小さな逃避行3 ― 発表会の日に ―
その日は朝から少し緊張していた。
B級グルメ特集の発表会が、午後から社内のホールで行われるのだ。
広報誌の紙面だけでなく、SNSや地域連携サイトにも展開される今回の企画は、社内外から注目を集めていた。自分が関わった特集の中でも、ここまで反響があるのは珍しい。
机の上には、校了したばかりの誌面見本と、取材ノート。そして、あの日の小さな逃避行で訪れた「みなと食堂」のレシートが、まだしおり代わりに挟まっていた。
――この一枚の紙切れから、今日の日までが繋がっている気がする。
発表会の準備は慌ただしかった。映像チームが撮影したスタンプラリーの様子がスクリーンに流れ、協賛店舗の代表たちが前列に座る。
そして、いよいよプレゼンテーションの番がやってきた。
「今回の特集では、“街の人たちがつくる味”をテーマにしました。一見地味なローカルフードも、誰かの毎日の中で光っている。 取材を通して、それを改めて実感しました」
話しながら、取材先の笑顔を思い出していた。
汗をぬぐいながら焼きそばを焼く店主、昼休みに行列を作るサラリーマン、そして隣の席で冊子を広げていた老夫婦。
――“食べることは、生きること”。
自分の中に自然と湧いた言葉が、スライドの最後にそっと浮かんだ。
発表が終わると、小さな拍手が起きた。思いがけず、協賛店舗の方達が、「うちの店もたくさんお客さんが来ましたよ」と笑ってくれた。それだけで胸が熱くなった。
会場の片隅で、例の嫌味な上司が腕を組んでこちらを見ていた。目が合うと、ほんの少し口角を上げて言った。
「悪くないプレゼンだったな。……次は“うどん特集”だっけ?」
「はい。埼玉の取材、行ってきます」
「辛口のレポートを頼むよ」
その言葉は、もう嫌味には聞こえなかった。
発表会が終わった後、気持ちを整理するように駅まで歩いた。夕方の空はうっすらと茜色に染まり、線路沿いの風が少し冷たい。改札を抜けてふと電光掲示板を見ると、見覚えのある路線名が目に入った。
――JS-TC外回り線。信号確認のため遅延
あの日、有名車掌の声を聞いた電車だ。たまたまタイミングが合い、帰りの電車で乗り合わせた。
「偶然って、続くものなのね」
意外な路線の案内を見て、心の中でつぶやきながら電車に乗り込むと、自動放送が流れた。
「本日もJS-ST線をご利用いただきありがとうございます――」
変わらない、穏やかで聞き取りやすい声。
いつも利用しているJS-ST線は、ほとんどが自動放送だった。その声に対して感情が動くことなどなかった。
そんな中ふと、この間の休暇でJS-TC外回り線に乗車したことを思い出した。
出発駅の次の駅で、停車中の車内が少しざわついた。スマホを構える人も多かった。ドア越しに見えるホームで、彼が乗務室から姿を現し、丁寧に身振りで安全確認をしている。
TVで見た動作は実際に近くで見ると、やはり美しかった。
発車のベルが鳴り、電車がゆっくりと動き出す。その瞬間、彼が何かに気づいたように顔を上げ、こちらを一瞬だけ見た。
目が合った――ような気がした。
気のせいかもしれない。けれど、ほんの一瞬、彼の口元が柔らかく笑ったように見えた。
心臓が小さく跳ねる。
窓の外に流れる街の灯りが、さっきまでよりも少しだけ輝いて見えた。
電車が終点に着くころには、胸の中が不思議な静けさで満たされていた。
今日の出来事もまた、きっとあの“逃避行”と同じ。日常のほんの一瞬に生まれる、小さな奇跡のような時間。
降り際、車内に流れた最後の放送が、まるで今日という一日の幕を下ろす言葉のように聞こえた。
「本日もご乗車ありがとうございました。今日という一日が、皆さまにとって良い日でありますように。」
彼の声が、まっすぐに胸の奥へと届く。
降車駅の自動放送に現実へ引き戻されながらも、まだその響きが耳の奥に残っていた。
――はい、いい日でしたよ。
誰にも聞こえないように、そっとそう返してホームに降り立った。
ホームの端には、冷たい風が吹き抜け、山茶花の花びらがひとつ、足元に転がっていた。吐く息がうっすらと白くなる。街路樹の枝先には、冬の光が淡く差している。
季節がひとつ巡っても、またこうして誰かの声が、心を少しだけ動かす。
――そしてそれが、生きていく理由になるのかもしれない。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます