ここで人間性は、理性や文明によって定義されるものではなく、苦悩・共感・責任といった感情的次元において再発見される。
ヴェルヌの冒険譚――『月世界旅行』や『神秘の島』――においても、人間性は「知を求める衝動」として描かれるが、それはしばしば自然との境界を侵犯する危険を伴う。
この時代のSFは、人間が神の位置を奪うという恐怖を通じて、人間性を有限性の自覚として再構築した。すなわち「人間とは理性によって世界を操る存在ではなく、理性の暴走を恐れる存在」である。
夢想萌芽期の人間像は、のちのAI・クローン・サイボーグをめぐる議論の原型を提供する。そこでは、創造された存在が創造主を問い返すという構図がすでに提示されており、人間性は固定的本質ではなく「反省と責任の構造」として定義されている。
この「創造物の反逆」という主題は、のちのAI倫理や『エクス・マキナ』(2015)『ハーモニー』(2008)における「自己を観察する機械」の思想的原型ともなる。
■ 締め
夢想萌芽期は、SF社会史における「倫理的想像力の誕生」である。技術は理性の象徴でありながら恐怖の鏡でもあり、自由は創造の衝動と越境の危険を内包する。
正義は創造の責任として覚醒し、支配は秩序の理性化として始まり、人間性はその全体を反省する影として浮かび上がる。
この時代に確立された「科学と倫理の緊張構造」は、以後のSF社会史を貫く思想的骨格を形成した。
夢想萌芽期は、まだ科学が宗教的畏怖と不可分であった時代であり、理性と神話、進歩と罪、創造と破壊がひとつの円環をなしていた。
この円環は、科学が宗教の神話的想像力を継承しつつ、その神を置き換える過程を象徴している。その中心で、人類は初めて「未来を想像することの倫理的代償」を意識したのである。
SF社会史の全展開は、この夢想萌芽期に蒔かれた倫理的問いの種――「理性はいかにして自らを制御し得るか」――への果てなき応答として続いていく。
そしてこの問いが、やがて「理性が制度へ、制度が懐疑へと転じる」科学浪漫期への思想的扉を開くことになる。
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